天国の前に/06/0日目 臥竜の十兵衛
0日目
臥龍の十兵衛
戦国の魔王、織田信長。
天下統一目前の彼に止めを刺したのは、部下である明智光秀であったが、それは信長が光秀の反乱を予想だにしていなかったためといえよう。斎藤道三との縁無く、光秀が信長と敵対する一武将であったならば、後世に名を残すことは無かったであろう。
現代における光秀の評価は、裏切りという行為に基づいたものだ。けして光秀という個人の人間の結果ではない。
振り返ってみて、裏切りなどというその場の状況ではなく、その能力で信長と敵対した者の中で、信長をもっとも危うくさせたのは誰であろう。
巨大な武力とともに若き信長と相対した今川義元か。
妹の夫であり、義弟であった浅井長政か。
信仰からなる圧倒的な力で信長に迫った本願寺顕如か。
あるいは戦国の世の二雄、甲斐の虎こと武田信玄か。
はたまた信長と同じく銃の力に魅せられた鈴木孫一か。
いずれも培った武力、軍団を結集して信長と相対し、苦しめた。その中の誰が最も脅威であったかは、おそらく歴史家の間でも評価が分かれるに違いない。
だがまさしくその一個人、つまり単体での力によって信長を死に近づけた人物といえば、それはひとりに絞られるのではないだろうか。
その男の名は、杉谷善住坊。
忍者で知られる甲賀の里の出身といわれ、銃で信長暗殺を試みたとして知られた人物である。
当時は未だ弓の時代。銃は火縄であり、命中精度は低く、連射も効かないものであった。
だというのに、なぜ杉谷善住坊が銃で信長暗殺を試みたのか。
その理由に、彼が兄のように感じていたとある人物にあるということは、歴史には知られていない。
物語は信長暗殺より数十年遡る。
近江国(現在の滋賀県)、甲賀の里。卍谷。
明け方の丘の上で、未だ幼さの残る少年であった杉谷は、殆ど実の兄のように感じていた男からある言葉を聞かされた。
「善よ、おれは武士になるぞ」
その言葉を聞いて、杉谷は己の耳を違えたのかと思った。
武士になると息巻いた男の身の丈は六尺五寸(約2メートル)、人並み外れた長身であり、筋骨隆々とした偉丈夫である。片目には黒い眼帯をしている。年の頃は二十代であろう。
名を、黒川十兵衛という。
「姉はどうする」
と杉谷はようやくそれだけ言った。杉谷の姉、お雪は杉谷と結婚をすることになっていた。
「雪坊も幸せじゃなぁ」顎に手を当て、にやにやとして十兵衛は言った。「片目の上に、老け顔の男と結婚せずに済む」
「おまえは姉の気持ちを知らんのか」
「知っておる。だが、雪坊は器量良しじゃ。引く手数多じゃろう。いやぁ、良かった良かった。わしも安心して行けるというものじゃ」
「殺す」
ふざけるな、殺すぞ。杉谷はそう言って背中に担いでいた弓矢を抜いた。
だが杉谷が矢を弓に番えることはできなかった。
いつの間にか、弓の弦が切れていたのだ。
目の前では十兵衛はにやにやとしたまま立っている。この男が切ったのだということは理解できる。だが、その恐ろしさは常人には理解できないだろう。
十兵衛は、あらかじめ杉谷の弓に切れ目を入れていたなどというのではない。たったいま、剣術でいえばさながら居合のごとく、弓を抜き撃ったのだ。杉谷よりも遥かに早く、しかも正確に、弓の弦だけを。彼の手に弓があり、杉谷の足元に矢が刺さっていることから、それが解った。
「善よ、おぬしは弓で名を挙げることはできんな。なにせ、いちばんはわしだ。弓では、どんなに頑張っても、おぬしは二番止まりじゃ」
「名を挙げる気などない」と、武器を失った杉谷は言い返すことしかできない。「忍びが名を挙げるなど、武士になるなど、馬鹿なことを………」
「おお、負け犬が吼えておる。愉快愉快」
ではな、と十兵衛は弓を担ぎ直して背を向けた。このまま、甲賀の里を抜けるつもりだ。抜け忍は容易なことではないが、黒川十兵衛にはそれだけの力がある。杉谷には止められない。涙がぼろぼろと溢れた。
止められるとすれば、ひとりだけである。
「十兵衛さま」
明け方の丘の上に涼やかな声が響いた。黒川十兵衛の前に、涼やかな立ち姿の女性が立っていた。杉谷の姉、お雪である。
「雪坊か」十兵衛は立ち止まり、言った。「おれのことは忘れてくれ」
「忘れません」
「忘れろ」
「十兵衛さまは、きっとご立派になられます。十兵衛さまは、竜ですから」
杉谷に見えたのは、いつものように涼やかな調子で言葉を紡ぐ姉の姿と、十兵衛の後ろ姿だけである。
だがそれでも、十兵衛が笑ったのが解った。
「成る程。それなら、確かに忘れぬほうが良い。雪坊の卜占は確実じゃからな。きっと出世する」
「はい」
「そうしたら、雪坊が結婚していようが子どもがいようが、まるごと貰い受けてやる」
「はい」
楽しみにしています。お雪がそう言って、珍しく微笑んだのを杉谷は覚えている。
名 黒川十兵衛
性 大柄な男
父の職 部落民
幼年期 部落の子ども
青年期 武家の従者
目的 金と権力を求めて
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