正義の海/序


 二年前。
 M県刑務所。

 収容定員1000人。収容分類級A(犯罪傾向小)、B(犯罪傾向大)、およびLB(犯罪傾向大かつ長期収容)。法務省矯正局管理下にあるその場所に珍しい人種がいた。
 それは女ではない。W級(女性)収容分類級を持つ刑務所ではないため女の犯罪者はいないが、男の囚人のところに面会にやって来る妻や娘がいる。だから女は決して珍しくはない。
 それは老人でもない。疾患・障害のある受刑者向けの刑務所ではないが、年老いても罪は犯せるものだし、身体が壮健であれば壁あり屋根あり暖房完備に食事付きの無料宿に望んで入りたがる人間もいる。
 刑務所で珍しいのは、子どもだ。Y級(若年)あるいはJ級(少年)の収容分類級を持つ少年刑務所もあるが、そのような場所に収監されるのは重犯罪犯であり、未成年は少ない。

「珍しい」
 寝台に腰掛け、うなだれた格好でその独房の主は呟いた。彼の独房に入ってきたのが、まさしくその珍しい子どもであったからだろう。
 子どもとはいっても、その体格は幼いそれではない。身の丈は一八〇センチメートルを越えているであろう隆々とした筋骨を携えた肉体を持ち、髪はぎらぎらと輝く油で背後に撫で付けている。表情は険しく、額にはくっきりと皺が刻まれている。
 ただ僅か幼さの残るその瞳の色と身に纏う学生服だけが、彼が未だ十代の少年であるということを主張している。

 学生服の少年、虹村形兆(にじむらけいちょう)は己が場違いな人間であるということを自覚していた。このような行動に出ることは初めてではないが、その度に場違いさを感じているのだ。この空間における自身の異質さを理解しているからこそ、形兆は若者としての最大限の礼を払った公的な服装である学生服を纏ってしまうのかもしれない、などと自己解釈している。
 己の服装のことはさておいて、独房の囚人が「珍しい」と言ったのは不思議ではあった。単に面会人が少ないために、形兆のことを「珍しい」などと評したわけがないのだ。なぜならこんな真夜中に面会などあるわけがないし、そもそも面会ならば独房まで来ることはありえない。いままで何度もこのような行為に出た形兆であったが、そのときに囚人が発する言葉は「てめぇ、いつからいるんだ!?」だとか「どこから入った!?」だとか、あるいは言葉にならないとにかく罵倒を紡ごうとした罵倒であり、決して「珍しい」などという冷静な言葉が出てきたことはなかった。目の前の男は恐ろしく豪胆なのか、でなければ気が違っているかのどちらかだろう。

 形兆は左手を前に伸ばし、右手を二の腕の長さ分だけ後ろに置く。左手には弓、右手には矢。目の前の囚人に狙いを定める。
 この瞬間は、いつも迷いが生まれる。こんなことをして良いのか。己の父は、弟は、そして何より形兆自身は救われるのか。たとえこの道具を使って望みを叶えても、その先には何も残されていないのではないか。そんな迷いが。
 形兆はその迷いを振り払うように、瞳を閉じて心を落ち着けた。目の前に、ただ矢を放つだけで良い。そうして何人もの人間を殺してきた。そして何人かの人間は生き残った。新たな力を身につけて。目の前のこの男は、おそらく適性がある。本能的に、形兆はそれを感じ取った。

 目を開く。

 矢を放つ。

 放つ。放ったはずだ。放ったはずだが、その感触がなかった。右手の指を放す前に、矢が消えていた。
「きみはこれを持っているべきではない。自分自身、そう感じているんだろう?」
 言葉を発したのは、目の前の囚人だった。彼はうなだれて寝台に腰掛けた姿勢のまま、ただ右腕を持ち上げていた。その手に握られているのは、形兆が弓に番えていたはずの矢であった。

(何が起きた?)
 気付かぬ間に指の力が外れて矢を放ってしまい、それを彼が空中で掴んだのか? 否。矢は放つ前に手の中から消えていたし、この暗がりで放たれた矢を空中で掴めるなどという芸当ができるはずがない。
 一瞬で目を瞑っている形兆の前まで近づき、矢を奪いとったのか? 否。目の前の男の姿勢が移動した形跡はなく、足音も聞こえなかった。そもそも奪い取られるならその力を感じている。
 矢は飛んでいったわけでも、奪い取られたわけでもない。
「移動した」
 形兆の手から、目の前の囚人の手に移動した。その事実が何を意味しているのかを考えたとき、形兆はようやくその暗がりの中で目が慣れ、男の背後にあるものに気付いた。

 潜水服、あるいは宇宙服か。
 男の背後のそれを一言で表現するのに、それは的確な表現だと思った。全体の形状は人型に近く、両腕両足を備えている。ただし人間でいえば頭が入るヘルメットに相当する部分は巨大であり、肩がなくてほとんど頭から腕が生えているようなアンバランスさだ。頭部(あるいは胸部かもしれない)は鉄格子のようなもので覆われており、その向こうは硝子のような素材に見えるが、曇り硝子のようで中の物体は見えない。しかし深海探査艇のライトのような光がこちらを向いている。
 両手両足も巨大ではあったが、しかし力強さとはかけ離れている見た目だった。というより、そこらじゅうボロボロで割れていたり、継ぎ接ぎだらけ。もう死にかけのように見える。身体には鎖が巻き付いていて、それが辛うじて身体をその形状に留めているように見えた。よくよく見れば左腕の肘から先、右足の膝から先は存在しておらず、ただ鎖だけが何もない場所で空虚に絡んでいるのだ。
 宇宙服の右腕の肘から先は存在してはいるが、やはり奇妙な形だった。一言でいえば十得ナイフのような形状で、針や鋏、ぐるぐると螺旋を描くコルク抜きのようなものなど、さまざまな物品が突き出ていた。いずれも錆びているように見えたが。

『WWWWWWouuuuuuuuuuuldddddddd!』
 地の奥底から響くようなその音は、宇宙服の頭なのか胸なのか判らぬ部分から発せられていた。宇宙服は誰かが身にまとっているわけではないし、男が動かしているわけではない。それなのに身体を揺すり、声を発し、鎖がじゃらじゃらと揺れている。
 男がなぜ、形兆が独房に入ってきたことに驚かなかったのか? 入ってくるところが見えたからだ。
 男がなぜ、形兆が独房に入るための手段について尋ねなかったのか? 入るための手法が見えていたからだ。
 男がなぜ、形兆をただ「珍しい」などと評したのか? まさしく己の同類たる人間が珍しかったからだ。

『Yoooooooooouuuuuuuuuu!』
「おまえ、〈スタンド使い〉だな………!?」
「スタンド使い?」
 男は、スタンド使い、スタンド使い、と何度も口の中でその単語を転がした。
「〈スタンド使い〉、というのは、ぼくのことか……。成る程、スタンドというものを使う者、でスタンド使いなら、この宇宙服みたいなのや、きみの傍に沢山いる玩具の人形みたいのが〈スタンド〉ってことになるのかな。それで、〈スタンド〉を使う人を〈スタンド使い〉と表現する、と、こういうことで良いのかな、虹村形兆くん」
 形兆は名乗った覚えもないのに、目の前の男は名を知っていた。
 どうやって知ったのかは明らかだ。いつの間にか男の手には、矢だけではなく、見覚えのある生徒手帳が握られていた。形兆は右手を制服のポケットに突っ込み、確認する。生徒手帳が、ない。男の手に握られている生徒手帳の表紙には、形兆の写真が貼られている。生徒手帳を取られたから。だが、どうやって形兆の名を知ったのかまではわかっても、どうやって手帳を奪ったのか、その手法まではわからない。
 スタンド。それはわかる。それはわかるのだ。己と同じような力。己が目の前に新しく発現させようとした力。

『KKKKKKKKKinnnnnnnndddddddd!』
 宇宙服から三度、声が発せられたが、形兆はそちらに注意を払うことができなかった。頭の中で混乱が渦巻いていた。
「きみは自分のことが嫌いだ。自分のしていることも、正しい行為だと思っていない。なぜだろう。変わった名前のせいじゃあないだろう。しかし良い名だ。兆というのは、日頃目にするスケールのものではないね。凄く小さな、たとえば分子や原子に対する数のスケールだったり、でなければ国家予算だとか宇宙だとか星だとかの天文学的な数字としてしか出てこない。そうしたとても大きな数字を名前としてつけるということは、きみのお父さんかお母さんかは、それだけ長い時間を安寧と生きて欲しいという意味で名づけたのだろうね」
 男の長々とした言葉を無視して、形兆はどうにか頭を働かせようとした。

(この男の『スタンド能力』は、なんなんだ………?)
 形兆は咄嗟に、己のスタンドに指示を仕掛けて止まり、逡巡し、もう一本だけ持っていた矢をポケットから引き抜きかけ、やはり静止した。矢を番えればまた奪い取られそうだったし、己のスタンドに攻撃の指示をした瞬間、意のままに動くはずのすべての兵士が目の前の男の側に立ち、形兆に向けて銃を構えるような気がしたからだった。
 この聖なる矢は、スタンド能力を目覚めさせる力を持つ。適性のないものは死ぬが、適性があれば傷一つなく復活し、スタンド能力が目覚める。
 だがスタンド能力を発現させる方法は、聖なる矢のみではない。というより、矢による方法が邪道だといったほうが良い。本物のスタンド使いは、天性の才能によって、その能力を発現させるとも聞く。おそらく目の前の男は、天然物のスタンド使い。

 だが形兆には、この男の『スタンド能力』がなんなのか、まったく検討が付かなかった。
(こいつのスタンドは、おかしい………!)
 スタンド能力は、ひとりにつきひとつ。この表現は決して正しいわけではないが、現実に即している表現ではある。
 たとえば形兆のスタンド、《バッドカンパニー》はその名の通り、中隊規模の玩具の兵隊の軍団だ。玩具とはいえ、その銃は相応の破壊力を持っており、歩兵がいて、狙撃兵がいる。戦車がいて、攻撃ヘリがいる。形兆が刑務所に簡単に入ってこれたのは、斥候兵を用いて刑務所の警備ステムを乗っ取った上で、壁を工兵で崩して入ってきただけのことなのだ。帰りは、工兵が元通りに壁を直す。一体一体は小さな玩具の兵士でしかないが、彼らが集まることでバッドカンパニーになり、こうした作業も数分とかからずに達成することもできるのだ。
 つまり、形兆のスタンド能力は「銃を持った歩兵に敵を撃たせる」能力ではないし、「攻撃ヘリを操る能力」でもない。様々な兵士を使って様々な行動を実現させることであり、それを総括して『中隊規模の玩具を意のままに動かす』能力であるといえるだろう。スタンド能力はそう単純ではないが、形容するには単純でなくてはいけないのだ。
 では、形兆の手から矢や生徒手帳を奪った目の前の男の能力は、どんなものが想像されるか?

 奪うだけなら単純に『物を奪う』という能力かもしれない。あるいは少し捻れば『時間停止』なんかも思いつく。『時間を停止』させ、己だけがその中で動くという恐るべき能力を持つスタンドあるとしよう。そのスタンドと似たような能力を、この目の前の囚人が持っているとすれば、形兆の手から男の手へと矢や生徒手帳が移ったことは説明がつく。時間を止めて、奪い取れば良いだけなのだから。

 だが、それでは彼が、形兆が矢を用いていながら快く思っていないことや、己自身を嫌っていることを言い当てたことが説明がつかない。単にかまをかけたとは思えないし、この暗がりで形兆の表情を読んだとも思えないのだ。何より形兆の本能が、心を読まれたのはスタンド能力だと告げている。

(『スタンド能力』を『二つ』持っている………?)
 まさかそんなはずがない。そんなはずがないのに、形兆はわけが解らなかった。しぜん、身体が震えた。矢を取り出す体勢でポケットに突っ込んだままの手が戦慄いた。ポケットから、矢のほかにもうひとつ入っていたものが床に落ちた。
 囚人は、それを拾い上げて言う。
「だがきみにも、大事に思っている存在がいる。これは、きみの家族か」
 まさしくその通りで、形兆は荒々しく囚人に近づくと、危険も顧みずに写真に手を伸ばした。抵抗はなく、写真はあっさりと取り戻すことができた。
「きみは家族を大事に思っているのだろう。それならこんなことはやめて、大事にしてやるべきだ。でないと、いつかおれみたいになって後悔するよ」

 いつの間にか、生徒手帳は形兆のポケットの中に戻っていた。ただ、矢は男の手に握られたままだった。
「これは危ないもののようだから、おれが預かっておくよ。きみは高校生だ。まだ若い。だが大事な時期だ。将来は決まっているのかな。決まっていないなら、刑事にでもなったらどうだい? きみは意外と、正義感が強そうだ。自分のために、家族のために、頑張りなさい。ただし、正義の海に溺れぬように」


 虹村形兆は死の間際、刑務所での遣り取りを思い出していた。様々な刑務所を渡り歩き、矢による洗礼を与えてきた。だが洗礼を与えようとした相手が既にスタンド使いだったことなど、あの一度きりだった。

 あのときに言われた言葉が頭を過ぎった。家族を、自分を大事に。でないと後悔する。

 あの男の言う通りにしていれば、未来は変わっていたのだろうか。自分も死ぬことなく、弟と、父と、穏やかに暮らせたのだろうか。あの男、岩魚清次郎(いわなせいじろう)の言うとおりにしていれば。




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