病識欠損?」
「簡単にいえば、患者が自分自身の異常を認めない状態のことです。自覚症欠如ともいいますね。こっちのほうがわかりやすいかな」
妖精が見えるという異常に気付いていないってことか。でもあの子は妖精が見えると言えば異常に見られるだろうということはわかっていたと思うけど」と少尉は言う。ふたりは歩き続けて、戦前の航空機が並ぶエアポートのところに来ていた。


「わたしが病識欠損といったのは、妖精が見えるということについてではありません。彼が知った情報について、それが妖精を通して齎されたものであると考えていることが問題なのです」
「言っている意味がよくわからない」少尉は肩を竦めた。「おれは大学出じゃないんでね」
「わたしもですよ」
「なにが問題だって?」
「たとえばですね、彼が鴉を撃ったときのことを思い出して話してもらったことについて考えてください。彼は『Sumikaの悲鳴が聞こえたから、危ないと思って振り返って撃った』と言いましたね? Sumikaという妖精が危ないと思って、と」
「そうだったっけ」
医師は少尉の言葉を無視して続ける。「ですが彼に訓練をつけていた兵士によれば、彼は急に振り返って鴉を撃ったと言っていました。もちろん妖精の悲鳴は聞こえなかったし、さらに付け加えれば、鴉がそこにいたということも彼が撃つまで気付かなかった。羽音も聞こえる距離ではなかったし、鴉は鳴いたわけではなかったと言っていました。ではなぜ彼は鴉の存在に気付き、撃つことができたのか?」
妖精の悲鳴が聞こえたから?
「もちろん妖精が本当に実在しているのであれば、そうなのでしょう。ですがそんなものは実在しないし、万が一実在したとしてもわれわれには知覚できない。それならば存在しないのと同じだ」

医師の言葉を聞いて、地に落ちていたわたしの心はさらに落胆し、地殻へと潜った。悲しみを感じた理由は、ひとつは最初からわたしのような存在がありえない前提で会話を進められていたため、もうひとつは知覚できないのだれば存在しないも同然だということを改めて言われたからだった。

医師は言葉を続けた。「ではなぜ彼が鴉の存在に気付いたのかというと、鴉の羽音や鳴き声を聞いたからです」
「羽音や鳴き声はしなかったんじゃなかったっけ?」少尉が茶化すように言う。
「それはSilasの訓練をつけていた兵士がそう言っただけです。彼には聞こえなかったんですよ。でもSilasには聞こえた」
「それはあの子が物凄い聴覚をしているってことか? 針の落ちた音でも聞き分けられるとか、可聴領域外の超音波が認識できるとか」
「彼だけが特別なわけではありません。人間は誰でも自覚している以上の音や光を捉えている。ただ自覚していないだけで。彼の場合は、それが妖精という架空の生物を通して見え、聞こえるようになったというだけのことです」
「よくわからん。もっと簡単にならない?」
「人間は認知しているよりも多くの光や音を捉えていますが、そのうち識閾上におかれる情報はごく僅かです。なぜかというと、おそらくそうしなければあまりにも多くの情報がありすぎて、処理がしきれなくなってしまうためだといわれています。しかし彼の場合はその閾外の情報を妖精という架空の生物を中継することで得ることができます。この妖精という生物を認可し、情報の選別に使っていることを自覚しないことが彼の病識欠損だということです」
「今のが簡単な説明だったのか?」
「短くはまとめました」
「長くても良いから簡単に」
「彼は妖精が見えるという仮定を前提に入れた処理を知らず知らずのうちにしているということです」
「なるほど」と少尉は頷く。
「わかりましたか?」
「わけがわからんということがわかった。それで、治療はできそう? 原因は? ストレスかなにかか?」
「似たような症状を発症した記録によりますと、おそらく脳の物理的な障害によるものだと思いますが……」
少尉は驚いた表情になる。「脳に障害はなかったんじゃなかったのか?」
「あくまで銃弾は頭蓋骨を貫通しなかったし、脳内出血の危険もなさそうだったというだけのことです。脳は戦前の科学でも未踏の領域でしたし……、撃たれたことでどんな影響が起こったかはわかりません。命に関わることはないでしょうが……、治療は難しいかもしれません」
「なるほど。命に別状はないと」少尉の男は頷き、次に意外なことを言ったので耳を疑った。「じゃあ治療はしなくて良いよ」

医師もSumikaと同じく少尉の言葉に驚いたようで、目を見開いて「は?」と言った。

「治療はしなくて良い。ただ脳に血腫ができていないかとか、そういった命に関わるような問題が起きていないかどうかは改めて精密検査してくれ。問題がなければ元に戻して良い。また訓練を続けさせる。司令にもそう伝えておく」
医師は躊躇うように唇を湿らせてから「あなたはなにを考えているんですか?」と言った。
「彼は、つまり、妖精という存在を介して遠くの音や背後の様子を伺うことができるというだけだろう? それならば何も問題はない」

わたしは一瞬、少尉の言葉に希望を持ちかけた。
しかし心の中から厭な想いが湧き上がってくる。そんなはずがないと叫んでいる。油断をするな、身構えろ、と。

医師は滑走路の戦前の飛行兵器を眺めて言った。「あなたは彼を兵器として扱うつもりですか? 彼の閾外のことを認知できるという病状を利用して……」
「彼は兵士になりがたがっている。Legionを倒したいと望んでいる。だったらそれで良いだろう。志願するものは受け入れる。それがNCRだ」
少尉は努めて当然だという表情を作っているように見えた。
「あの子は兵器じゃない。Silasには治療が必要だ
「そう、兵器ではない。兵士だ。そして彼の治療はできない。それはドクター、あなた自身が言ったはずだ。あなたには高度な脳の治療をする技術はないし、そんな設備もない。それに命の危機に瀕する病気というわけでもない。心に傷を負った兵士など珍しくもない。基地には医師がいるかもしれないが、銃弾の飛び交う戦場に立たされれば心に傷を負ったからといって逃げることは許されないし、そんなことをうだうだ言っていたら撃ち殺されるだけだ」
「少尉、あなたのやろうとしていることは人権に反することだ。NCRの反している」
「わたしは彼の意思を尊重しようとしているだけだよ。彼の処遇については、基地司令から一任されている。頼むよ、ドクター」

わたしはSilasの元に一目散に飛んでゆき、逃げるようにと言った。
彼は目を丸くして驚いていたが、詳細を聞くとにっこりと笑った。「良かった」と。
「なにが? 逃げないと、きみはNCRの兵士にされちゃうんだよ? あの人たちは、きみの言っていることをまったく信じていない上で、利用しようとしている」
ぼくはそうなりたいんだ。NCRの兵士になって、強くなって、Aniseを取り戻したい。それがずっとぼくの夢だったこうありたいっていう夢だったんだ。だからあの人たちがそう言うんだったら、ここで訓練を積みたい」Silasはちょっと躊躇ったように続けた。「もちろんきみが厭じゃなければだけど……、一緒に
「一緒に? どうして?」
「きみがいればいろんなことがわかるし、それに、ぼく以外の誰にも見えないんでしょう? それなら寂しいじゃない」

わたしは心を動かされた。
思えば、わたしがもっと強くて、このときもっと強く引きとめられていれば、Silasの行き先も変わったのかもしれない。彼の強く執着するかくあらねばという夢を変えられたのかもしれない。
でもわたしは止められなかった。あまりにもその笑顔が愛おしくて、苦しくて、心が締め付けられて、恋に落ちたような気持ちだったから。

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