展覧会/『ラストクロニクル』/召喚英雄考察 -第3弾白橙紫
■目次
1755年、オーストリアのハプスブルク家の「女帝」こと、マリア・テレジアの15人目の子として誕生。14歳のときに当時のフランス王太子ルイ・オーギュストと政略結婚をさせられる。
1774年にルイ15世が天然痘で死去したため、夫のルイ・オーギュストが国王ルイ16世となり、《マリー・アントワネット》はわずか18歳で幼すぎる王妃となった。
当時のフランスは民衆の不満が鬱屈し、のちに「フランス革命」と呼ばれる革命の嵐の時代であった。1787年の凶作の年を皮切りに、民衆の不満は爆発する。
1789年7月14日、のちにフランス建国記念日とされるこの日、パリの民衆が当時の圧政の象徴であるバスティーユ牢獄を襲撃。
1790年、当時「革命の獅子」と呼ばれ、王家の保護に全力を尽くした政治家、ミラボーとコネクションを作るも、翌年にはミラボーが病死したことで、国王夫妻は窮地に立たされる。
《マリー・アントワネット》と国王の夫妻は王都であるパリ脱出を決意するが、失敗。
王家は民衆の期待に応じるふりをしながら復権を図るも、1792年に王権が完全停止され、投獄される。
1793年1月。夫、ルイ16世処刑。
同年7月。息子、ルイ17世と離別。
同年10月。死刑判決。
同年同月翌日。死刑執行。
禿げた中年男。
その容姿から、ローマ市民には名前をもじって「モエクス・カルウス(禿げの女たらし)」と呼ばれた男。借金王という渾名もある。
その実態は、最初の三頭政治の代表者のひとりであり、フランス最初の英雄ことガリアのヴェルチンゲトリクスを倒して『ガリア戦記』(正しくは『ガリアでの戦争についての覚え書き』)を記述し、その名を「帝王」という意味に残した英雄、ガイウス・《ユリウス・カエサル》である。
紀元前100年に誕生した《ユリウス・カエサル》の華々しい活躍を見るためには、50年近く待たなくてはならない。
紀元前52年、ローマ帝国の属州であったガリアがフランス最初の英雄であるヴェルチンゲトリクスの下に集い、反乱が勃発。
それまでは一雄弁家であり、政治家として鈍足ながらも一歩一歩順調に出世コースを辿り、パフォーマンスによって民衆に愛されながらも大した権力も無いままに三頭政治の代表となっていた《ユリウス・カエサル》であったが、外ガリア属州を治めていたため、戦争に身を投じることを余儀なくされる。
メソポタミア神話の豊穣神。シュメール語ではイナンナ。
《イシュタル》は豊穣神の中での最高神であり、数千年に渡りメソポタミアの全地域で広く信仰されている。「マッサト(王女)」「テリトゥ(並外れた強さ)」など、さまざまな異名を持つ。
イシュタル・アヌニトゥムと呼ばれることもあり、このときは戦に関する面を主張している。
「モンゴル」という名が歴史書に初めて登場するのは8世紀になってからである。
当時その名はアムール河上流の一民族である遊牧民の名であった。
1155年。モンゴル部ボルジギン氏族の系列である小部族キヤト氏の首長、イェスゲイの子として《テムジン》は誕生した。
《テムジン》は蒼き狼と褐色の雌鹿の子孫であり、モンゴル部の先代カン(首長)の末裔であるとまことしやかに伝えられていた。
《テムジン》が8、9歳頃、母と同じ部族出身のボルテ(蒼を意味する)という名の少女との婚約が取り決められた矢先、父イェスゲイが他部族に殺害され、放浪を余儀なくされる。
しかし《テムジン》はその放浪の中で逞しく成長し、やがてモンゴル部のカンとなった彼はモンゴリアのみならず、中央アジア、いや、大地の支配者として、最強の騎馬帝国を率いていくことになる。
古代エジプトの王都であるアレキサンドリアは、マケドニアの《アレクサンドロス三世》によって征服されたエジプトのナイル川西端に作られた都市である。
その王家であるプトレイマス王家は、紀元前80年のプトレマイオス9世の死を発端とする王家での内乱騒動ののちに、プトレマイオス12世が玉座に着いていた。
しかし彼は享楽を好み、政治を蔑ろにしていたため、国力は低下していた。
当時、近隣国のローマではクラッスス、《ユリウス・カエサル》、ポンペウスの3人が覇権を争っており、エジプト王プトレマイオス12世は、ポンペウスの庇護下に入ることで、貢物と引き換えに己の立場を守ろうとした。
しかし紀元前60年に三頭政治が開始されると、状況は一変。執政官になった《ユリウス・カエサル》によってエジプトの領土は攻撃され始め、プトレマイオス12世は危機に陥る。
さまざまな人間に救援を要請した結果として王位は守りきることができたプトレマイオス12世であったが、膨大な金を使い、権利を売り渡した結果、エジプトは弱体化、国は混乱した。
かくて紀元前51年。プトレマイオス12世が死亡し、彼の娘である弱冠18歳の女王が玉座に着いたときから、衰退した国力と僅かな富を背にし、己に残された知恵と美貌のみを武器に戦うエジプトの女の反撃が始まった。
「人中の呂布、馬中の赤兎」と称された猛将。
漢王朝の臣下、丁原の養子であったが、董卓に懐柔されて裏切り、彼を殺害する。
しかしその後の192年、董卓に服従を誓っていたはずの王允が、《呂布》を己の陣営に引き込むため、美女を送り込む。この美女は演義では王允の娘とされており、《貂蝉》という名がつけられている。
もともと董卓とは仲違いをしており、董卓から戟を投げつけられるなどしていた《呂布》は、これを機にあっさりと董卓を裏切り、やはり彼を殺害する。
その後の《呂布》は王允とともに政権を握ろうとするも、賈詡の謀略によって王允が殺害され、逃亡。諸国を放浪し、最終的には徐州の劉備の下へと身を寄せたのち、さらに劉備を裏切って徐州を奪う。
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■引用・参考文献
伊藤悠, 『シュトヘル』, 1巻, 小学館, 2009.
佐藤賢一, 『カエサルを撃て』, 中公文庫, 2004.
佐藤賢一, 『小説フランス革命 6 シスマの危機』, 集英社文庫, 2012.
白石典之, 『チンギス・カン ”蒼き狼”の実像』, 中公新書, 2006.
高橋宏幸, 『カエサル『ガリア戦記』―歴史を刻む剣とペン』, 岩波書店, 2009.
寺田寅彦, 『柿の種』, 岩波文庫, 1996.
満田剛, 『三国志 正史と小説の狭間』, 白帝社, 2006.
三笠宮崇仁 監, 岡田明子 著, 小林登志子 著, 『古代メソポタミアの神々 世界最古の「王と神の饗宴」』, 集英社, 2000. p38より
エディット・フラマリオン 著, 吉村作治 監, 高野優 訳, 『クレオパトラ 古代エジプト最後の女王』, 知の再発見双書, 1994.
吉川栄治, 『三国志 05 臣道の巻』, 青空文庫.
ロバート・マーシャル 著, 遠藤利国 訳, 『図説 モンゴル帝国の戦い ――騎馬民族の世界制覇――』, 東洋書林, 2001.
渡邊義浩, 『十八史略で読む 三国志 漢文ライブラリー』, 朝倉書店, 2012.
エヴリーヌ・ルヴェ 著, 塚本哲也 監, 遠藤ゆかり 訳, 『王妃マリー・アントワネット』, 知の再発見双書, 2000.
ジャン・ポール・ルー 著, 杉山正明 監, 田辺稀久子 訳, 『チンギス・カンとモンゴル帝国』, 血の再発見双書, 2003.
- 白
- 《マリー・アントワネット》
- 《ユリウス・カエサル》
- 橙
- 《イシュタル》
- 《テムジン》
- 紫
- 《クレオパトラ》
- 《呂布》
3-016R《マリー・アントワネット》 |
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ヨーロッパ史 (1755 ~ 1793)
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かかる目論見を打ち砕いたのが、再びのミラボーだった。議場を呆気に取らせながら、なんと基本的人権を持ち出してきた。つまりはすべての人間には好きに往来し、また自らが望むところで生まれ、暮らし、また死ぬ権利があるのだと。
「王族とて人間なのです。人間であるからには人権があるのです」
佐藤賢一, 『小説フランス革命 6 シスマの危機』, 集英社文庫, 2012. p145より
1755年、オーストリアのハプスブルク家の「女帝」こと、マリア・テレジアの15人目の子として誕生。14歳のときに当時のフランス王太子ルイ・オーギュストと政略結婚をさせられる。
1774年にルイ15世が天然痘で死去したため、夫のルイ・オーギュストが国王ルイ16世となり、《マリー・アントワネット》はわずか18歳で幼すぎる王妃となった。
当時のフランスは民衆の不満が鬱屈し、のちに「フランス革命」と呼ばれる革命の嵐の時代であった。1787年の凶作の年を皮切りに、民衆の不満は爆発する。
1789年7月14日、のちにフランス建国記念日とされるこの日、パリの民衆が当時の圧政の象徴であるバスティーユ牢獄を襲撃。
1790年、当時「革命の獅子」と呼ばれ、王家の保護に全力を尽くした政治家、ミラボーとコネクションを作るも、翌年にはミラボーが病死したことで、国王夫妻は窮地に立たされる。
《マリー・アントワネット》と国王の夫妻は王都であるパリ脱出を決意するが、失敗。
王家は民衆の期待に応じるふりをしながら復権を図るも、1792年に王権が完全停止され、投獄される。
1793年1月。夫、ルイ16世処刑。
同年7月。息子、ルイ17世と離別。
同年10月。死刑判決。
同年同月翌日。死刑執行。
[白][W]、ユニットを1体かSSを1個犠牲にする:クロノチェックを1回行う。その後、あなたに2ダメージを与える。このアビリティはあなたのメインフェイズにのみ使用できる。 [CB]クロノチェックを1回行う。その後、あなたに4ダメージを与える。 |
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《マリー・アントワネット》が王妃になったとき、多くの愛人を抱えたうえに政治には無頓着であったルイ15世の死後であったため、国民は「王が変わったことで、今度こそ暮らしやすい国になるかも」という期待を抱いていた。 しかし王妃となった《マリー・アントワネット》は週に3度の芝居劇と2度の舞踏会を欠かさず開催し、ドレスや宝石を買い漁り、本を読まないにも関わらず図書室の蔵書拡大に努め、豪奢な宮殿を作った。 浪費のみならず、政治的な口出しを行い、それが失策に繋がったため、ルイ16世ともども王家の権威と信頼は徐々に失落しはじめる。致命的だったのは、民衆に絶大な人気があった銀行家のネッケル財務大臣を罷免したことであった。 期待が大きければ大きいほど、それが裏切られたときの失意も大きい。 もし彼女がいなければ、王家は浪費を留めたであろう。民衆は王家を信じられていたであろう。痛みを伴う新たな時代への移行はもっと遅くなっていたであろう。 ギロチンの刃が《マリー・アントワネット》の首を切り落としたとき、人々は歓喜の声をあげた。 「共和国、万歳!」 と。 フランスの新たな時代の始まりだった。 |
3-017S《ユリウス・カエサル》 |
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ローマ史 (-100 ~ -44)
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ときおり前脚を上げながら、くるくる白馬が回っていた。映える緋色のマントは、やはり見間違えようがない。総督は我らを見捨てなかった。兵士と命運を共にしてくれる。なんと励まされることか。援軍など連れなくても、来てくれただけで腹の底から、ぐっと力が湧き上がる。怯えている場合ではない。我らはローマ人なのだ。世界最強の軍団なのだ。
――なぜなら、我らはカエサルと共にある。
佐藤賢一, 『カエサルを撃て』, 中公文庫, 2004. p425より
禿げた中年男。
その容姿から、ローマ市民には名前をもじって「モエクス・カルウス(禿げの女たらし)」と呼ばれた男。借金王という渾名もある。
その実態は、最初の三頭政治の代表者のひとりであり、フランス最初の英雄ことガリアのヴェルチンゲトリクスを倒して『ガリア戦記』(正しくは『ガリアでの戦争についての覚え書き』)を記述し、その名を「帝王」という意味に残した英雄、ガイウス・《ユリウス・カエサル》である。
紀元前100年に誕生した《ユリウス・カエサル》の華々しい活躍を見るためには、50年近く待たなくてはならない。
紀元前52年、ローマ帝国の属州であったガリアがフランス最初の英雄であるヴェルチンゲトリクスの下に集い、反乱が勃発。
それまでは一雄弁家であり、政治家として鈍足ながらも一歩一歩順調に出世コースを辿り、パフォーマンスによって民衆に愛されながらも大した権力も無いままに三頭政治の代表となっていた《ユリウス・カエサル》であったが、外ガリア属州を治めていたため、戦争に身を投じることを余儀なくされる。
ユリウス・カエサルが攻撃か防御したとき、ターンの終わりまであなたのユリウス・カエサル以外のすべてのユニットのパワーとATKをそれぞれ+500、+1する。 [CB]このターン、あなたのユニットが攻撃したとき、2ライフを得る。 |
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「賽は投げられた」 この言葉が《ユリウス・カエサル》の口から発せられたのは、紀元前49年の冬である。 《ユリウス・カエサル》は、その堅実な経歴が象徴しているように、防衛戦が得意であったといわれており、ガリアのヴェルチンゲトリクスとの戦いに辛くも勝利を収めた。 それから2年。ガリアを完全制圧した《ユリウス・カエサル》にはふたつの選択肢があった。 ひとつはガリア領地で軍を解散し、帰京するという当たり前の選択肢。 もうひとつは、軍を引き連れたままガリアとイタリアを隔てる河、ルビコン河を渡り、ローマに帰還する選択肢。 《ユリウス・カエサル》がガリアで戦っている間に、ローマの政権争いは激化の一路を辿っていた。三頭政治の一角であるポンペウスが、元老院の一党と組むことで《ユリウス・カエサル》排除を画策していたのだ。 このまま軍を解散してローマに戻れば、失脚か暗殺かの二択である。 しかし軍を率いたままルビコン河を渡り、ローマに戻れば、ローマを揺るがす内乱は避けられない。 敵は戦争の天才、ポンペイウス。配備された軍隊は元老院が集めたローマの粋。ガリア制圧の副将として働いたラビエヌスさえも、《ユリウス・カエサル》を裏切りポンペイウスの側についていた。 対する《ユリウス・カエサル》に残された軍隊は、僅か一個軍団という寡兵のみ。 それでも《ユリウス・カエサル》はルビコン河を渡った。 決断をすれば、そこは禿げた女たらしのじじいはナポレオンに七英雄と謳われることになる《ユリウス・カエサル》である。兵を鼓舞し、策を張り巡らせ、ポンペウス派を掃討するまで、5年とかからなかった。 |
3-028S《イシュタル》 |
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メソポタミア神話
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頭髪を後ろに束ねて両手で乳房を持ち上げ、女性器が大きく表現されたイラン各地の量産女神は、安産祈願と家内繁盛のために各家庭で祀られたのであろう。このような型押し制作は、メソポタミア全土にも広がっていった。女神像ばかりでなく、作業や奏楽の光景もあれば授乳する犬などもあったが、犬は出産の女神グラの聖獣とされているので、これも安産の護符だったのかもしれない。
岡田明子 著, 小林登志子 著, 三笠宮崇仁 監, 『古代メソポタミアの神々 世界最古の「王と神の饗宴」』, 集英社, 2000. p38より
メソポタミア神話の豊穣神。シュメール語ではイナンナ。
《イシュタル》は豊穣神の中での最高神であり、数千年に渡りメソポタミアの全地域で広く信仰されている。「マッサト(王女)」「テリトゥ(並外れた強さ)」など、さまざまな異名を持つ。
イシュタル・アヌニトゥムと呼ばれることもあり、このときは戦に関する面を主張している。
あなたの時代が発展したとき、以下の2つから1つを指定する。 |
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《イシュタル》の随獣(従えていた動物)は獅子である。 獅子はその獰猛さで、もちろん戦に関連はするが、同時にその獰猛さと雷鳴のような鳴き声によって、出産を守護する霊力を持つとも考えられていた。 その獅子を随獣として従える《イシュタル》は、愛と戦いという、一見して相反するように見える2つの要素を司る。 |
・あなたの捨て札置き場にあるカードを1枚選ぶ。それをソウルヤードに配置してもよい。 ・あなたのSSを1個選ぶ。それを手札に戻してもよい。 |
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古代メソポタミアにはさまざまな豊穣神が存在していた。 たとえばトルコ南部の遺跡、チャタル・ホユックからは巨大な胸と尻を持つ「豹を携える女神像」が出土されている。この女神像は豊穣再生の儀式に用いられるものと考えられており、子どもを産む瞬間が土偶の形になっている。豹はイシュタルの随獣である獅子に通じ、出産を守護する象徴であると考えられている。 ティグリス上流域では墳墓から大量の長円錐状の突起物や棒状の石製品が出土している。これらは男性の生殖能力を象徴しているといわれている。 メソポタミア北部のテペ・ガウラ遺跡では巨大な眼の土偶が幾つもの子どもを抱えており、多産を象徴するものであると考えられている。 生殖、出産、成長は繁栄の根本となるものであり、ゆえにどの文明でも豊穣神の存在は重要であり、特にメソポタミア神話での《イシュタル》の影響力は凄まじい。 余談であるが、豊穣性に関連する語として、古代メソポタミアで「母」を意味する単語としては「アマ」があるが。一説によればママ、もしくはそれに近い発音はどの国や地域でも母を呼ぶ呼称として使われているという。 英語圏ではもちろん、日本語でも『源氏物語』や『枕草子』では「乳母」を「まま」と呼んでおり、その関連から「まんま」というと母乳の意味になり、転じて飯の意味になる。ラテン語では「マンマ」は「乳」を意味する。 古代メソポタミアでも、やはり「アマ」で「母」を意味しており、赤子が発音可能な単語とその意味の関連がうかがえる。 |
3-038R《テムジン》 |
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アジア史 (1155 ~ 1227)
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強いときは生きて弱いときは死ぬ。
草原では、心は留まらない。
想いも約束もすべて忘れられくりかえされていく。
「―――文字は、人を憶えておくために生まれた。
遠くにあっても、時を越えても、人と人とが交わした心を伝え続ける……
だから、心底美しい。
おれはあこがれる――」
伊藤悠, 『シュトヘル』, 1巻, 小学館, 2009. p195-196より
「モンゴル」という名が歴史書に初めて登場するのは8世紀になってからである。
当時その名はアムール河上流の一民族である遊牧民の名であった。
1155年。モンゴル部ボルジギン氏族の系列である小部族キヤト氏の首長、イェスゲイの子として《テムジン》は誕生した。
《テムジン》は蒼き狼と褐色の雌鹿の子孫であり、モンゴル部の先代カン(首長)の末裔であるとまことしやかに伝えられていた。
《テムジン》が8、9歳頃、母と同じ部族出身のボルテ(蒼を意味する)という名の少女との婚約が取り決められた矢先、父イェスゲイが他部族に殺害され、放浪を余儀なくされる。
しかし《テムジン》はその放浪の中で逞しく成長し、やがてモンゴル部のカンとなった彼はモンゴリアのみならず、中央アジア、いや、大地の支配者として、最強の騎馬帝国を率いていくことになる。
あなたの時代が発展したとき、ターンの終わりまでテムジンのパワーとATKをX倍する。Xはあなたの時代の数に等しい。 |
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12世紀末、世界は戦争に満ちていた。 日本では《源義経》が平氏と戦い、ヨーロッパでは《リチャード獅子心王》などによる十字軍の遠征が行われていた頃、同じようにアジア地域では西部のセルジュク・トルコ、中央のホラズムなどの強国が覇権を争い、中国では宋、西夏、金など複数の国が競い合っていた。 それらを《テムジン》は一掃した。 1206年にモンゴル系・トルコ系の諸部族の議会で大カン(大長)に選任されたことで、《テムジン》はチンギス・カン(モンゴル語で海内=宇宙の天子)を名乗り始め、モンゴル帝国が誕生する。 《テムジン》は14歳に達したすべての男子に兵役を課し、部隊を組織的に編成した。装備は個々の部隊の役割に応じて整えられ、狩猟を通じて軍事教練を行わせた。 1207年にシベリア南部の森林部族を退治したあとは、西夏王朝を服属させ、さらにタリム盆地のウイグル族を従えた。西遼のキタン族を取り込み、《テムジン》の帝国は時代とともに恐るべき速度で成長していった。 1215年には当時中国北部を支配していた金朝を陥落させたあとは、1220年には当時イランを支配していたホズラム・シャー朝の中心都市であったサマルカンドを攻略。 さらに《テムジン》のモンゴル帝国は軍を派遣。その軍はたった4年で2万キロを踏破、5つの大民族を征服した。 恐るべきことに、モンゴル帝国は最大で陸地の1/4を支配していたと言われている。 《テムジン》は服従する者には誰であれ赦したが、服従を拒む者には誰であれ妻子郎党ともに抹殺したため、周辺民族の《テムジン》に対する恐怖は凄まじく、「《テムジン》は辱めて殺した処女の乳房を切り取り、珍味として貪り食う」などという怪談じみた噂までもが伝わったほどであった。 |
3-053S《クレオパトラ》 |
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エジプト・ローマ史(-69 ~ -30)
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美人と言えば女に限るようである。美醜は男をスペシファイする属性にならぬと見える。甘い辛いが絵の具の区別に役立たぬように。
寺田寅彦, 『柿の種』, 岩波文庫, 1996. p199より
古代エジプトの王都であるアレキサンドリアは、マケドニアの《アレクサンドロス三世》によって征服されたエジプトのナイル川西端に作られた都市である。
その王家であるプトレイマス王家は、紀元前80年のプトレマイオス9世の死を発端とする王家での内乱騒動ののちに、プトレマイオス12世が玉座に着いていた。
しかし彼は享楽を好み、政治を蔑ろにしていたため、国力は低下していた。
当時、近隣国のローマではクラッスス、《ユリウス・カエサル》、ポンペウスの3人が覇権を争っており、エジプト王プトレマイオス12世は、ポンペウスの庇護下に入ることで、貢物と引き換えに己の立場を守ろうとした。
しかし紀元前60年に三頭政治が開始されると、状況は一変。執政官になった《ユリウス・カエサル》によってエジプトの領土は攻撃され始め、プトレマイオス12世は危機に陥る。
さまざまな人間に救援を要請した結果として王位は守りきることができたプトレマイオス12世であったが、膨大な金を使い、権利を売り渡した結果、エジプトは弱体化、国は混乱した。
かくて紀元前51年。プトレマイオス12世が死亡し、彼の娘である弱冠18歳の女王が玉座に着いたときから、衰退した国力と僅かな富を背にし、己に残された知恵と美貌のみを武器に戦うエジプトの女の反撃が始まった。
あなたのクレオパトラ以外のすべてのユニットは『 速攻 』を持つ。 |
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《クレオパトラ》は、紀元前69年にプトレマイオス12世の娘として、「父の栄誉」を意味する名を持って産まれた女王。なお、この名は珍しくはなく、王家では7世にあたる。 父王の遺言によって弟のプトレマイオス13世と結婚した《クレオパトラ》は、幼い弟に代わって権力を掌握。 当時は飢饉によって一揆が起きることもあったが、平価のコントロールや輸出の増大によって経済を支え、国を立て直す。 ローマとは前王時代と同様、三頭政治のひとりのポンペウスに肩入れをし、支援をしていたが、それが経済的貧困の最中であったため、アレクサンドリア市民の怒りを買い、《クレオパトラ》は王都を追われる。 紀元前48年、《ユリウス・カエサル》がポンペウスを破ったことで、それまで政敵であった《ユリウス・カエサル》と交渉する必要の出てきた《クレオパトラ》は、ある作戦に出ることにした。 彼女は弟王に見つからずに王宮に入り込むため、己の身体を絨毯に身を潜めて、部下に運ばせる。 彼女自身の動きは、けっして迅速ではなかった。ただ部下から信用できるものを選び出し、的確な作戦を指示し、実行しただけだ。 その結果として、《クレオパトラ》は秘密裏に《ユリウス・カエサル》と会談を行うことに成功。 《ユリウス・カエサル》の仲介もあり、弟王と和解した《クレオパトラ》は《ユリウス・カエサル》の愛人となり、のちに男子を産むことになる。 |
あなたのクレオパトラ以外のユニットが攻撃したとき、ターンの終わりまでそのユニットのパワーとATKをそれぞれ+500、+1する。 |
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「パスカルの三角形」で知られるフランスの哲学者パスカルは「クレオパトラの鼻がもう3センチ低かったら歴史は変わっていただろう」と述べている。 しかし実際に、世界三大美女で知られる《クレオパトラ》は、けっして誰もが振り返るような美女というわけではなかった。もちろんその容貌は醜悪というわけではなかったが、歴史家プルタルコスによれば「並外れたものではなく、見る人に衝撃を与えるという質のものではなかった」と叙述している。 それもそのはずだ。女王という立場になった《クレオパトラ》の年齢は18歳と、《マリー・アントワネット》が王妃になったのと同じ幼さである。年相応の少女でしかなかったのだ。 だが彼女は戦った。 《アレキサンドリアの大灯台》を擁するアレキサンドリアは、学問や交易の中心地であり、《クレオパトラ》は様々な知識を吸収して育った。特に語学の学習に関してはめざましく、あらゆる国の人間と通訳を介さずに会話をすることができた。 得た知識と繕いたての度胸で絨毯に巻かれ、禿げの助平おやじの通り名で知られる《ユリウス・カエサル》の愛人となった。 恋人のアントニウスに世界一の料理を示すために、エジプト最後の女王として受け継がれてきた大玉の真珠を酢に溶かして飲んでみせた。 強い人間が強いのは当たり前のことだ。弱いながらに戦った《クレオパトラ》だからこそ、その背は人々に力を与える。 |
3-064R《呂布》 |
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中国史 (? ~ 198) / 小説(三国志演義)
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「だまれ」
陳宮は胸をそらして、
「いかにも呂布は暗愚で粗暴の大将にちがいない。しかし彼には汝よりも多分に善性がある。正直さがある。すくなくも、汝のごとく、酷薄で詐言が多く、自己の才謀に慢じて、遂には、上をも犯すような奸雄では絶対にない」
吉川栄治, 『三国志 05 臣道の巻』, 青空文庫. より
「人中の呂布、馬中の赤兎」と称された猛将。
漢王朝の臣下、丁原の養子であったが、董卓に懐柔されて裏切り、彼を殺害する。
しかしその後の192年、董卓に服従を誓っていたはずの王允が、《呂布》を己の陣営に引き込むため、美女を送り込む。この美女は演義では王允の娘とされており、《貂蝉》という名がつけられている。
もともと董卓とは仲違いをしており、董卓から戟を投げつけられるなどしていた《呂布》は、これを機にあっさりと董卓を裏切り、やはり彼を殺害する。
その後の《呂布》は王允とともに政権を握ろうとするも、賈詡の謀略によって王允が殺害され、逃亡。諸国を放浪し、最終的には徐州の劉備の下へと身を寄せたのち、さらに劉備を裏切って徐州を奪う。
『 勇猛 』 小隊を組んでいるすべてのユニットから呂布に与えられるアビリティでないダメージをすべて軽減する。 |
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《呂布》は他の追随を許さぬほどの猛将である。 特にその凄まじさは、小説である三国志演義で強く語られている。 たとえば虎牢関の戦いの際に、《呂布》は張飛、劉備、そして《関羽》の3人と同時に相対しており、これに怯むどころか、遜色なく戦いを繰り広げた。 |
『 速攻 』 [CB]呂布を戦場に配置する。ターンの終わりまで呂布のレベルをⅠにする。ターンの終了時に、呂布を犠牲にする。 |
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《呂布》の強さは正確無比な弓術と疾風迅雷のごとき馬術にあった。 たとえばある時、劉備を攻めてきた袁術を追い返すため、「劉備は己の弟であり、争いは見ていられない。自分は仲裁が大好きだ」と言いながら陣中の戟矛を門の中に掲げさせてから弓を引き絞り、「1発で当てたら戦闘をやめて引き揚げてくれ」と袁術を説得した。 果たして矢は戟に当たり、袁術軍はその弓の腕前に仰天して引き上げたという記録が呂布伝に残されている。 また、曹操軍の水攻めを受けて大敗したあと、捕縛された《呂布》は曹操に向けて、「おれが騎兵、おまえが歩兵を率いたら天下泰平間違いなしだ」と説得を試みている。 《呂布》がまさしく騎兵を率いる達人であったことから、曹操は《呂布》の処遇に大いに迷ったといわれている。しかし劉備に「丁原と董卓が裏切られたのを忘れたのか」と言われ、やむなく縊り殺した。 なお、彼は殺される間際、劉備を指さして「この男がいちばん信用できない」と語ったという。 |
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■引用・参考文献
伊藤悠, 『シュトヘル』, 1巻, 小学館, 2009.
佐藤賢一, 『カエサルを撃て』, 中公文庫, 2004.
佐藤賢一, 『小説フランス革命 6 シスマの危機』, 集英社文庫, 2012.
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