也に母親はいません。父親はいつも酒を飲んでいて、辰也を殴ったり蹴ったりします。
 ある冬の夜、震えるだけの生活に終わりがやってきました。しんしんと降り積もる雪と共に、真っ白い服を着た、艶やかな黒い髪の女性が訪ねて来たのです。
 彼女は父と口論を始めたため、辰也は怖くて、押し入れの中に逃げ込みました。
 しばらく隠れていると、静かになったので、そっと部屋を覗いてみます。
「あっ!」
 辰也は叫び声をあげてしまいました。
 玄関で父が女性に抱きついています。その身体からは大量の血が流れています。
 父の爪が女の背中に食い込み、服の上から残るような傷跡を残します。しかしそれが最後でした。ずるずると父は倒れ、動かなくなりました。
 白い服の女は、今や返り血で真っ赤に染まっていましたが、辰也に近づいてきました。近づくと、女性が背筋が震えるほど美しいということに気付きましたが、辰也は恐怖で泣いてしまいました。
 白い女は冷たい声で言いました。
「わたしのことは誰にも言ってはいけません。約束ですよ」
 女がいなくなるまで、辰也はただ頷くことしかできませんでした。

 の後、辰也は親戚の家に引き取られました。しかし彼は親戚に疎んじられて居場所がなく、暴力を振るったり、盗みを働いたりしていました。
 あるとき夜の繁華街で盗みを見咎められ、屈強な男に打ちのめされました。
 殴られ、蹴られ、骨を折られそうになったとき、涼やかな声が響きます。
「何をやっているの?」
 声の持ち主は小柄な女性でしが、男の声が狼狽したように変わります。
「雪乃さん。いや、こいつが……」
「まだ子どもでしょう。やめてあげて」
 朦朧とする意識の中で聞こえてきた会話でしたが、雪乃という女が男に一目置かれているということは理解できました。
 辰也はそのまま意識を失ってしまいました。
 次に目覚めたとき、見覚えのない部屋にいました。
「おはよう」
 と声がしたので振り返ると、昨夜辰也を助けてくれた、雪乃という女性が傍らに座っています。彼女の家のようです。
「具合はどう?」
 と問いかけながら、雪乃はそっと冷たい手を辰也の額に当てます。近づいてみて、彼女がとても綺麗な人であるということがわかります。
「子ども扱いするな」
「中学生でしょ? 大人ぶってもわかるよ」
 と雪乃がくすくすと笑うと、辰也は急に恥ずかしくなりました。
「危ないから、喧嘩なんてしちゃ駄目だよ」
 その言葉には、これまで経験したことがない、包み込むような優しさがありました。

 はすぐには変われません。ですが、ゆっくりと、水が岩を穿つように変わることならできます。
 見ず知らずの人間を助けるほど優しく、屈強な男に一目置かれるだけの強さを持つ雪乃という女性との出会いは、大きな転換期でした。
 辰也は真面目に学校に行くようになり、悪いこともしなくなくなりました。そして暇さえあれば、雪乃の家に出入りするようになりました。

「雪乃さん、おれ、卒業したら就職しようと思うんだけど……」
 とあるとき辰也が言うと、雪乃は険しい顔になって言い返しました。
「進学しなさい」
「でも勉強がそんなにできるわけじゃないし」
「勉強するだけが学校の役割じゃないよ」
「でも金もないし」
「お金だったら出してあげる。わたしは高校に進学しなかったから、高校生を見るたびに羨ましく思うの。きみにはそういう思いはさせたくないな」
 雪乃から懇願されて、辰也は受験に向けて勉強が始めました。
 授業が終わると、雪乃の家にやって来ては、勉強を始めます。雪乃はご飯を作ったり、お茶を淹れたりして、辰也のことを労います。

 一月、十二月、一月と刻々と受験の時期は近づきます。
 雪がしんしんと降り積もる寒い夜のことです。辰也は疲れて、卓袱台に突っ伏して寝てしまっていました。
 目を開けると、雪乃が着替えているのが見えました。辰也が寝ているから、着替えても構わないと思ったのでしょう。
 辰也は雪乃の白い背中から眼が離せませんでした。
 蛇が走ったような傷跡が見えます。その傷跡の持ち主に辰也は見覚えがありました。父を殺した白い女です。
「雪乃さんが父さんを殺したの?」
 辰也が言葉を投げかけると、雪乃の身体がびくりと震えました。
「どうして?」
 と重ねて問いかけます。
 振り返った雪乃の瞳は、涙で濡れていました。
「あの人は、わたしから赤ちゃんのあなたを奪った。どうしても、返してくれなかった。だから……」
 その言葉を聞いて、辰也は気付きました。
「雪乃さんは、おれの母さんなの?」
「あの日のことは忘れていて欲しかった。忘れて、ずっとこうして、一緒に暮らせればそれで良かったのに……」
 警察に行くために雪乃はアパートの部屋を出て行きました。部屋の中には辰也だけが残されました。寒々しい部屋に、たったひとり。
 やはり雪の日に女と約束したことは、破ってはいけなかったのです。

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