決戦前夜/時代2/Turn3 《遥かなる地の奈落監視者》




3-081C 《遥かなる地の奈落監視者》
「アトランティカを襲った災禍の先鋒となったのは、巨大な赤眼を持つ疫魔の獣であった。それは最初北方の奈落から現れ……」
~「災禍の黙示録 序章」より~


 フィーは人の4倍眠る。
 そしてそのうちの3/4は、時間の流れから断絶されている。
 なので、寝ている間のみ、3/4の速度で時間が流れているようなものなのだ。

 これでもマシになったほうだ。ザルカン出身の時空魔導士であるアロンドの師が彼女に治療を施す以前は、フィーは幾ら寝ても時間の経過が無かったのだから。
 寝ても本人の中では時間が経たず、何かの拍子で目覚めるのだから、つまり実質的に眠れなかった。そのまま衰弱して死ぬところだったのだ。

 アロンドはフィー付きの医師として働く、バストリアの王宮魔術師である。
 師からフィルメリア王女の治療の役目を引き継いだとき、アロンドはまだ十代で、少年と青年の間くらいの年齢だった。当時のフィーは、まだ幼かった。
 いまやアロンドは相応の経験を経た大人になっていたが、フィーは子どものままだ。

 いまのフィーは、治療の甲斐あって、一度眠ると丸一日眠り眠り、さらに8時間眠る。彼女にとっては、2日が1日なのだ。平均すれば、時間も同じ速度で流れるため、彼女の老化速度は常人の1/2でしかないというわけだ。

 時代の流れが違うというのは、一種哀れではある。他人と歩幅を揃えて歩けないようなものだ。誰もが先を行ってしまう。アロンドが死ぬ頃になっても、まだ彼女は妙齢であろう。
 だがアロンドにとっては、いまは幸せだ。ザルカンの時空魔術師の弟子と、一国の姫君の関係である。彼女の病が無ければ、アロンドはフィーの傍に居られることはなかっただろうから。

 その幸福は、突如として湧き出た黒い霧に砕かれた。
 その霧には血のように赤い眼があり、蜘蛛のような細い脚があった。オークほどの大きさのそれは、枯れ樹の洞からするすると抜け出てきたのだ。
「フィー!」
 その霧に最も近い位置にいたのは、フィーだった。好奇心旺盛な彼女がその異様な物体に手を伸ばす前に、アロンドは彼女の傍まで駆け寄り、抱き上げることに成功した。運動不足の身体で、息が切れた。
「アロンド、これは………」
 呆然とした様子でフィーが尋ねたが、アロンドは答える言葉を持たなかった。

 黒い霧は攻撃を仕掛けては来なかった。
 いや、正確にいえば、最も近くにいたフィーの存在を感じ取り、にじり寄ろうとしたようである。だが、その歩みはどんな獣よりも遅く、鈍重であった。
(危険は無いのか……?)
 アトランティカでは見ない類の生物である。いや、生物といってよいのかはわからないが、巨大な目を持つそれは、禍々しい雰囲気を纏ってはいたものの、《虐殺森のスケルトン》に比べれば何倍も安全そうにも見える。

「姫さま、王宮医師どの、ご無事ですか!?」
 アロンドとフィーのピクニックを影から護衛していたバストリアの騎士たちが駆けつけ、黒い霧と対峙する。血気盛な騎士のひとりなどは、既に霧に切りかかっていた。
 一撃である。
 霧は霧で、一撃にて両断、雲散霧消した。

 アロンドは息を吐いた。明らかに異常な生き物の登場に驚きはしたが、動きは遅く、すぐに死んだ。大したことはなかった。
「もう大丈夫のようですね。おふたりとも、ご安心を。このような生き物、軽い軽い」と霧を切った騎士のひとりが冗談めかして言った。「とはいえ姫さまには刺激の強い光景だったかもしれません。失礼しました」
 そう言って騎士たちが剣を収めようとしたときに異変は起きた。

 騎士の手から、何かが落ちた。最初、アロンドはそれが剣だと思った。それはある意味で正しかった。剣は落ちた。だが落ちたのは剣だけではなかった。
(なんだ、これは………!?)
 騎士の身体から落ちたのは、剣とそれを握る腕。
 先ほど黒い霧を切った騎士の身体が、腐っていた。

 腕が落ちた騎士は、己の身体に起きた異変が信じられないようだった。アロンドも同じだ。何が起きたのか、さっぱりわからない。
 誰も彼もが動けぬ中で、騎士の身体が徐々に変異していた。黒く、黒く。身体は薄ら呆け、その姿はまるで先ほどの霧の魔物のように。

 最初に反応したのは、幼いフィーだった。ぴんと伸ばされた騎士の残っている手を掴むように、手を差し伸ばした。
「フィー、駄目だ」
 アロンドはそう叫びたかった。彼女の身体を抱き留めたかった。奇妙な確信があった。誰であろうと、黒い霧に侵されたあの騎士に触れれば、やはり同じように黒い霧になってしまうと。
 それなのにアロンドの身体は凍り付いたようで、動けなかった。

 だがアロンドが動かずとも、生き残った騎士たちが手を出さずとも、フィーの身体は黒い霧と半ば化した騎士に触れる前に止まった。
「ご婦人、《疫魔の眷属》を殺した者には、手を触れぬように」
 突如として何処からともなく現れた黒衣の騎士が、小さな身体を抱き上げていた。

 のちにウーディスという名だということを知るその黒騎士の低く地の底から響くような声に、アロンドはどこか懐かしさに近いものを感じた。

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