リサイクルライフ/1

気狂いピエロ Mad Pierrot


絵を描いた。

東京での記憶は、今の圭一にとって非常に濃い密度を占めている。楽しかったわけではない。雛見沢に来て数ヶ月という短い間の生活に比べれば、忘れてしまっても構わないような、汚れて、角ばっていて、触って、血が滲み出たような記憶だった。
しかし忘れてはいなかった。

今の自分があるのは、ここでの生活のおかげだ、と思う。
東京での生活は、無駄ではなかった。苦しく、辛かった。しかし怠惰ではなく、無気力でもなく、純度の高いルビーを通して伝わるレーザーのような重なりがあった。
今は、ない。
雛見沢のエアロゾルは水蒸気を多量に含んでおり、ぼやける。
しかし記憶はあるから、すぐにでもそのエネルギーをコヒーレントに凝縮することができる。だから、無駄ではない。なくしたくもない。ここで生活して、そして、雛見沢に来ることができて良かった。本当にそう思っている。たった一点を除いて。


もう取り返しのつかない。

少女を撃った。

撃って、謝り、雛見沢に来て、笑い、泣き、怒り、奮起し、絵を描いた。沙都子が、描かれている。少しだけ、髪が伸びている。綺麗だ。他に表現が思いつかない。

少し顔を赤らめて、滑らかなラインを形成している下唇を噛み、配列を崩した美。恥ずかしげに左斜め下を向き、顔を背けたときの表情。
一瞬だった。このとき圭一は何と言っただろうか。音声はよく覚えていない。だが、映像は脳裏に焼きついている。
昔からこんなことは簡単だった。映像を多角度から焼付け、記憶し、思考の中で動かす。圭一には日常的なことで、だから絵を描くときもモデルが定位置に静止している必要はなく、一瞬の感動があれば充分だった。

沙都子を回転させる。
平面に落とした場合には見えない部分が見える。
右眼が、薄い。
多くの画像が寄り添いあい、重なり合って、見えなくさせている。遠くの風景のように、ぼんやりと。

絵を描き始めたときは、この重なり合いはもっと濃かった。頭がおかしくなりそうなほどに見えなかった。
今は、そうでもない。見つめられて、少しながら沙都子の愛らしい右眼が見える。


あの少女のことを忘れたとき、きっと完全に見えるようになるだろう。

(さて、どうするかな………)
圭一は考える。沙都子の絵を勝手に描き、コンクールに送る、というのはよろしくないことだろう。許可が出ないで人に絵を見せるというのは、表情を見せてくれたモデルに背いた行為だと思うし、それ以上に、もし沙都子が嫌がって、嫌われたら哀しい。

一応、絵を描く許可は貰ってはいるものの、沙都子は圭一が、見ただけでモデルとして相手を活用できる、とまでは思ってはいないはずで、また日を改めて、と思っているに違いない。

実際に目の前にモデルがいてくれれば、絵を完成させればすぐにモデルに公表しても良いか、という質問ができる。なるほど、便利だろう。少なくとも、自分の描いた絵を持って村を歩き回ったり、電話をして改めたて呼びつけたりしなくて済む。きっと、世の偉大な絵描きたちも、そういった行為が恥ずかしいから、モデルをアトリエに呼んで絵を描いていたに違いない。そうでなければ、頭の中の記憶から描いたほうが効率的だし、邪魔も受けずに済む。


「あ、もしもし、俺だけど」
『新手の詐欺ですの?』
「いや、じゃなくて………」
『わかってますわよ。圭一さんですのね? あ、ちょっと待ってくださいな。受話器置きますわよ。はい、置いた』
沙都子の言動は、回転がとても素早い。たまに圭一ではついていけないときがある。しかし、そういうときの沙都子の表情はとても魅力的で、電話越しで会話をしているこの状況が残念でならなかった。

『今お料理中で、ちょっと火を止めてきただけですわ』
もう十九時に針が近い。もうそんな時間か、と思う。いつから描き始めたのだったか……。火曜日に沙都子から絵を描く許可を貰い、帰ってきたら眠くなったので寝てしまって、次に起きたときに描き始めたので、日を跨いでいないとすれば十数時間描き続けていた可能性がある。
しかし、その程度の時間だとすれば、傑作すぎるほどだ。もしかすると、一日日を跨いでいるのかもしれない。

『お見舞いに行っても、眠っていて起きられないから、ってお母様に聞いて、心配しましたわよ』
「今日って何曜日だっけ?」
言いながら、圭一は時計を見たが、しかし当然のごとく時計には日付が表示されるわけがない。


『金曜日ですわ……。もしかして、全然意識がなかったんですの? 今、電話してて大丈夫ですの? 丸二日も寝込んで………』

(一日じゃなくて、二日か………)
実感すると、腹が減ってくる。眠い。しかし、ここで寝たら、もしかすると二日くらい眠り続けて、コンクールに間に合わなくなる可能性もある。沙都子にも逢えなくなる。我慢だ。愛らしい沙都子の姿を思い浮かべる。朝から元気だ。

『圭一さん? どうしましたの?』
沙都子の心配そうな声。彼女は、圭一の両親が風邪と伝えたことを、そのまま信じきっているのだろう。

「あの、さ、いや、本当は………」
『男らしくないですわね。さっさと言ってくださいまし』
まだそれほど言いよどんでいないのに、怒られてしまった。

「あのさ、風邪ひいてたんじゃないんだよ。絵、描いてたんだ」
息の擦れる音。
少し受話器を耳から話す。

『莫迦じゃないんですの?』聞こえてきた声は、それほど大きな声量じゃなかった。少しの間、空気の漏れる音がする。ゆっくり、声が聞こえた。『こっちが、どれだけ、心配したと思って………』
「ごめん」心が痛いので、素直に謝る。


少し沈黙。

一度、呼吸の音。
『言い過ぎましたわ』

そうでもない、と圭一は思った。もっといろいろと言われると思ったので、多少拍子抜けしたほどだ。
「いや………」とりあえず、それだけ言う。
『あの………』沙都子の喉を唾液が通る音がする。『もう完成したって、写真か何かを見て描いたんですの? ちょっと、それは、よくわからなくて、恥ずかしいですわ………』
沙都子のその言葉は、圭一にとって多少微笑ましく感じた。
沙都子は、可愛らしい。
「じゃあ、今から行くよ」
圭一は言った。
返事を聞かずに受話器を置く。

汚れた白衣のままで、サンダルを履く。
自転車は家の前に。
ペダルに足をかけ、キックスタート。
サドルに跨る。
冷たい空気は、脳を綺麗にそろえてくれる。
自転車は素直に転んでくれた。
焦って絵の安否を確かめる。
絵を持ち忘れたのに気づいたのは、五回ほど瞬いてからだった。




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