也には母がいません。
 なぜ母親がいないのかを疑問に思ったことはありません。父は母がいないぶんの愛情を注いでくれたからです。
 父は山が好きだったので、辰也も山登りが好きでした。

 る冬のことです。辰也と父は雪山に登りました。その日は運悪く猛吹雪に見舞われ、山腹にある山小屋に逃げ込みました。
 ふたりは小屋の黴臭い毛布に包まって寝ました。明日には天候が回復することを祈りながら。
 辰也が目を覚ましたとき、まだ辺りは真っ暗でした。
 きょろきょろと辺りを見回します。目覚めたのは寒さのせいです。山小屋の戸が開いていて、冷たい風と雪が流れ込んできています。
 戸の近くには父が立っています。
「お父さん」
 辰也は声をかけますが、父の返事はなく、ばたりと倒れました。
 すると扉のところに、もうひとりが立っていたことに気付きました。真っ白い着物に、真っ白な肌。艶やかな黒髪の女性です。
 とても美しい人なのに、辰也はなぜかその女性が怖くなりました。倒れた父に視線を向けますが、彼は動きません。顔や手先は、凍ってしまっているように見えます。
 美しい女性は、ゆっくりと辰也のもとへと歩み寄ってきました。その白い手が、彼の頬に触れます。氷のように冷たい手です。
「人と妖は相容れないものです」
 冷たい声が響きます。白い女の小さな唇が紡いだ言葉です。
「一度目は助けてあげます。ですが、もし今日の出来事を誰かに話せば、わたしはまたあなたのところに参ります。そしてあなたも彼のようになるでしょう。誰にも話してはいけません。約束ですよ」
 女は丁寧な言葉遣いでしたが、辰也は身震いするほどの恐ろしさを感じました。
 白い女がどう消えたのか、いつの間に朝になったのか、辰也は覚えていません。昨夜の出来事は夢だったのではないかとさえ思いました。
 しかし山小屋には優しい父の凍りついた彫像のような遺体が転がっていました。あの一夜は、夢ではなかったのです。
 いつの間に連絡していたのでしょう、捜索隊がやって来て辰也を助けてくれました。亡くなった父親について尋ねられましたが、辰也は白い女との約束を破るのが怖くて、黙ってただただ首を振るだけでした。

 族を失ってしまった辰也ですが、父親の親戚の家に引き取られ、立派な大人になりました。
 あの恐怖の一夜のことは脳裏に焼き付いていましたが、辰也は今でも山が好きでした。だから仕事が休みになるたびに山に登っていました。
 夏の暑いある日、辰也は足を挫いている若い女性を助けました。彼女の名は雪乃といいました。
 辰也は一目で雪乃と恋に落ちました。それほどまでに雪乃は美しかったのです。
 ふたりは何度も逢瀬を重ね、遂には結婚をしました。
 幸せな結婚生活でした。子どもはできませんでしたが、身寄りのない子どもを引き取り、ふたりで大切に育てました。
 子どもがすくすくと成長し、昔の辰也と同じように、家族と一緒に山に登ることが大好きになりました。

 報にもなかったような酷い吹雪が山を襲ったのは、辰也たちが山に登った日のことでした。幸い、身体が凍える前に山小屋に到達することができましたが、小屋には暖房も電話もありません。
「明日にはきっと吹雪も止みます」
 と毛布に包まって寝てしまった息子を抱き、励ますように雪乃は言います。
「吹雪は明日まで続くかもしれない。そうなったら、この子は死んでしまうかもしれない。せめて地上と連絡が取れればいいんだが………」
 喋りながら、辰也が思い出したのは二十年前の雪山でのことです。
 あのときも、こんな酷い吹雪でした。
 同じ状況に立たされた辰也は、あの日、何があったのかを悟りました。
「昔、おまえのような美しい人を見たことがある」
 辰也は雪乃に向けて二十年前の出来事を語り始めました。
 すると急に戸が開き、猛吹雪が山小屋の中へとなだれ込んできました。
 視界が真っ白な雪で塞がれるとともに、雪乃の服が真っ白な着物に変わっていました。二十年前と同じ姿に。
「やはりおまえがあのときの雪女だったのだな」
「誰にも話さないでくださいと、約束したはずです。どうして約束を破ってしまったのですか?」
 と雪乃は悲しそうな表情で言いました。
「おまえならこの吹雪の中でも山を下りられるのだろう。ぼくのときと同じように、救助を呼んでくれ。息子のことを頼む」
 辰也の言葉に、雪乃はこっくりと頷いて応えると、彼の身体をぎゅっと抱きしめました。すると辰也の身体はみるみるうちに凍っていきます。
 完全に凍り付いた辰也の身体が床に倒れたとき、山小屋の隅で息子が呆然としている様子が見えました。
「今日のことは、誰にも話してはいけませんよ」
 雪乃は優しい声で息子に語りかけます。その魔法の声とともに、彼の母親に関する記憶は忘れられました。
 そして雪乃は辰也の魂とともに、吹雪が荒れ狂う山を粛々と降りていくのでした。

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