Goodbye to the Circus

「やぁ、緊張するね」
 と運転席の男、Arthurは言った。運転している車は赤のキャデラックで、しかし外側の塗装は剥げているし、内装も薄汚い。新車で購入したのではなく、中古品で、しかも買ったのではなく、人から譲り受けたものだ。Arthurとしては単に譲ってもらったわけではなく、出世払いで金を返すつもりではある。
 Arthurは運転しながら助手席をちらちら見つつ、これでは金を返す前に脇見運転で事故死だ、と無理矢理顔を正面に向ける。現職刑事が事故死だなんて笑えない。カーチェイス中に死ぬなら、まだ格好もつくだろうが。
 そう思っても、しかしやはり横を確認せずにいられないのは、助手席に座るのが黒髪の美女だからだ。普段は見せないめかし込んだ姿を見れば、誰もコールガールだったなどとは思わないだろう

「ほんとに大丈夫かな………。ねぇ、わたし、変じゃない?」
 と不安そうに己の格好を確かめながら、助手席のAzaleaは言った。
「ああ、ちょっと変わってるね。まるでお姫さまだ。そしてぼくは王子さまだ。ここに王国を作ろう。こんな綺麗な人は世界中にふたりといないから、車降りた途端に人が群がって歩けなくなっちゃうだろうね。でも、Leah、そうなったらぼくが抱っこして連れて行ってあげるから、心配しなくて良いよ」
「冗談じゃなくて、真面目に言ってるんだけど」
 とAzaleaは唇を尖らせる。そんな表情も、可愛い。
「大丈夫だよ、Leah。きみの魅力にはぼくの下半身も大興奮だ。いますぐにでもちゅっちゅしたい」
「頭空っぽなんだから、せめて前見て運転してね」
 とそっぽを向いてAzaleaは言うが、その口元が僅かに持ち上がっていることから、笑顔を隠そうとしえいることが判る。そんな様子が、とても可愛らしい。

 2年前、刑事であるArthurは、コールガールのAzaleaに夜の街で出会った。当たり前だが、売春は違法だ(一部の州では合法だが)。牢にぶち込んで、ドラッグを無理矢理に抜いてやっても良かったし、Arthurはこれまでそうしてきた。
 だがAzaleaはあまりに若すぎた。当時、まだ16歳だった彼女に過酷な仕打ちはできず、また精一杯な彼女のいまを否定してしまったら、それきり元に戻らなさそうで怖かった。こんなに痩せっぽちな少女が身を売って生きようとしているのはどんな覚悟かと彼女の心を想った。
 Azaleaには借金があった。亡き両親の死に伴って発生したものらしく、彼女は生きるためではなくそれを返すために売春をしていた。

 Arthurは彼女を助けたかった。住む場所の世話をし、彼女を追う人間から匿ってやった。働く場所を紹介した。それはArthur行きつけのレストランで、店長は信頼できる人物であった。そしてArthurは彼女の借金の肩代わりさえしてやった。
 10近くも歳下の娘に、下心がないどころではない。純然たる下心だった。
「結婚しよう、Leah」
「馬鹿なこと言わないで」とAzaleaは言ったものだ。「借りたお金も返します。ちゃんと、まっとうに働いて」
「働くんなら、ぼくの家でご飯を作ってくれ」
「家政婦がいるほど大きな家じゃないでしょ」
「そうかもしれない。でも家族を失ってからは、どんなに小さい家でもぽっかりと寂しい気持ちになるんだよ。母さんがいなくなったのは今日みたいな日だったかな……」
 そんなふうに言ってみせると、一日くらいならいいよ、と言ってAzaleaはころりと騙された。母がいなくなったというのは、単にArthurがひとり暮らしを始めたというだけのことで、死んだというわけではないのだが。
 本当に両親を亡くしているAzaleaにこんな騙し方をして胸が痛んだので、彼女が家に来てから本当のことを話した。すると胸だけでなく、頬が痛くなった。

 まぁ、つまり、いろいろあった。簡単にはいかないものだ。だいたいAzaleaに対するアプローチは、10のうち6は失敗して、3は無視されて、残りの1は失笑を喰らった。どんな意図のある笑みであっても、彼女が笑っているところを見ることが、Arthurにとっての至福の喜びになっていた
 だんだんとAzaleaも心を開いてくれるようになった、と思う。たぶん。そうだよね、Leah、と問いかけてみると、「何言ってるの?」だとか冷たい言葉であしらわれる気がするので、問わない。
 そしていま、Azaleaは、Arthurの車に乗って、彼の母親に挨拶するために実家へと向かっている。騙して乗せたわけじゃないし、無理矢理連れ込んだわけでもない。奇跡的な事態である。Arthurのほうが信じられないくらいだ。

「Arty、ここに黄色い猿がいるわ」
 だが母親の言葉を聞いたときほど信じられなかったわけではない。

 Arthurは立ち尽くした。ああ、いや、駄目だ。立ち尽くしているのでは駄目だ。己より、もっと辛い思いをしている人がいるのだから。
 視線を横に向ける。Azaleaは己が腕を擦っている。その肌の色が、いつもより白く染まっていた。
 Azaleaは、ああ、確かに黄色人種だ。
 だがけして猿などではない。Arthurと同じ、アメリカ人だ。AzaleaはAzaleaだ。可愛らしい、花のような人だ。

 実家をどうやって出てきたのか、母親にどんな対応を取ったのかは殆ど記憶に残っていない。Arthurはただただ、Azaleaを母親から引き離したくて、逃げるようにキャデラックに乗り込んだのだ。
 Azaleaはずっと黙って俯いたきりだ。

 アクセルを踏んで車を発進させながら、Arthurは40秒悩んだ。考えたのは母のことばかりで、するとどちらに味方をするのか初めから決まっているようなものだった。Arthurは車を路肩に止め、Azaleaの腕を掴む。
「Leah、ママのことは忘れよう。ぼくと結婚してくれ」
 Arthurの言葉に、Azaleaはのろのろと顔をあげた。涙の跡があるわけではない、しかし零れることを堪えたのだろう、沈痛な表情で。
「ママは大丈夫だ。父さんとは離婚したけど、たまに会っているのは知っているし、近所に親戚も住んでる。近所付き合いもあるから、ひとりで寂しいってこともない。犬もいるしね。だから、ママは大丈夫だ。縁を切っても構わない」
 だがAzaleaは、彼女には何もない。Arthur以外には、何も。
 だから、なのだろうか。いや、でなくても、Azaleaを選ぶことは決まっていた。この2年で、彼女の存在はArthurにとってはかけがえのないものになっていた。
「Arthur、そんなこと言わないで」とAzaleaは震える声で言う。「お母さんと縁なんか切るもんじゃないよ」
「Leah、ぼくは……」
「わたしのお母さんが言ってた。世界中、みんな違う人間だけど、同じ人間なんだから、いつかは解り合えるって……」
 だから、とAzaleaはその続きを言わなかった。いや、言えなかった。彼女の瞳は涙で溢れていた。ArthurはAzaleaに顔を寄せ、その涙を舐め取った。

 Azaleaを家まで送り届けてから、Arthurは一度家に戻り、犬に餌と水を与えてからすぐにまたAzaleaの家を訪ねた。両手に花だとか、食べ物だとか、縫いぐるみだとか、彼女の喜びそうなものをたんまり携えて。ちなみに夜の準備もばっちりだ。いや、べつにそうした行為を求めて彼女の家を訪問したわけではなく、単に慰めようとしているだけなのだが、その行為の過程というか結果というか、兎に角その場の状況によっては何が起こるか分からないわけで、少なくとも準備を怠らないのは間違っていないはずだ。
 ArthurはAzaleaが住む集合住宅の扉を叩く。しかし返答がない。外から窓を覗いてみても、部屋の中は真っ暗だ。時刻はまだ20時を少し回った頃で、こんなに早く寝てしまうはずがない。

 Arthurは、Azaleaがいまどんな目に合っているか、予想していなかった。


 いつもなら、返事がないとなれば、心配しただろう。まだ帰宅していないのかもしれない、あんなに可愛いのだから、悪漢に襲われたのかもしれないと思っただろう。ドアを破壊してでも部屋の中に押し入っただろうし、それで見付からないとなれば夜の街をAzaleaを探して駆け回っただろう。少なくとも、電話くらいはかけたはずだ。
 だが今回は、それ以前に起きた出来事があっただけ、Azaleaは疲れて寝てしまったのかもしれないと思った。折角寝ているのだから、起こすことはないと。

 Arthurは、光の中で生きてきた。ロサンゼルス市警の強盗殺人課で勤務していても、彼は闇とは程遠い人間だった。だからAzaleaがどんな屈辱を感じているかも想像できていなかった。


 諦めて車に戻ったとき、携帯電話が鳴った。
『強殺だ』
 と物騒な電話をかけてきたのは、職場の同僚だった。強殺とは、強盗殺人事件のことだ。

遺体はまだ見付かってない、部屋に残されていた血痕を見るに間違いない。おまけに、たぶんヤク絡みだ。Arty……、ああ、確か今日は可愛い恋人と母親に会いに行ったんだっけ? お楽しみのところ悪いが、人手が足りてないんだ。急行してくれ』
 舌打ちして電話を切る。Azaleaも寝てしまったわけだし、緊急事態なら仕方がない。Arthurは事件現場に向かった。

 Arthurは、Azaleaが光届かぬ闇の中にいることに気付かなかった。気付いてやれなかった。


 殆ど寝ずに行った初動捜査が終わった頃には、既に太陽が昇っていた。Arthurはよろよろとした足取りで、再度Azaleaの家に向かった。
 そこには何もなかった。


 Azaleaの部屋には元々家財道具が少なかった。だがいまでは、その数少ない家財道具さえも姿を消していた。まっさらな床に、ただ一枚の紙片がある。Azaleaの署名が為された、手紙だ

『ごめん、もう会えない。さようなら、Arthur。いままでずっとありがとう。Azaleaより』

 それだけの短い手紙だけ。
 いや、もうひとつ部屋に残されていたものがある。
 それはArthurがAzaleaと同じ名前だからと言って送り、彼女も嬉しそうに育てていた桃色のアザレアの鉢だった。

アマランタインに種実無し
Amaranthine will never bear seeds


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