せかつめ/opening

世界でいちばん冷たいところ/オープニング
(暫定版)

4ケルビンの宇宙は冷たい。
『寒いですか?』
モニターに現われる文字に対して、「少し」と彼は答える。

「あとどれくらいだ?」と彼は尋ねる。
『もうたいしてありませんよ。あなたが眠っている間に航海の大部分は消化しました。だからあなたを起こしたんですよ。着陸の準備に入ってもらうために』

1週間ほど前に星間宇宙船が開拓惑星オングルからSOS信号を受け取った。疫病が発生したため、すぐにワクチンを送って欲しいという報せだった。幸いにもその疫病の特定は簡単で、ワクチンも星間宇宙船にあった。
この船、宗谷は開拓惑星へとワクチンを届けるために星間宇宙船から射出された最終緊急艇だ。火急の事態を想定して速度と航行距離を上げるために余計なも のは乗せず軽量化に軽量化を重ねて燃料さえも機体から切り離し、たったひとりの乗員とそれをサポートするAI、エンジンと母機から射出されるレーザーを受 ける止める受光パネル兼パラシュートだけとなったこの船は、人類史上最速の宇宙船という名に恥じぬ速さで開拓惑星目前まで来ていた。唯一のパイロットである彼はつい先日、AIによって起こされたばかりだ。

開拓惑星はまさに開拓惑星という名前通りの惑星で、周囲に人間が居住可能な惑星もなく、ゆえに今回のような緊急事態があった場合には自力でどうにかする しかないという立地にあった。今回の疫病騒ぎは開拓惑星単位ではどうにもできないものであり、近くの宙域(といってもSOS信号がぎりぎり受け取れるよう な遠距離だったが)をに最終緊急艇を乗せた星間宇宙船が飛んでいたのは幸いだった。
疫病での死者はまだ出ていないものの、放置しておけば惑星に居住している半分の人間が死ぬ可能性もある危険な病気だ。この船には数多くの人間の命が懸っている。自然と緊張する。

最終緊急艇のパイロットは緊急事態においては任務遂行の障害となるあらゆるものを跳ね除けて自分の任務を遂行しないといけない。そのためには超法規的も 許されており、たとえば船に乗り込んでいた密航者などがいた場合は許可を得ることなく(といってもたいていの場合は最終緊急艇が飛んでいる宙域は光でも他 の惑星に到達するまで何日もかかるような場所なので、許可を得ようとしてもまず無理なのだが)撃ち殺すことができる。もっともそんなことがそうそう起きる わけもなく、彼が緊張していたのは未開惑星という場所を探索して町までたどり着かなければならないということの難しさに対してだった。最終緊急艇はある程 度落着位置のコントロールはできるものの、惑星のどこに着陸するかわからない。下手すると目的の場所に辿り着くまでに何十キロという距離を歩かなければな らなくなる可能性もある。最終緊急艇には乗り物など積んではいない。

だからモニタに表示された文字を見たとき、彼は驚いた。AIからの密航者の知らせだった。
彼は銃を構え、貨物室の扉を開ける。密航者は一体何者だろう。男か、女か。多くの人間の命が懸った最終緊急艇を自分の目的のために利用しようとしているのだから、碌な人間ではないだろう。さっさと射出し、機体の重量を戻す。
「出て来い。大人しく出てくれば撃ちはしない。出てこなければ撃ち殺す」
それは嘘だった。出て来ようと来まいと、密航者は撃ち殺して放り出す。そうしなければ開拓惑星オングルの数多くの人間が死ぬのだから。
彼がそう言ったのは、銃を外して最終緊急艇の船体に穴が開いたら困るからだ。弾丸は貫通力の低いホローポイント弾で船の外壁もホローポイント弾一発程度なら耐えられるはずだが、用心に用心を重ねるに越したことはない。
「出てこなければ、こちらから行く」

「ごめんなさい、悪いことをするつもりじゃないんです」聞こえてきた声は彼の想像していたものとは違っていた。小さく高い少女めいた声だった。「今、出て行きます」
貨物室の中から出てきたのは美しい少女だった。カフェオレ色の肌にやや癖のある銀色の髪。片目が緑でもう片方は青と違う色というオッドアイで、奇跡的な ほどの美しさだった。少女は宇宙服など身に着けておらず、肩と腿の辺りが不自然に空いた白い簡素なワンピースを着ていた。
想像していたあらゆる密航者像との違いに、彼は動くことができなかった。声を発することも。
「あの、本当にごめんなさい。悪気はなかったんです。でも、わたし、どうしてもあそこから逃げ出したくて………」少女は僅かに膨らんだ胸に手を当てた。 「すみません、いくらでも償いはします。ですからわたしを何処かに連れて行ってください。わたしにできることならなんでもします。ご飯を作ったり、お掃除 とか、できます。ですから、お願いします」
(料理? 掃除?)
彼女が何を言っているのか、彼にはわからなかった。
(償い?)
最終緊急艇は発進してから目的の惑星に着くまで何処にも止まらない。決まった軌道を航行しなければエネルギーを補給できないため寄り道するということはできないし、そもそも着陸するような装置が使い切りなので目的地以外の惑星に着陸することはできない。
そして最終緊急艇は予定されているより多くの貨物を運ぶことはできない。完全に計算されつくされた航路を航行するためには、余計な重量は邪魔なのだ。異物は除かなければならない。彼女は殺され、宇宙に放り出されるしかない。
それなのに、彼女は何を言っているのだ?
『なんてこと………』
AIがモニタにそう表示するのが見えた。AIは小型のカメラ・アイを少女に向けていた。
『あなたはドギーですね?』
少女は躊躇った挙句、頷いた。「あの、でも、わたし、何も変なことはしません。わたしは、ただ、逃げてきただけで……」
少女はぽろぽろと涙を流し始めた。そしてぽつりぽつりと語り始め、彼女の事情を知った。
ドギーとは人造人間のことだ。正式な呼称ではないが、だいたいそれで通じる。
彼女はこの船が搭載されていた大型旅客船、昭和の金持ちに飼われていたのだった。もちろんこれは違法行為だ。人工生命には個体の肉体的・精神的な能力に よってレベル1から100までの段階が振られており、レベル50以上の生命体はいくらか条件はつくものの人間と同等に扱わなければならないことになってい る。
少女はまるで人間と同じような、あるいは人間以上の容姿と心を持っていた。推定レベル70だろう、とAIは言う。レベルというのは人間に近ければ100 に近づき、遠ければ1に近づく。80というのは相当高い。推定レベルというのは、ようは下限で見積もった値で、中央値はそれよりも高くなることは間違いな い。彼女は人間を越えている。
彼女は金持ちの手で、まさに飼われていた。奴隷のように。いや、人形のようにといったほうが正しいかもしれない。
逆らえなかった。人工生命は基本的に人間に逆らえないように設計されている。もちろん人権を認められたドギーからその枷は外されているはずなのだが、お そらく違法に作られた存在なのであろう少女にはその枷があった。どんなに厭な行為をされても、傷つけられても、掻き乱されても抵抗できなかった。
だが彼女は何度も努力をした。心の枷を打ち破れるように、何度も何度も。そしてある日、船から小型船が発進するということを聞きつけ、これが最後のチャ ンスだと信じ、彼女は心の枷を打ち破った。そしてドギーであるがゆえの驚異的な身体能力を駆使して船に乗り込み、そこで安心しきってしまい、貨物室で眠り 込んでしまった。おそらく相当消耗していたのだろう、彼女の眠りは身体をスリープモードに移行させるほどで、体温もかなり低下させていた。AIが感知でき なかったのはこのためだ。
そしてついさきほど、目覚めた。彼の呼び声に呼び起こされた。
目覚めなければ良かった。それならば何も知らないまま死なせてやることもできたのかもしれない。

少女は一切、何もかもがわかっていなかった。
この船が未開惑星オングルに向かう最終緊急艇であるということ。
船の構造上、重量が僅かにでも増えれば船は目的地に到達できないということ。
船が目的地に到達できなければ、未開惑星の数多くの人間が疫病で死んでしまうということ。
最終緊急艇のパイロットは予定外の荷重に対して、いかなる手段を行使してでもその荷重を取り除き、船を目的地まで到着させる義務があるということ。
少女のことを殺さなければいけないということ。

「ごめんなさい………」
少女はすべての説明を訊いて、謝罪を始めた。
「殺さなくちゃいけないことになって、ごめんなさい」
彼女はパイロットに対し、人殺しの罪を被せることに対して謝っていたのだった。正確にはドギー殺しだが。
パイロットはジャケットを脱いだ。軽いが最終緊急艇の装備として最適化されたもので、未開惑星の探索や超低温領域でも耐えうる設計になっている。少女の 肩にかけてやる。彼女には大きすぎるが、身体をすっぽり隠せるためちょうど良い。彼女の露出度の高い格好は見るに耐えない。
「助けられるか?」
パイロットの言葉に呼応し、AIのカメラ・アイが一瞬瞬いた。
『これからの行動次第です』
「いらないものを捨てていく」
『エネルギー充填可能な地点までの時間と彼女の体重40.0kgが増加したことによる荷重を取り除くため、最適な荷重物投射を交えた必要重量減少量を計算 中。計算が終わりました。残り時間は180ut(単位時間)、それまでに38kg重量を減らす必要があります。ただし6utごとに1kg必要な減少重量が 増加します。現時点であれば最適な投射角で彼女を投棄することで安全を確保できますが、18ut以降はそれ以外に物を投棄する必要性が出てきます。ご記憶 ください』
「180ut以内に38kgの物を捨てる。ぐずぐずしていたら最終的には48kgまで増える。了解」
「あ、あの……」少女がおずおずと言葉を発す。「いったい、なにを?」
「きみの体重分の物を捨てる。そうすれば元通りに航行できる。オングルの人々も助かる」
「そんなことができるんですか?」
『可能か不可能かはやってみないとわかりません』
「大丈夫だ。きみを殺させはしない」
少女は震えた。
嗚咽とともに涙の粒を零した。
「ありがとうございます………」
目の端で、AIの発する問いが見えた。
『本気ですか?』
パイロットは答えなかった。銃はまだこの手にある。

4ケルビンの宇宙は冷たい。この冷たい方程式の支配する空間で、どれだけ人間が、機械が、人工生命が抗えるか。この世界で一番冷たいところで。

0 件のコメント:

Powered by Blogger.