展覧会/『CARTE』/Ep1-3《折られた羽》
《アイリン・ベル/Irene Belle》、矢の雨に身を貫かれること
《アイリン・ベル/Irene Belle》は血走った目を剥いて周囲を見回しました。
共にイエバの眩しい光を受けた純白の翼が、血の雨となって祖国シェイクの地を濡らしました。
到底信じることができないほどにその現実感無い光景に、アイリンは眩暈を感じていました。
「アイリンさま!」
重心を失って墜落しようとしていたアイリンを、突如として飛来した何者かが引き上げました。
重くなった瞼をかろうじて上げて、己を助けた姿を確認すれば、この少女は——。
「……ありがとう、アナイス。二番目の羽の残った兵力は?」
アイリンを助けた少女、《アナイス・テイラー/Anais Taylor》は《二番目の羽/Second Wings》から任命されてから幾許も経っていない、まだあどけない翼でした。
《アナイス・テイラー/Anais Taylor》 |
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1-3-211E
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才能を認められ、早い年齢で達した年齢に《二番目の羽/Second Wings》に任命されていましたが、それだけアイリンが格別に罪悪感を有していた羽です。
いくら実力があるといっても、この若さで——。
《二番目の羽/Second Wings》 |
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1-3-214R
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「先鋒は壊滅です。本隊と後衛はまだ半分程度が残っています」
血で染まったアナイスの腹部を茫然と眺めたアイリンは、動揺していない声に気がついて頭を上げました。
希望を失っていない目。
アイリンはアナイスを、寝食を共にし、神を信じて命を投げ出そうとしているこのイエバの小さい翼の命を無駄にすることなどできませんでした。
後退せざるをえないということなのか……。戦況を再確認するために、アイリンの視線は鋭く動き、過去数日を振り返りました。
《アイリン・ベル/Irene Belle》、絶望的状況に至るまでの出来事を回想をすること
首都ハネスを向かって進撃した連合軍は、最終的に懸念していた関所、沈黙の要塞カサディンに到達しました
堅く閉じられた罪悪の門。
10年前には越えられなかった重さが息をすることさえ手にあまる重圧感で近づき、そこから用心深い対立が始まりました。
メリナが信号を送るとすぐに月の欠片が装填され始めます。
前戦争では越えられなかったカサディンを、今度こそは必ず越えなければならなかったので戦争を準備するということにあって最優先目標は、カサディンをどのように突破するか、ということでした。
そしてそれに対する完璧な解答は、アルケンの秘密兵器が装着されたセノトがこちらまできてこそ使用できます。
それが到着するまではまだ何日が残っていたので、連合軍は次善策を使うことにしました。
その次善策こそがメリナがマスターである月輪の夢決議で新しく開発した新兵器です。
メリナは砲弾で使われる宝石だけ充分ならばそれがなくとも十分にカサディンの壁を崩すことができると自信を持っていました。
いま持っている宝石砲弾で使うことができるのは、良質のカボチャとサファイアがそれぞれ二つの箱にやっと。
おおよそ百回近く撃つことができる量です。
「カサディンを陥落させるには不足する。だが、無力化させるには充分ね」
カサディン陥落の鍵がくるまでの間、敵を閉じ込めて時間を稼げさえすれば充分だということが戦略の要旨でした。
月輪の砲台の威力によって閉じ込められた敵は、新兵器が到着すると同時にカサディンごと燃やし尽くされるでしょう。
充填が完了した月輪の砲台は、メリナの命令だけを待っていました。
いえ、月輪の砲台手だけではなく、連合軍の皆がメリナの口だけを眺めながら、ぼんやりと感じていました。 本当に戦争の開始が今まさにこのときだということを。
しかし、本当に戦争の開戦を告げるのはメリナではありませんでした。
カサディンの壁を越えて、黒い悪夢のような何かが飛び出してきました。
その巨大な何かを確認するために皆の視線が集まった瞬間、それと同時にゆっくり罪悪の扉が開き始めました。
「中央砲台、目標変更! 城門へ!」
メリナの差し迫った叫びに月輪の兵が目標を変更し始めましたが、その巨大な何かはただ二度の跳躍だけで砲台の上に跳び移りました。
「危ない!」
誰かの叫びが悲鳴で終わる前に、、その巨大な獣は着地と同時に中央の砲台を壊してしまいました。
虚空にばらまかれた月輪の砲台の破片を見て、メリナはその刹那に、壊されるなんて、という嘆きとともに、あの砲台を作るために涙とともに売った大邸宅を思い出しました。
撃つことさえできなかった!
内心で泣き叫びながら呪文を詠唱するメリナの上空にアイリンが飛び上がりました。
「エロン、夜明けの慈悲を!」
《夜明けの慈悲/Mercy of Dawn》 |
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EP1-2-149R
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純白の騎士が兵を掻き分けて飛び出し、その勢いそのままに黒い獣に向かって突進しました。
馬と共に飛び出したエロンが振り回した《夜明けの慈悲/Mercy of Dawn》が振り切られるその瞬間まで、その黒い怪獣の正体を理解していたのは、ただアイリンのみ。
第二次戦争最後に感じた、魔王に匹敵する正体不明のアゼルの残滓。
当時にはその力の所有者が誰なのか確信できませんでしたが、今己の二つの目で直接向き合ったその瞬間、知ることができました。
「終焉の宣告者……、サルテス」
結局、10年の間、懸念していたことが起こりました。
ベリアルがまともに力を使うことはできない状況であったからこそ、ハネスを向けた電撃戦を立案できたのです。
今、目の前に現れた黒い悪夢、《終焉の宣告者、サルテス/Sarutes, the Condemner of End》は、この作戦の最初の前提からひっくり返してしまっていました。
《終焉の宣告者、サルテス/Sarutes, the Condemner of End》 |
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EP1-2-164E
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「クアアアア……!」
飛び出した《キメラ16号/Cchimera NO.16》がサルテスに飛びかかります。
いや、あれでは駄目だ。サルテスには傷さえ負わせられない。
アゼルの残滓そのものにほかならないサルテスと戦えるのは、ただひとり《夜明けの慈悲/Mercy of Dawn》を持つエロンだけ。
それでさえも、しばらく足止めしておくのが限界なのだから。
《キメラ16号/Cchimera NO.16》 |
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EP1-2-167E
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一瞬の刹那に、アイリンは最大限に冷静に状況を分析しました。
予想外の因子というにはあまりにも巨大すぎる災害。
サルテスはただ災害と呼ぶことしかできない状況そのものとなり、連合軍を圧殺しました。
ありがたいことに、目下の判断を下さなければならない状況から悩む必要を失くしてくれたのは、カイデロンの行動によってでした。
大きく開かれた罪悪の門から滝のようにあふれ出てきた闇の軍勢を見るやいなや、アイリンは後退を命じました。
《聖域化/Make Sacred Grounds》された土地と月輪兵団の魔法、そして《キメラ16号/Cchimera NO.16》の犠牲。
カサディン攻略のために準備した全てのものを注ぎ込んでサルテスとカイデロンの大軍の足止めをした連合軍は、必死に進撃してきた速度より迅速に退却し始めました。
《聖域化/Make Sacred Grounds》 |
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EP1-2-147
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諦めが焦げついた錆びのように、アイリンの胸を徐々に侵食していきます。
サルテスが参戦した以上、いくら考えても再び次期聖女を取り戻す作戦は思いつかなかったのです。
何千年もの間、傍観していたのに、いったい今になってなぜ!?
心臓に押し付けられた諦めの錆が首元まで達し、吐き気を誤魔化すために噛んだ唇から血が滲みました。
シェイクが起こした戦争だと!?
既に戦争を強いられることになった理由から今の後退に至るまで、最初から最後まで完全に踊らされるばかりだった!
それだけではなかった。
ラジア、あなたの復讐するためには、もう少し時間が必要だった。
そもそも初めから、この戦争を始めてはいけないということだった。
あらゆることが間違っていた。シェイクの運命も。
聖女のいないシェイクは、その最も深い根元である信仰心が失われてしまっているのだ。
すぐにすべての羽らと司祭が力を失うだろう。
存在の意味を失った瞬間から、誰も目を開くことができなくなり、シェイクはそのまま崩れてしまうのだ。
アイリンは見たこともない次期聖女の顔を思い浮かべようとしながら、答えを渇望しました。
どのようにシェイクは終焉を迎えるべきなのかと、わたしたちは今後どんな道を進まなければならないかと。
「アイリンさま、急報が」
エロンが堅い表情で近づいてきました。
アイリンがそっと首を縦に振って許諾の意味を伝えると、エロンがはさらに深刻になりつつある状況を報告しました。
「エスファイアがカディア渓谷を占領しました」
これですべてが明らかになりました。
エスファイアがシェイクの中心部へと進撃せずに、わざわざ迂回して南側のカディア渓谷を占領したこと。
使節団が拒絶されてから数日と経っていないのに?
時期だけを見ても、使節団が到着する前から戦争を準備していたという話になります。
その上、このタイミングでのカディア渓谷……。
カディア渓谷は連合軍がシェイクで退却するために必ず通るであろう地点です。
連合軍がカイデロンに対し、どの時点に敗北して後退することになるのか知らないならば、絶対占領する理由がない場所。
エスファイアとカイデロンが軍事同盟を結んだことは、確実になったのです。
次期聖女を救う道は消え、妹の復讐は遥かに遠くなった。
それでも今ここで死ぬわけにはいかなかったのです。
「今からわたしたちの羽はカディア渓谷に赴きます」
「……アイリンさま?」
エロンとメリナが血の気失った表情で問い直しましたが、、
「本隊がカディアで足止めを喰えば、カイデロンの追撃に捕えられてしまうでしょう。 先に行って、道を作っておきます」
アイリンは翼を広げ、ゆっくりと飛び上がって別れを告げました。
「カディアでまた会いましょう」
丸一日休まず飛んでカディア渓谷に到着した疲弊した羽を待っていたのは、エスファイアの《銛砲兵/Harpoon Artillery》から豪雨のように降り注ぐ矢でした。
《銛砲兵/Harpoon Artillery》 |
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EP1-3-171U
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「どうして……!!」
まさか羽だけで退路を抉じ開けに来ることまで予測していたというのか。
絶望に打ち震えるよりもむしろ、この舞台のシナリオを書き上げた者への畏敬の念が沸き起こりました。
兵を起こした時点から今の矢の雨に身を投げ出す以外にアイリンに選択肢は存在しなかったのです。
これほど緻密な計画を構成することができる者は……。
《リハルト・フォン・シュバルト/Richard von Schubart》!
《リハルト・フォン・シュバルト/Richard von Schubart》 |
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EP0-1-001E
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占領されたシェイク要衝地の真ん中に彼がいました。
白髪の老将軍と視線を交わしたアイリンは、悲痛さの波が胸に食い込むよりも激怒しました。
いったいなぜ! なんのためにわたしたちのシェイクを!?
トルステン一世の命を奪い取ったカイデロンと手を握るほど、わたしたちのシェイクが憎かったというのか!? いったいなぜ!?
《リハルト・フォン・シュバルト/Richard von Schubart》、大天使との10年ぶりの再会を果たし、矢を向けること
視線だけで心臓を抜き取ってしまいそうなアイリンの血走った視線を淡々と受けて渡した老将軍は、傍らに立つ短髪の女騎士の名を呼びました。
「レア」
「はい」
阿鼻叫喚の地獄の中で死を初めて目の当たりにするという事実に興奮を隠せないながらも、恐怖に負けてはいない声でした。成る程、それなら十分だ。
「下へ向かい、指揮する。東側を注目するのを忘れないように」
「わかりました、大将軍さま!」
敬礼のあとで走り去るレアを見て、リハルトは心強さを覚えました。
いつのまにか立派な騎士に育ったんだな。姉上も誇らしく思われるだろう……。
積載された矢と銛は十分であり、包囲網を突き抜けてきた天使を処理するための槍兵の配置も完璧だ。
そして敵軍は空軍しか来ていないだろう。
後退もまた不可能。
恨まないでくれよ、アイリン。
10年前には背中を預けて同じ敵に剣を剥けたが、今はただ戦場の反対側で出会ったというだけのことなのだ。
戦争の結果だけが、誰が正しかったかを教えてくれるだろう。
火の中に飛び込んでくる蝶の群れのように、イエバの翼は飛び立つ矢の数と同じだけの血の雨を地上に向けて落としました。
《アイリン・ベル/Irene Belle》、夕陽に染まる砂嵐を目撃すること
回想を終えた《アイリン・ベル/Irene Belle》は、決断を下すために頭を上げました。
自分を支えているアナイスの腹部から流れ出た血の滴りが、アイリンの甲冑の上に鮮やかな紅を描きました。
日が沈む……。
ふと夕陽が見たくなって、左側に視線を向けました。
ラジアと双子で同じ卵で生まれてから、約300年。
半身ともいえる羽のための復讐心ゆえに目が見えなくなったのが今の敗北を、シェイクの危機を齎したのだと思い、目を閉じました。
どうしてイエバはこのような愚かな自分に、大天使という重責を預けられたのだろうか。
次期聖女を救出するためには、戦争ではなく、他の方法があったかもしれないのに。
わたしの判断で、皆を死なせることになってしまった。
「アナイス、ごめんなさい――」
「……アイリンさま、何を言ってらっしゃるのですか?」
わたしを信じて《二番目の羽/Second Wings》になったあなたに、そしてわたしを信じてついてきたみんなに、ごめんね。
覚悟を固めたアイリンが、アナイスに最後の命令を下すために右側に頭を向けました。
アイリンの目に飛び込んできたのは、夕陽を受けて明るく輝くアナイスの顔だけでありませんでした。
地平線に、黄金の光で染まりながら砂嵐を起こす者がありました。
「疾く、さらに疾く走れ! このクソオオカミたちよ!
昨日おまえが喰ったエリザベスの対価になるだけの努力をせよ!」
《適時の援軍/Timely Reinforcements》 |
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EP1-4-272C
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《セルヤ・タスデレン/Serya Tasdelen》、大天使の治療へと向かうこと
ミュラの叫びに、セルヤは苦笑いをしました。
ドルイドのミュラはカディア渓谷で進軍する間、多くの動物の友人を作っていました。
そのうちの最も仲が良く、常に肩の上に載せて離れないでいたウサギ、エリザベスが昨夜、ミュラが余所見をしている間に、狼の夕食になってしまったのでした。
もちろんミュラは、それが自然の摂理の中の一つである弱肉強食に属するので、狼を決して恨んではいませんでした。
ただ、一秒でも早く目的の場所に到着するために、彼なりの方法で狼を催促しているというだけなのです。
その恐ろしさに、狼がミュラに殴り殺されると思って必死に走るのは、仕方が無い話でした。
「前線はミュラに任せておけ。セルヤ、きみはシェイクの指揮官の治療を」
騎乗している狼の進路を変えることでバテューに受け答えたセルヤは、治癒能力がある者らと共に戦列を離脱し、城壁の下、主人を失った羽毛が翻る血の川へ走りました。
死の臭いが鼻を刺し、セルヤが感じた不吉な予感を再び篝を上げました。
《リハルト・フォン・シュバルト/Richard von Schubart》、勝利すること
合図の旗が上がったのを見た《リハルト・フォン・シュバルト/Richard von Schubart》は、東の夕陽の下の風へと視線を移しました。
もう少しだったのだがな。
目を細め手を上げると、ラッパが鳴り響き、即座に退却準備が始まりました。
純白の羽毛で雪のように覆われた城壁を、短髪の女騎士が上がってきました。
降りしきる雪が耳をくすぐり、老将軍の心の一角を占めていた小さい未練がすぐ消えました。
「予想していたより森の兵が増員されました。まだイエバは彼らを見捨てはしなかったようです。叔さ……、いえ、大将軍閣下」
戦場で叔父さんと呼ぶなといつも言っているのに。
老将軍は愛らしい姪の小さい失敗に温和な微笑で応えました。
「戦場という図の上では、誰もが異なる夢に向かって筆を走らせている。惜しむ心は必要はない。これだけの戦果が挙げられれば十分だ」
退却時期を見計らい、大将軍は言葉をかけました。
「わが軍が全面戦争で最も相手にするに忌々しい、空を走る羽たちを最小限の被害で打撃を与えることができた。
ここで壊滅させる必要はない。残った羽らと森のエルフたちは南側で集まっている亡者どもと戦うように仕向けたほうが良いだろう。カイデロンの兵も減らしておく必要があるわけだしな」
「カイデロンとの軍事協定に対する誠意を示すには、これで十分ということですか?」
「その通りだ」
退却準備が完了したという合図が上がってくると、ただちにリハルトは手を挙げて全軍退却を命じました。
このまで明確な勝利と退却。
この不敗の大将軍以外の誰がこのような戦闘を描き出すことができたでしょうか。
しかし、その勝利を成し遂げた本人はといえば、何の表情も表わさずに淡々とした表情で、地に落ちた血で染まった羽の一つを拾い上げました。
「帰還し、陛下に最初の勝利を報告しよう」
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