展覧会/Fallout: New Vegas
この手のサンドボックス系ロール・プレイング・ゲーム(RPG)の海外製ゲームは、しばしば自由度が高いといわれる。
しかし一方で、その自由度は紛い物で、単にNPCを攻撃・殺傷可能なことを自由度が高いと称しているだけだという言葉もある。
NPCを殺害できるということがひとつの自由度を生み出している、というのは間違いないと思う。
が、それは自由度そのものではない。あくまで、手段だ。自由度を生み出すために。
NPCの殺害は、”悪”、もしくは”正義”のロールプレイ(RP)を行うための重要な手段なのだ。
RPGにおける面白さとはなんだろう。シナリオだとかシステムだとかいろいろと説があるが、わたしはRPの面白さがRPGの面白さに直結すると思う。なにせ、「Role Playing Game」なのだ。
もしゲームにおける自由度が少なくても、その少ない自由度の中で表現できるものと、自分の表現したRPが合致しているのであれば、それは面白いゲームだろう。
そしてFallout: New Vegas(FONV)はそのRPの面白さを改善したという点で、前作、Fallout 3(FO3)に比べて大きく発展し、素晴らしい自由度を生み出している。
さて、ここまで自由度という表現を使ってきたが、そもそも自由度というのはなんだろうか。
別の言葉に言い換えるのに最も適切なのは「選択肢の多さ」だと思う。
Falloutシリーズは核戦争後のレトロフューチャーな世界観を描いたRPGシリーズだ。キャラメイクは初代Falloutから搭載されており、ゲームが始まって間もなく広大な世界にぽんと放り出されるため、プレイヤーはその広い世界で、自分の演じたいキャラクターに沿ったRPを自由に行うことができる。
FONVの基本骨子でもあるFO3では、初代作品(Fallout)や次作(Fallout 2)における見下ろし型のターン制からFPS/TPSのような形式になり、プレイヤーの容姿のエディットまで可能となった。どのようにクエストを進めるか、大量のサイドクエストを受けるかどうか、どのように事態を打開して行くかと、たくさんの取捨選択の場をプレイヤーに与え、大きな自由度を生み出すことに成功した。
が、前述のように自由度というのは、あくまで選択肢の多さを生み出しているに過ぎない。そして選択肢の多さそのものがRPGの面白さに直結するわけではないことは先に述べた。
大事なのは選択肢の数そのものではなく、「やりたいRPに合致する選択肢の数と質」なのだ。
そして残念ながら、FO3においてはその選択肢の数と質は十分なものではなかった。
なぜかといえば、「Vaultを出て父親を捜し、最終的にはEnclaveと戦う19歳の若者」のRPを強いられているにも関わらず、それにそぐわない選択肢が多く、結果的には選べる手段と結果が限られているからだ。サブクエストでは様々な選択肢が取れ、人から物を盗んだり、殺したりもできるが、メインクエストではあくまで善人として行動しなければならず、父親はわが子である主人公に対して基本的に(Megatonをぶち壊したとしても)好意的だし、メインストーリーに絡むキャラクタの意に反することはできない。最終局面でそれまでの正義感溢れるものとは異なる選択肢は選べるものの、それはすべてを打ち壊すような選択肢である。その選択はPhyco野郎の行いであり、悪人やRaiderの取れる選択肢ではない。
そう。FO3ではそのための方法そのものは存在しているにも関わらず、「悪人になれない」のだ。
Fallout: New Vegasはこの問題点を解決した。
主人公はVaultからやってきた超人ではないし、外の世界にしがらみがあるわけでもない。正確なところをいえば、超人にもなれるし、しがらみがある存在にもなれる。NCRに組することも、Caesar’s Legionとして悪逆の非道を尽くすこともできる。Raiderとして生きるのも自由だ。そしてRPの自由さは物語が終わるまで続く。
べつにこれは「マルチシナリオでなくてはRPGの面白さは追求できない」と言っているわけではない。ただRPの楽しさを全面に押し出すのならば、様々なRPを許容するだけのシナリオが必要だというだけなのだ。巨大ロボとともに悪の帝国を打ち倒すシナリオで活躍できるのは、正義のヒーローだけなのだから。
そういうわけで、FO3とFONVの最大の違いは、「悪人のRPを許容するか否か」ということだといえる。
盗みをはたらく程度から、人を殺したり奴隷にしたりするまで、悪人といっても様々だ。盗んだり、騙したり、殺したり、奴隷にしたり、といったことはFO3でもできる。
だが、FO3ではあくまで最後はEnclaveと戦ってCapital Wastelandに綺麗な水をもたらさなくてはいけないのだ。それは正義のヒーローのやる行いでしかない。
FONVは違う。戦う理由はあくまで個人的な恩讐や利益によるもので、それは最後まで変わらない。「正義の心に燃えるヒーロー」でなくて良いのだ。所詮は一介の運び屋に過ぎないから、「最終的にNew Vegasで何らかの行いを達しようとしている」ならば何をしても良い。ここにPRの広がりが生まれる。先に述べた「悪人のRPを許容する」というのは、むしろ「善人・ヒーロー以外のRPを許容する」と言い換えたほうが良いかもしれない。
PC版であれば、様々な不便な点・不快な点はMODで改善できる(たとえば「ハイタッチする熊」という選択肢を追加したりだとか)。だがメインストーリーに関しては、MODで完全に改善するのは不可能だ。なぜなら、わたしはシナリオの最後がどうなっているかを知っているからだ。嘘は、吐けない。知っていることを知らないなどということは。
FONVは、自分に正直に生きられる。偽ることもできる。悪人、善人、自分勝手な人間、そのRPがNew Vegasに関わるものであれば、FONVはそれを許容する。だから面白い。幾らでもプレイできる。
と、こう考えてみれば、RPGにおいていちばん重要なのは、やはりシナリオなのかもしれない。
しかし一方で、その自由度は紛い物で、単にNPCを攻撃・殺傷可能なことを自由度が高いと称しているだけだという言葉もある。
Fallout: New Vegas
Obsidian Entertainment & Bethesda Game Studios
NPCを殺害できるということがひとつの自由度を生み出している、というのは間違いないと思う。
が、それは自由度そのものではない。あくまで、手段だ。自由度を生み出すために。
NPCの殺害は、”悪”、もしくは”正義”のロールプレイ(RP)を行うための重要な手段なのだ。
RPGにおける面白さとはなんだろう。シナリオだとかシステムだとかいろいろと説があるが、わたしはRPの面白さがRPGの面白さに直結すると思う。なにせ、「Role Playing Game」なのだ。
もしゲームにおける自由度が少なくても、その少ない自由度の中で表現できるものと、自分の表現したRPが合致しているのであれば、それは面白いゲームだろう。
さて、ここまで自由度という表現を使ってきたが、そもそも自由度というのはなんだろうか。
別の言葉に言い換えるのに最も適切なのは「選択肢の多さ」だと思う。
Falloutシリーズは核戦争後のレトロフューチャーな世界観を描いたRPGシリーズだ。キャラメイクは初代Falloutから搭載されており、ゲームが始まって間もなく広大な世界にぽんと放り出されるため、プレイヤーはその広い世界で、自分の演じたいキャラクターに沿ったRPを自由に行うことができる。
FONVの基本骨子でもあるFO3では、初代作品(Fallout)や次作(Fallout 2)における見下ろし型のターン制からFPS/TPSのような形式になり、プレイヤーの容姿のエディットまで可能となった。どのようにクエストを進めるか、大量のサイドクエストを受けるかどうか、どのように事態を打開して行くかと、たくさんの取捨選択の場をプレイヤーに与え、大きな自由度を生み出すことに成功した。
が、前述のように自由度というのは、あくまで選択肢の多さを生み出しているに過ぎない。そして選択肢の多さそのものがRPGの面白さに直結するわけではないことは先に述べた。
大事なのは選択肢の数そのものではなく、「やりたいRPに合致する選択肢の数と質」なのだ。
そして残念ながら、FO3においてはその選択肢の数と質は十分なものではなかった。
なぜかといえば、「Vaultを出て父親を捜し、最終的にはEnclaveと戦う19歳の若者」のRPを強いられているにも関わらず、それにそぐわない選択肢が多く、結果的には選べる手段と結果が限られているからだ。サブクエストでは様々な選択肢が取れ、人から物を盗んだり、殺したりもできるが、メインクエストではあくまで善人として行動しなければならず、父親はわが子である主人公に対して基本的に(Megatonをぶち壊したとしても)好意的だし、メインストーリーに絡むキャラクタの意に反することはできない。最終局面でそれまでの正義感溢れるものとは異なる選択肢は選べるものの、それはすべてを打ち壊すような選択肢である。その選択はPhyco野郎の行いであり、悪人やRaiderの取れる選択肢ではない。
そう。FO3ではそのための方法そのものは存在しているにも関わらず、「悪人になれない」のだ。
Fallout: New Vegasはこの問題点を解決した。
主人公はVaultからやってきた超人ではないし、外の世界にしがらみがあるわけでもない。正確なところをいえば、超人にもなれるし、しがらみがある存在にもなれる。NCRに組することも、Caesar’s Legionとして悪逆の非道を尽くすこともできる。Raiderとして生きるのも自由だ。そしてRPの自由さは物語が終わるまで続く。
べつにこれは「マルチシナリオでなくてはRPGの面白さは追求できない」と言っているわけではない。ただRPの楽しさを全面に押し出すのならば、様々なRPを許容するだけのシナリオが必要だというだけなのだ。巨大ロボとともに悪の帝国を打ち倒すシナリオで活躍できるのは、正義のヒーローだけなのだから。
そういうわけで、FO3とFONVの最大の違いは、「悪人のRPを許容するか否か」ということだといえる。
盗みをはたらく程度から、人を殺したり奴隷にしたりするまで、悪人といっても様々だ。盗んだり、騙したり、殺したり、奴隷にしたり、といったことはFO3でもできる。
だが、FO3ではあくまで最後はEnclaveと戦ってCapital Wastelandに綺麗な水をもたらさなくてはいけないのだ。それは正義のヒーローのやる行いでしかない。
FONVは違う。戦う理由はあくまで個人的な恩讐や利益によるもので、それは最後まで変わらない。「正義の心に燃えるヒーロー」でなくて良いのだ。所詮は一介の運び屋に過ぎないから、「最終的にNew Vegasで何らかの行いを達しようとしている」ならば何をしても良い。ここにPRの広がりが生まれる。先に述べた「悪人のRPを許容する」というのは、むしろ「善人・ヒーロー以外のRPを許容する」と言い換えたほうが良いかもしれない。
PC版であれば、様々な不便な点・不快な点はMODで改善できる(たとえば「ハイタッチする熊」という選択肢を追加したりだとか)。だがメインストーリーに関しては、MODで完全に改善するのは不可能だ。なぜなら、わたしはシナリオの最後がどうなっているかを知っているからだ。嘘は、吐けない。知っていることを知らないなどということは。
と、こう考えてみれば、RPGにおいていちばん重要なのは、やはりシナリオなのかもしれない。
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