ブロセリアンドの黒犬/01/03 《邪光の眷属》
3-005U 《邪光の眷属》 |
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「あいつの放つ光を見るな! それは見るものの目を刺す……言葉の綾ではない、実際に血が流れるのだ!」
~アリオンの下級指揮官~
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「すみません、どこかでお会いしたことがありましたか?」
女の名を聞いたのち、凍りついたまま動かぬベルトランに向けて、《ジャンヌ・ダルク》は尋ねた。
彼の表情から、鬼気迫るというか、ほとんど戦場の兵士に近い気配を一瞬感じたジャンヌだったが、声をかければすぐにベルトランの顔は柔和な中年男のそれに戻った。
「あ、いや、知り合いに、同じ名前のやつがいてね、それで………」
ジャンヌといいう名前はけして珍しくはない。フランスの女から探そうと思えば、佃煮にするほどいる。
だから、「よくある名前ですから」と返しつつも、しかしそのよくある名前に驚嘆の表情を浮かべたベルトランに、ジャンヌの心の内には僅かに疑念が生じた。
が、それ以上に気になったことがひとつあった。ジャンヌというのは、フランスではありふれた名前ではあるが、ここ、アトランティカでは聞いたことがない。ということは。
「あの、もしかして、ベルトランさん、フランスの方ではありませんか?」
「へ? ああ、そうですよ。シャルルさまのためにイングランドと戦う神出鬼没、常勝無敗のブロセリアンドの黒犬、ベルトラン・デュ・ゲクランとはおれのこと」
とベルトランは大仰に言って鼻を膨らませた。
田舎者であり、戦争に関しては知識の薄いジャンヌである。寡聞にしてブロセリアンドの黒犬のことは知らなかったが、先ほどの腕前から、彼の言う大言は嘘ではなかろうと推測できた。
「あなたもシャルルさまのために戦っておられるのですか?」ジャンヌは喜びで、ベルトランの手を取った。「ということは、わたしたちは同国の人間のようですね」
「天使さまもフランスの方だったんですか?」とベルトランは目を白黒させつつも、「ああ、そりゃ神さんに守られてる国だもん。そりゃフランスにいるよなぁ」などと納得できるのかできないのかわからないようなことを言った。
「あの、ベルトランさん、わたしは天使ではありません。ジャンヌとお呼びください」
「あ、へへ、ああ、ジャンヌさま、ジャンヌさまですね」
「ジャンヌで結構です」
「あ、はい、わかりました。ジャンヌさま」
「ジャンヌで結構です」
「あ、ええ、いや、でも天使さまを呼び捨てというのは………」
ラ・ピュセルだ、聖乙女だと、そんなふうに担ぎあげられるのは初めてではなかったが、天使と呼ばれるのは初めてのことだった。正直言って、照れ臭いというか、胡散臭い響きがある。
「ですから、わたしは天使ではありません。どうしてあなたはわたしのことを天使だというのですか? 特に天使らしい見た目もしていないと思うのですが………」
このアトランティカには本物の天使が存在していて、またゼフィロンにも似たような種族がいる。ベルトランの部下らしい、エルトラという男は後者の種族、スワントだ。あちらのほうが、天使らしいではないか。
ジャンヌがそう言うと、ベルトランは頭を掻き、唇を舌で濡らし、足を踏み鳴らして首を傾けてからこう言った。
「でも、天使さまっていうのは……、なんていうか、こう、天使さまだ、っていうのが天使さまなんじゃないですか?」
どうやら彼の先ほどの一連の動作は、説明の言葉を考えていたためらしい。それで出てきた言葉がこれなのだから、彼はあまり喋るのが得意ではないらしい。
しかしその言葉は強くジャンヌの胸を打った。そうだ、その通りだ。信仰というのはそういうものだ。自分が神の声を聞いたときも、誰がそれを保証してくれるというものではなかった。神の声だと思ったから、そう思った。それだけのことだった。
そしていま、ジャンヌは迷っているのだ。
「あなたは、神学者よりも聖書に通じておられますね」
と、ジャンヌは一先ず微笑んで返した。
「いやぁ、へへ、うへ、従兄弟のね、エマヌエルってやつがいて、聖書のことなんてそいつから聞いただけなんだけど、そんな、天使さまに褒められるほどのことでは」とベルトランは照れたように両の長腕を振るった。
「ジャンヌです」
「はい、ジャンヌさま」
「ベルトランさん、子なる神やその母の名を覚えていますか?」
さま、を訂正するのは諦めることにして、ジャンヌは問いかければ、ベルトランは目を見開いてばたばた腕を振った。いや、いや、違うんですよ、と。
「いや、その、異端ってわけじゃねぇんですよ。なんか、こっちの世界に来てから、変なかんじで………」
覚えていないんです。神の子の名前さえも。ベルトランはそう言った。
ジャンヌと同じだ。
この世界、アトランティカに召還されたとき、ジャンヌの中から信仰と神に関する知識の一部分が奪われた。彼女を召還した国、グランドールの人々から、彼らが崇める神であるヴェスこそがジャンヌが知っている神と同一存在であると伝えられたものの、ジャンヌはその説明を信じきることができなかった。
戦乱の大陸、アトランティカ。この場所ではジャンヌのように他の世界の記述から再創された召還英雄が存在し、彼らは国々の覇権をかけた争いに参加したのだという。
なぜ、彼らがそうも簡単に見知らぬ国での戦いに参加したのか? 戦いが好きだったからだろうか?
いや、違う。
「そちらの方は……、敵国の方のようですが」
とジャンヌは話題を変えて、未だ気絶したままのエルトラに視線を向けた。
「いえ、味方ですよ。えっと、なんていったかな、スワントっていうらしいです。あ、こいつの名前はエルトラで、スワントって種族ってことね」
「ええ、わかります。スワントはゼフィロンの種族ですから。でも、ゼフィロンといえばシグニィを崇める敵国ですよ」
「あれ? おかしいな。こいつからは、おれのいた世界での神さまの名前は、こっちではシグニィっていうって教わったんですが………」
首を傾げるベルトランを見て、ジャンヌの疑念は確信に変わった。彼も、同じだ。この世界に呼び出され、神を奪われ、信仰を盾に従わせられているのだ、と。
*
リャマが欠伸をした。既に陽は赤く染まっているからには、国境沿いの駐屯地に帰れるのは陽が完全に沈んでからだろう。
だが夕暮れ刻となってもなお、ベルトラン・デュ・ゲクランのお喋りは止まらなかった。
「そうですよ」
「いや、でも違うじゃん。グランドール? そのグランドールの……、えっと」
「ヴェス」
「そう、ヴェスって神さまがおれの知ってる神さまと同じなんだって。ジャンヌさまが言ってたぞ」
「その女が嘘を吐いているのです」
「馬鹿、おまえ、天使さまが嘘を吐くかよ」
エルトラの頭が痛かったのは、単に一度ベルトランに殴られているからだけではなかった。
エルトラが目覚めたとき、焼け爛れていたはずの傷跡は綺麗に消えていた。同じように、水浴びをしていた女の姿も消えていた。
残されたのはエルトラと、余計な知識を身に着けたベルトランだけだった。どうやら件の女はグランドールの召喚英雄で、しかもベルトランと同国の人間だったらしい。
「だったらその女についていけば良かったじゃないですか」と、ついついエルトラはそんなことを言ってしまった。
「そういうわけにはいかんだろう。一応、世話になった義理もあるからな」
「義理ね」
この不躾に見える男にも、そうした考え方があるのか。エルトラはそんなふうに思ったものだ。
ジャンヌというその女が、何を考えてベルトランと語ったのか。なぜそのまま去ったのか。それはあとに置いておくとして、もうひとつ、疑問が残った。
(あの獣は何だったんだ……?)
ジャンヌたちに出くわしたエルトラたちの目の前に現れた、白い獣。その獣が発した邪光によって、エルトラの目は焼かれた。
この世界に疎いベルトランは、あれがアトランティカに生息する獣だと思っているようだが、あんな獣は見たことがない。召喚英雄であるベルトランだから、目を瞑ったまま倒せたらしいが、目を開けたときには既に雲散霧消していたらしい。
エルトラは邪光の獣の存在に、これまでの戦争にはなかった胸騒ぎを感じていた。
*
エルトラたちが《邪光の眷属》と出くわしたのとほぼ同時期、バストリアの最北端、ザルガンの奈落に《疫魔の獣 イルルガングエ》が出現した。
しかしその事実は、ゼフィロンでは飛雷宮の巫女など一部のものを除いては知られることはなかった。
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