展覧会/無能宣言
アドヴェンチャーゲームをレビューするのは難しい。
それが一本道のいわゆるノベルゲームであるならなおさらだ。
■無能宣言
→作成サークル サークルゴリッチュ [http://red.ribbon.to/~gorichu/]
→作品紹介 サークルゴリッチュ内の無能宣言のページ [http://red.ribbon.to/~gorichu/game04-index.html]
→DL販売 デジケットの『無能宣言』のページ [http://www.digiket.com/work/show/_data/ID=ITM0035841/]
その理由は大きくふたつあると思う。
ひとつはその良さを語るにあたり、ネタバレを少なからずしてしまうことは避けられないためだ。
たとえば「どんでん返しに驚かされる」というと後半に大きなどんでん返しが控えていることがわかってしまって身構えさせることになってしまうし、「設定が凄い」といえばはじめからそこにしか集中しなくなる。
これは究極的に突き詰めてみると、「面白い」という評価でさえネタバレになってしまうということになってしまう。面白いということがわかってプレイしてしまうと、面白いという感情を作り上げることが難しくなってしまう。
もうひとつの理由として、ノベルゲームというのは製作に着手することが、基本的に簡単であるということである。
たとえばアクションゲームを作ろうとすれば、キャラクタの動かし方や表示方法から学ばなければいけない。マウスをクリックするとどういった挙動を返すか、入力されたコマンドに対してどのようにすれば反応を返すかだけでなく、なによりそのゲーム世界がどのような物理法則に支配されているかというのを学ばなければ単純なアクションゲームでも作れない。
一方でノベルゲームを作ろうとした場合、もちろんこの『ゲーム』という括りに関してもいろいろあるだろうが、それはさておくとしても、たとえばボタンをクリックして文章と画像を読み進めるタイプのゲームを作ろうとすれば、ボタンの配置と文章の書き方、画像の表示方法を学ぶだけでいちおうゲームとしては成立する(画像はなくても良いかもしれない。1ページにすればボタン配置もいらない)。
現在でこそ製作を補助する多くのツールがあるが、それでもやはり新しい物理を考えなければいけないのは変わらない。そうしなければ見た目を変えただけの、まったく同じゲームになってしまう。一方でノベルゲームは同じ製作ツールを使っていてもまったく違うものになりうる。主役となるものが違うからだ。
いちおう書いておくが、最初に述べたとおりノベルゲームの製作に着手するのが簡単だといっているだけで、作ることそれ自体が簡単だとは言っていない。門口が狭くないということだ。
何が言いたいかというと、つまりはノベルゲームというのは文章と絵が本分であるがゆえに、「なんとなく誰でも作れてしまいそうな」気がするのだ。
この「なんとなく誰でも作れてしまいそうな」ものに対して何かしらの評価をするとき、好評価をするときは楽なのだが、悪評価をしようとすると「じゃあおまえはもっと良いものが作れるのか?」というツッコミを覚悟しなくてはならなくなる。
ようはプログラムだったらまったく書けない人間と書ける人間がいるだろうが、絵や文章なら「まったく書けない・描けない」という人間は少ないわけで、こきおろそうとすると自分の身に災厄が降りかかることを危惧してしまって難しくなる。作者が比較的身近な立場にあるインディーズのゲームならなおさらだ。
というわけで今回はノベルゲームのメインとなる絵と文章に関する評価を外して『無能宣言』をレビューする。
実はこうすると結構楽になる。
『無能宣言』などを製作したサークルゴリッチュのゲームのイラストや文章は、お世辞にも上手いとは言えないからだ。いや、お世辞になら言えるか。
さらにいえば人によっては寒いとしか思えないギャグを連発し、メインの戦闘シーンも何をやっているのかよくわからないという有様だ。いわゆる中二病チックでもある。もっというとどこに需要があるのかわからないエロシーンがたびたび出てくる(ちなみにこういった文の後にたいがい「いや、わたしは好きだけどね?」という表現がつくのが常套である)。
じゃあどこに褒めるのがあるのかというと、見せ方にある。もうちょっと言うと、エフェクトと効果音、音楽の使い方だ。ゴリゲーはこれに尽きる。尽きてしまった(いや、伏線の張り方とかもあるんだけど)。
これらがしっかり揃っているノベルゲームというのは、そう多くはない(段落を移ってから書くが、わたしはゴリッチュのギャグも好きである)。
ゴリッチュゲーのエフェクトや効果音、音楽の使い方は見ている限りでは簡単だ。戦闘や情動の激しいシーンでエフェクトや効果音を増やし、盛り上がるシーンで音楽を切り替える。それだけだ。
そんな単純なことが難しいのは、自分の作品を客観評価するのが難しいからだと思う。
自分で何かを創作するというのは、実は結構簡単だ。粘土を捏ね繰り回せば何かしらできるし、トイレに入れば排泄物で造詣もできる。
しかし人に見せて評価を受けられるものを作るのは、そう簡単ではない。それでも作品が世に溢れているのは、客観評価が難しいがために駄作を秀作だと思ってお披露目してしまうからだ。
ゴリッチュゲーはそうなっていない。たぶん、駄作は人前に出さない。
単純にゴリッチュの物を見る感覚が優れているだけという可能性もあるが、わたしはそうは思わない。
駄目な部分は駄目と知っていて、駄目だと感じたらそのまま捨てられるか、改良が加えられて秀作にする。
何度も見返す。作り変える。良いと思われる部分を補強する。どのタイミングでBGMを流すべきなのか、どの程度に強調すべきなのか、どう見せればもっとも効果的なのか。
何度もやりなおさなくてはプレイヤーを愉しませるデザインは見えてこない。そのためにデザイナーは何度も何度も繰り返す。小手先の技だが、それこそが「なんとなく」の面白さを産む。そうして「なんとなく」格好良いものを完成させる。
なんとなくというのは、感覚的なものだということだ。実際に体験しなければわからない感覚的なものを努力して作り上げている。
ノベルゲームはゲームではないという見方もある。
だがゴリッチュゲームをプレイすると、なるほどこれはゲームだと感じる。
それが一本道のいわゆるノベルゲームであるならなおさらだ。
■無能宣言
→作成サークル サークルゴリッチュ [http://red.ribbon.to/~gorichu/]
→作品紹介 サークルゴリッチュ内の無能宣言のページ [http://red.ribbon.to/~gorichu/game04-index.html]
→DL販売 デジケットの『無能宣言』のページ [http://www.digiket.com/work/show/_data/ID=ITM0035841/]
■無能タイトル画面
ゴリッチュ名物「嘘は吐いてないけど明らかに本編とかけ離れている」だ!
吐かれた嘘を愉しむために、プレイ前には公式サイトであらすじを見ておくのは必須だ!
その理由は大きくふたつあると思う。
ひとつはその良さを語るにあたり、ネタバレを少なからずしてしまうことは避けられないためだ。
たとえば「どんでん返しに驚かされる」というと後半に大きなどんでん返しが控えていることがわかってしまって身構えさせることになってしまうし、「設定が凄い」といえばはじめからそこにしか集中しなくなる。
これは究極的に突き詰めてみると、「面白い」という評価でさえネタバレになってしまうということになってしまう。面白いということがわかってプレイしてしまうと、面白いという感情を作り上げることが難しくなってしまう。
■無能ロリコン
ゴリッチュといえばロリコンだ!
閃くんを最初見たとき、「こいつは一話限りのキャラだ」という台詞を真に受けてしまったぞ! だって「魁閃(さきがけひらめき)」なんて名前のキャラが主要人物とは思わないもん!
もうひとつの理由として、ノベルゲームというのは製作に着手することが、基本的に簡単であるということである。
たとえばアクションゲームを作ろうとすれば、キャラクタの動かし方や表示方法から学ばなければいけない。マウスをクリックするとどういった挙動を返すか、入力されたコマンドに対してどのようにすれば反応を返すかだけでなく、なによりそのゲーム世界がどのような物理法則に支配されているかというのを学ばなければ単純なアクションゲームでも作れない。
一方でノベルゲームを作ろうとした場合、もちろんこの『ゲーム』という括りに関してもいろいろあるだろうが、それはさておくとしても、たとえばボタンをクリックして文章と画像を読み進めるタイプのゲームを作ろうとすれば、ボタンの配置と文章の書き方、画像の表示方法を学ぶだけでいちおうゲームとしては成立する(画像はなくても良いかもしれない。1ページにすればボタン配置もいらない)。
現在でこそ製作を補助する多くのツールがあるが、それでもやはり新しい物理を考えなければいけないのは変わらない。そうしなければ見た目を変えただけの、まったく同じゲームになってしまう。一方でノベルゲームは同じ製作ツールを使っていてもまったく違うものになりうる。主役となるものが違うからだ。
■無能マッチョ
男キャラはだいたいマッチョだ!
あとへたれてるぞ!
さらにタンクトップだ!
いちおう書いておくが、最初に述べたとおりノベルゲームの製作に着手するのが簡単だといっているだけで、作ることそれ自体が簡単だとは言っていない。門口が狭くないということだ。
何が言いたいかというと、つまりはノベルゲームというのは文章と絵が本分であるがゆえに、「なんとなく誰でも作れてしまいそうな」気がするのだ。
この「なんとなく誰でも作れてしまいそうな」ものに対して何かしらの評価をするとき、好評価をするときは楽なのだが、悪評価をしようとすると「じゃあおまえはもっと良いものが作れるのか?」というツッコミを覚悟しなくてはならなくなる。
ようはプログラムだったらまったく書けない人間と書ける人間がいるだろうが、絵や文章なら「まったく書けない・描けない」という人間は少ないわけで、こきおろそうとすると自分の身に災厄が降りかかることを危惧してしまって難しくなる。作者が比較的身近な立場にあるインディーズのゲームならなおさらだ。
というわけで今回はノベルゲームのメインとなる絵と文章に関する評価を外して『無能宣言』をレビューする。
■無能幕間
こういう幕間が素敵だ!
関係ないがSSをてきとうに撮ったら7枚中3枚が閃くんだったぞ!
実はこうすると結構楽になる。
『無能宣言』などを製作したサークルゴリッチュのゲームのイラストや文章は、お世辞にも上手いとは言えないからだ。いや、お世辞になら言えるか。
さらにいえば人によっては寒いとしか思えないギャグを連発し、メインの戦闘シーンも何をやっているのかよくわからないという有様だ。いわゆる中二病チックでもある。もっというとどこに需要があるのかわからないエロシーンがたびたび出てくる(ちなみにこういった文の後にたいがい「いや、わたしは好きだけどね?」という表現がつくのが常套である)。
■無能ひとかた先輩
どんなキャラでもボケるときはボケるぞ!
ひとかた先輩は後手に回ることが多いぞ!
じゃあどこに褒めるのがあるのかというと、見せ方にある。もうちょっと言うと、エフェクトと効果音、音楽の使い方だ。ゴリゲーはこれに尽きる。尽きてしまった(いや、伏線の張り方とかもあるんだけど)。
これらがしっかり揃っているノベルゲームというのは、そう多くはない(段落を移ってから書くが、わたしはゴリッチュのギャグも好きである)。
ゴリッチュゲーのエフェクトや効果音、音楽の使い方は見ている限りでは簡単だ。戦闘や情動の激しいシーンでエフェクトや効果音を増やし、盛り上がるシーンで音楽を切り替える。それだけだ。
そんな単純なことが難しいのは、自分の作品を客観評価するのが難しいからだと思う。
■無能の鉄則
エフェクトかけまくりだ!
とにかく「なんとなく」格好良いぞ! 鉄則その4はもうないッ!
自分で何かを創作するというのは、実は結構簡単だ。粘土を捏ね繰り回せば何かしらできるし、トイレに入れば排泄物で造詣もできる。
しかし人に見せて評価を受けられるものを作るのは、そう簡単ではない。それでも作品が世に溢れているのは、客観評価が難しいがために駄作を秀作だと思ってお披露目してしまうからだ。
ゴリッチュゲーはそうなっていない。たぶん、駄作は人前に出さない。
単純にゴリッチュの物を見る感覚が優れているだけという可能性もあるが、わたしはそうは思わない。
■無能生全裸
なまぜんらだ!
駄目な部分は駄目と知っていて、駄目だと感じたらそのまま捨てられるか、改良が加えられて秀作にする。
何度も見返す。作り変える。良いと思われる部分を補強する。どのタイミングでBGMを流すべきなのか、どの程度に強調すべきなのか、どう見せればもっとも効果的なのか。
何度もやりなおさなくてはプレイヤーを愉しませるデザインは見えてこない。そのためにデザイナーは何度も何度も繰り返す。小手先の技だが、それこそが「なんとなく」の面白さを産む。そうして「なんとなく」格好良いものを完成させる。
なんとなくというのは、感覚的なものだということだ。実際に体験しなければわからない感覚的なものを努力して作り上げている。
ノベルゲームはゲームではないという見方もある。
だがゴリッチュゲームをプレイすると、なるほどこれはゲームだと感じる。
(*画像はサークルゴリッチュのゲーム『無能宣言』より)
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