15-092U《トポカの眠り猫》
神秘的な瞳を持つその猫が居眠りしながら見る夢は、イースラの神主や巫女たちが言うには、別世界の現実につながっているのだという。


 蝉の音がそこらじゅうから響いているのはミスルギにとっては日常的なことではある。であれば、本土からこの島にやってきたばかりのこの男にはこの島の風土や生物は珍しいのかもしれない。であれば、歩きながらきょろきょろと見回すのもわからないでもない。
(召喚英雄ねぇ………)
 からりからりと下駄を鳴らし、周囲を眺め回しながら団扇で仰ぎながら歩を進めるその姿はただの痩せた中年男だ。ミスルギは坂を先行していたが、ときどき男――《寺田寅彦》が足を止めるために引き返さなければならなかった。

 男が足を止める理由は、だいたい道端の何かを観察して、だった。その観察対象が相応に物珍しいものならば、まぁ納得できないでもないのだが、彼が疑問を持ち観察を始める対象というのが――ここがミスルギの生まれ育った島だということを抜きにしても――もの珍しいとは言い難いものばかりだったので、ミスルギはだんだん苛々してきた。このままでは目的地に着くまでに陽が暮れそうだ。
 案内をするとなったとき、どこを案内してほしいのかと聞いてみたが、寺田の回答は要領を得なかった。なのでミスルギのほうから港と中腹にある本家の屋敷と頂上の神社と、この中だったらどこが良いのか、と。すると、神社という答えが返ってきた。
「まぁ、とりあえずいちばん上に行ってみたいですね」
 自分から見物に来たいと言ったくせに、とりあえずとはどういうことだ――という言葉をミスルギは呑み込んだ。いちおう、客だ。ここで手荒に扱えば、また親父殿からどやされることは間違いない。

 前を向いて坂を昇りながらも、寺田がまた立ち止まったことは足音でわかる。彼は道端に生えていた桃色の花に視線を留めていた。島ならどこにでもあるような花だ。
「この花はなんという花かな?」
「ウミツバミ」とミスルギは短く答える。
「色は桃色だけ? ほかの品種もあるのかな?」
「白いのとか赤いのとかもあります。品種は知らない」
「なるほど」
 と言いながら寺田が袂から取り出した冊子は、どうやらスケッチ帳らしい。鉛筆で素早くそこに線を引いていくが、横目で描かれたものを見ると、いちおう相応に目の前の物体を描き出しているといえなくもないが、上手いとは世辞にも言い難い。
「あなたは学者だと聞いたが、植物学者なのですか」
 と手持ち無沙汰になったミスルギが尋ねると、寺田は手を止めずに返答を返した。「学者……学者ね。まぁ学問はやっていますよ。主に、惑星物理かな」
「惑星物理………?」
「えーと、つまり、大気だとか、海だとか、陸地だとか、そういったものを研究する学問」
「花もそうなのか?」
「いや、花は惑星物理ではないね」
 じゃあそのスケッチはなんだ、趣味か、それにしては下手だな、と言いそうになった。

「さて、行きましょうか」と寺田はスケッチ帳を閉じると、勝手にさっさと歩き出した。
 その後も何度か寺田は立ち止まって、道端の木樹や花や虫について質問をし、観察したり、スケッチをしたりした。17年間育った島とはいえ、そこらの動植物のことまでは知らないので、いちいち質問に答えるのには苦労した。
 ようやく山頂の神社に辿り着く。海神エン・ハを祀るこの社の来歴は古く、この群島に蒼眞勢が移り住んでくる前からあると言われているほどの歴史的な遺物だ。とはいえ蒼眞勢しかいないこの島であれば、雑草を抜いたり社を清掃したりする程度の管理は行われてはいるものの、満員の参拝客は望めない。社の手前の朱の鳥居の下の日陰で、海色の毛皮を持つ猫が眠っていた。

「ほぉ、これは………」
 刺激しないようにか、寺田は大仰なくらいに足音を忍ばせて猫に近づいていくが、覇力を察知して悪意や害意を感じ取るあの猫には、そのようなことは必要ない。ミスルギは敢えて足音を立てて近づいてやった。
《トポカの眠り猫》です。触れるくらいに近づかない限りは起きません。本土のほうにもっといたのでは?」
「いたね。これは……ここからトポカのほうに渡ったのかな? それともトポカのほうからこっちへ?」
「本土から船に乗って島々に拡散したって聞いたことがあるような………精霊力の強いところしか居着かないらしいから、本土以外だとたくさんいるのはこの島くらいですけど」
「なるほどなるほど」
 と頷きながら寺田は例によって猫をスケッチし始める。ミスルギは日差しを避けるため、一歩下がって鳥居の陰に入り、寺田の下手な絵を眺めているだけでは暇だったので質問を投げかけてみる。
「あなたは猫の研究でこの島に来たのか?」
「いや、そういうわけではないよ」
「では、覇力の研究か」
 覇力。運命を捻じ曲げる力。学問について疎いミスルギでも、それが現在のイースラで最も盛んにおこなわれている研究テーマであるということくらいは知っている。軍事に多く利用されており――というより、軍事利用するために研究されているのだが、《覇力発生装置》なんてものもあるくらいだ。
 が、寺田は首を振って応えた。
「じゃあなんの研究で来たんだ」
「研究で来たわけではないのでね。もしかすると、研究に関連するかもしれませんが」
「……あなたは学者なのだよな?」
「さて、どうだろう」
 と寺田は鷹揚に肩を竦めた。

 もしや自分は人を取り違えていて、案内していたのは召喚英雄でもなんでもないただの中年男だったのでは、という気がしてきた。であれば、この男からなんら脅威を感じないことや、絵の下手さも説明がつく。
「さっきも言ったけど、学問はやりますがね、ぼくは絵も描くし、俳句も詠むし、文も書く。だから、学者であり、絵描きであり、俳人であり、随筆家でもある」
 なんだそれは、とミスルギは言いたくなった。では、なんなのだ。
「ぼくは学問もやっているので、まぁときどき何かを研究することはありますね。そういうときに見るのは近いものでも、遠いものでいい。見慣れたものでも硝子一枚の先を通して見ようとすれば、何かが見えるもんです。人間、いくら年を取っても、やはり時々は発見があって、それは心強いことでね」
 どうもこの寺田という男は、喋れば喋るほど得体が知れなくなる。が、本人についてはともあれ、彼の行動については情報が増えた。つまるところ、やはりこの島に来たのは観光ということか。

「そのようなものかもしれないですね……青武帝から勧められたもので」
 と寺田は意外なことを言った。
「皇帝が?」
「面白い女の子がいると。なんでも、隠密集団の頭領の一人娘なのに、島を飛び出して剣術大会に出て、イースラ中から人が集まる大会で、準優勝したと」
 途中から寺田の顔に愉快そうな笑いが広がっていたので、その話に登場する人物がミスルギを指すということはわかっているのだろう。
「イースラから人が集まるといっても、皇宮隊は出ない」
 とミスルギは憮然として言った。末端の兵士ならともかく、宮仕えの武士たちは剣術大会への参加を禁じられている。つまり、素人が集まる大会のようなものだ。

「それに、負けた」
 と吐き捨ててやったが、寺田のにやにやとした笑いは変わらない。ミスルギはだんだんこの男に腹が立ってきた。蝉の声が五月蠅く、ある程度の清掃がされているとはいっても境内には羽虫が多くて不快だ。
「あんたは召喚英雄なのだろう? それで、なんと言い訳しようが、学者だ。じゃあ、考えるのは得意なんだろう。では、自分より遥かに強大な力を持つ相手に勝つには何をすればいいのかわかるか?」
「なんですか、それは、決勝戦の方はそんなに強かったのですか?」
「そうだ。会ったか? イズルハという女だ」
「本人には会ってはいませんが、青武帝によれば〈皇護の刃〉に就任させるつもりだと」
 奥歯が噛み合わせられる。自分も、一歩違えば――いや、その一歩はあまりに大きかった。あの女に勝つのであれば、あと1年早く剣術大会に出るべきだった。
 いや、果たしてそうか。青武帝を守る〈皇護の刃〉の役職は皇帝を守る筆頭家臣を示すのだが、その職は名誉職的な部分があり、だから席が空いていることも少なくはない。実際、ここ数年は〈皇護の刃〉の座は空白だった。
(だから、もし仮におれが一年早く優勝していたにしても、〈皇護の刃〉にはなれなかったかもしれん)
 あるいは〈皇護の刃〉になれたとしても、翌年に優勝を果たしたあの女によって奪われていたかもしれない――そう思えば実際に起きていない出来事だとしても業腹だった。あの女――あのイズルハという女がこの世にいる限り、ミスルギは勝つことができないのだ。あの女さえいなければ。あの決勝戦からというもの、頭の中はイズルハという女のことでいっぱいだった。

「なるほどきみはイズルハという女性に恋をしているのだな」


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