展覧会/『CARTE』/Ep2-3《深まる葛藤》
《ヴァイオレット/Violette》、
霊たちの主と会談の中で葛藤すること
「怨みの霊塔にはまだ未練があるのか」
《ヴァイオレット/Violette》の言葉に誘われ、《アール公女/Princess Al》の視線が窓へと向かいました。視線はしばらく虚空を彷徨ったのち、ヴァイオレットを一瞥しました。
「そういうわけではありません」
次の言葉が継がれるまで、渇いた唾を飲み込むような間がありました。
「いますぐには彼らを救う方法が無いということは……、理解しています。ただオベリスクの建設が完了し、彼らの狂気が鎮まることを待ち遠しいのです」
2-2-095R《死者のオベリスク/Obelisk of the Dead》 |
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殺されて生まれ変わるすべての生物は、オベリスクの管理下で戦争の兵士として用いられる。 |
(飲み込む唾なんてあるのかね)
ヴァイオレットは目の前の霊魂が見せた行動に、思わず微笑みを浮かべずにはいられませんでした。
(こいつらは完全な魂だけの存在というわけではないのだな。肉体だけ失って、生前のものは殆どすべてそのまま持っているのだから。いまになっては意味が無い、あんな癖までね)
「オベリスクが完工すれば、怨みの霊塔に閉じ込めた者たちの狂気を治めることはできるだろう。ただし、すべてを救うことができる、なんて断言はできない」
「それも承知しております」
頷くアール公女のそばまで歩み寄ってきたヴァイオレットが、怨みの霊塔を眺めて重々しく話を続けました。
「そしてわたしは、優しくもアルゴスにオベリスクを建ててやる代価など要らない、なんてことは言わない」
「関係ありません」
ヴァイオレットはアール公女に背を向けました。
「おまえたちは既に一度死んでいる。だが、あたかも生きているかのように行動するのだな」
「死んだ者が、既に一度死んだ者を救おうとするのが、そんなに珍しいですか?」
ヴァイオレットが顎を動かして先を促すと、アール公女が凍った表情のままで答えました。「ご存じのように、あの日、わたくしたちアルゴシアンはすべてが一度死にました。そして未知の力によって、このような姿になってしまいました」
アール公女が腕を上げて窓を遮りましたが、彼女の腕も服の裾も透明だったため、入り込んでくる光を防ぐことはありませんでした。
透けて見える怨みの霊塔を眺めて、ヴァイオレットは問い直しました。
「それで?」
「ですが、消えたのは肉体だけです。一般的な幽霊と違い、わたくしたちは理性を維持することができました。ほかの幽霊とは、存在方式が違っているのでしょう」
「『遺品』のことだな」
「はい。わたくしたちアルゴシアンは、生前に最も惜しんだ物、『遺品』に自身を宿らせています。それが消えない以上はわたくしたちは永遠に死にません。
逆にいえば、心臓に相当するものは簡単に潰れてしまいますから、完璧な不死を得たとはけっして言えないでしょう。自身が消えることを恐れる人間となんら違うところはありません」
2-3-150C《狂ったアルゴシアン/Crazed Argosian》 |
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「あなたの妻は、おそらく黒い光を受けたのだろう。魂塔にいらっしゃってください! オベリスクが建設されれば、すべては良くなるでしょう」 |
「人間と違うところが無い、だと?」
「わたくしたちは、ただ災難に遭って、一度命を猶予されただけのことです。他の存在になったわけではありません。
人間と同じように死を恐れて、そばに家族が居て、住んでいた家にそのまま生きています。そしてわたくしたちの中には、まだアルゴスの市民であることを拒否している者はおりません」
しばらく言葉を選んだあと、アール公女は話を続けました。
「人間であるときと同じように、笑って、泣いて、求めて生きています。そしてアルゴスのみんながお互いに以前の姿をそのまま受け入れて生きていると言っています。
僅かな人数でこのような姿になっていたとしたら、彼らはただの幽霊と化していたでしょう。でも、わたくしたちはみんなでこのような姿になり、外見がどうなろうと生きていたいと感じました。ですから、これはわたくしとお父さまだけではない、アルゴシアン全員の意志です」
(そうだろうか? その、まだ生きているだとかいう信頼が折れた瞬間、おまえらはどうなる? おまえらが真にまだ人間の心を有しているのか、でなければ上辺だけが残って苦しんでいるのか)
その疑問は口に出して尋ねたりはしませんでした。
2-3-156C《弱化した霊/Weakened Soul》 |
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身体が傷つけばそれは悪い。魂が傷つけばもっと悪い。 |
「ま、そんなことはどうでもいいんだ。あなたに心があるというのはわかるよ。わたしが望むのは、あの異空間に関する手がかりだ。その糸口を掴むために、今後あなたに危険なことをお願いすることになるかもしれない」
「オベリスクの代価はそれですか。それならかえってわたくしたちが感謝を申し上げるつもりでした」
透明だったアール公女の目に宿った怒りは、確かに燃え上がっていました。
「アルゴスの市民をあのようにした元凶を捜し出すことは、かえってわたくしどもから先にお願いしたい心情なのです。アルゴスの市民に危害を加えたものをそのままにしていたら、公女などと呼ばれる資格はありませんから」
ヴァイオレットにはアール公女のその燃え上がる心が、真に市民を惜しんだからなのか、でなければお互いに生を実感させるアール公女にとっての同存在が消えていく不安からなのかはわかりませんでした。
2-2-091C《ヴァイオレットの葛藤/Conflict of Violette》 |
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「あの黒い光は……、いいや、わたしはベリアルを取り戻すことを決して諦めたりはしない」 |
「元凶を捜し出し、今回のことに対する対価を払わせるつもりです」
「それは良かった。ありがたいな」
ヴァイオレットは窓から離れてドアへと向かいました。
「オベリスクが完工したら、また来る。そのとき、狂気に沈んだアルゴシアンから糸口を見つけるつもりだ」
離れていくヴァイオレットの背中を見送り、アール公女は透明なドレスの裾を摘まんで礼の姿勢を取るのでした。
《エルビン・フォン・ベルクマン/Erwin von Bergmann》、
死にかけの天使と巨人を前に葛藤すること
「今日はとりわけ気分が悪そうだな、エルビン」
《エルビン・フォン・ベルクマン/Erwin von Bergmann》は首を上げて《ラジア・ベル/Lagia Belle》を一瞥しましたが、すぐに背を向けて横たわる巨人に視線を戻しました。
「今日だけじゃない」
「そうだな。ここへ来て以来、ずっとだ」
ラジアもまた、エルビンの視線を追って巨人を眺めました。
横たわり、固定されている巨人。
全身にホースが連結されている巨人。
縫合手術を受けている巨人。
アルケンの科学者たちが蟻の群れのように、巨人に乗って様々な実験と手術を施していました。
「……本当に、こんなことが許されるのか」
エルビンの言葉は弱々しく宙を漂い、やがてその言の葉がすべて消え去った頃になってようやくラジアが返答しました。
「あなたははっきりと今回の計画に反対した。この実験はあなたの意志ではない。それでも、罪悪感がある?」
「反乱軍の名分はぼくにある。反乱軍が行うすべてのことは、ぼくに責任があるんだ」
「あなたは本当に性能の良い操り人形だ。そんなんだから、さぞニコラスはあなたを思い通りに操るのが楽だろうね」
「それは……」
「あなたの責任だっていうなら、はっきりとあなたの意志を貫徹させればいい。それができないなら、責任感を感じたりしないで、そのままなるように任せればいい」
硬い表情のエルビンはラジアの顔を見ようとしましたが、既に彼女は背を向けて離れてしまうところでした。
「あなたのために命を捧げた者もいる。中途半端な心がけて傍観するのは止めたらどう?」
エルビンは何の反論もできないまま、遠ざかるラジアの腐った翼を眺めることしかできませんでした。
巨人の身体を復活させるための実験は、巨人からさまざまな実験データを取りたがっているアルケンのトゥルースシーカーと、巨人による武力を欲しがっている反乱軍との間の取引の結果として生じたものでした。
もし巨人の力が手に入るというのなら、反乱を成功させることは夢物語ではありません。
しかし、エルビンは良心の呵責を感じていました。
「どう考えても、こんなのは間違っている………」
オロバスとシメイエスという名前のふたりの巨人は結合していました。顔は苦痛を耐えるために必死で歪み、全身は冷や汗でいっぱいで、流れた汗は周囲に泥沼の海を作り出していたので、アルケンの科学者たちは身体を縫い合わせて実験装置を連結するのに困り切っていました。
2-3-137C《巨人研究家/Giant Researcher》 |
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「エスファイアでわたしより巨人について詳しい者はおりません。それなのに、わたしが科学者たちと協力する必要がありますか?」 |
「エスファイアの王子よ。わたしたちは神々が大陸を見守っていたときのことを、いまでも生き生きと思い出せるのだよ」
一週間前、巨人オロバスは死につつある巨人シメイエスと合体する実験に同意したとき、そんなふうに話しかけてきたのを思い出しました。
「あの日からいままでの数千年を生きてきた。神々の力が消え去ってからは、わたしたちはこれ以上肉体を維持することができなくなってしまった。時間とともに皮膚は固まり、裂け、割れてしまうのだよ」
腐って崩れた皮膚の隙間で這い回る蛆を前にして、エルビンは何の返事もできませんでした。
「こんなになってでも生きたいのか、と疑問なのかね? いやいや、わたしたちも本当のところは御免なのだよ。
というのも、生きていても生きているなどとはいえないのさ。神と人間を繋いでいた橋渡しとしてのわたしたち巨人の存在意義は消えて久しい。一日に何度も自殺したくなるような苦痛を肉体は訴える。それに負けて狂ってしまう者も多い。だから、そう、そんな問いも当然というものだ」
「では、どうして………」
エルビンは己でも気付かないうちに反問していました。
オロバスは太陽が沈んだ地平線に背を向けて、話を続けます。
「エスファイアの王子よ、聞き給え。わたしたちの生まれた存在意義は確かに消えた。だが信じる心は消えてはいない」
「何を、ですか?」
「五大神がまた戻ってこられるということを、さ。わたしたちは神々を待つことを己らの使命としたんだ。存在意義を再び作り出した。そのために、生きたい」
「こんな身体になってまで、何千年間も?」
エルビンは気が遠くなるような時間を感じましたが、巨人は遠慮なく話を続けました。
「神々が帰ってこられたとき、最初に彼らを迎えるのはわたしたちになるだろう。その光栄のためならば、わたしたちはこのような身体になってでも生き残ろうとする。そのときまで、死んだり狂ったりするつもりはない」
「……それで、その実験に同意したのですか?」
人間の手を借りてまで。
そしてこれ以上、自分自身の姿であることもできないその実験に。
「ああ、あいつも神々の戦争のときはもっと元気だったんだ。誰よりも先に立って、異界のやつらと戦った。そんなやつを、ここで死なせるわけにはいかない」
オロバスはシメイエスを眺めて答えました。シメイエスは肩の片方から脇腹の下までを失くした姿で苦しんでいました。
(いったい彼はいつからあんな姿になったのだろう。百年前? でなければ千年前?)
想像することさえ恐ろしい期間に、エルビンの瞼は暗くなりました。
「神々が帰ってこられるときまで、わたしはあいつを背負って生きるつもりだ。そして神々が帰ってきたその日、誰よりも先に走っていくのだ。あいつはほかの者より先に神々を出迎える資格があるんだからね」
エルビンは喉が詰まって、何も言うことができませんでした。
ただもう、涙腺さえも壊れてしまった巨人に代わり、静かに涙を流すだけでした。
「何を泣いているんだね、男の子だろうに。そんなに心配することは無い、かえって良くなるさ。
頭がふたつになるっていうのはどんなに快適かな? うん、もしかして食事のときはふたりで分け合って食べる必要があるのだろうか」
オルバスの冗談がエルビンのむせび泣きを掻き分けて、夜空の空気に拡散していきました。
「……必ず成功して、生き残ってください。その日が来るときまで」
苦痛にもがくオロバスとシメイエスの姿を見て、エルビンができることは応援だけでした。
生まれて初めて、心を篭めて神々の帰還を祈りました。そして信じようとしました。
彼らがいつの日か、必ず神々を迎えて幸せになることを。
生まれて初めて、心を篭めて神々の帰還を祈りました。そして信じようとしました。
彼らがいつの日か、必ず神々を迎えて幸せになることを。
《メリナ・エモンス/Melina Emmons》、
裁判の法廷の中で葛藤をすること
「夢の道標メリナ、ここでもう一度確認します。
月の梯子に血族が侵入するのを防ぐことができなかったのは、月暈と夢の道標であるあなたの責任です。これに同意しますか?」
「同意します」
「戦争でのあなたがたの功労は認められています。
しかしそれが今回の事件の免罪符にはなりません。これにも同意しますか?」
「……同意します」
《メリナ・エモンス/Melina Emmons》は歯ぎしりをして答えました。それと同時に《ピエトロ・フリゴ/Pietro Frigo》の口元がかすかに上がりました。
月の梯子に血族が侵入するのを防ぐことができなかったのは、月暈と夢の道標であるあなたの責任です。これに同意しますか?」
2-2-122C《三日月の魔女/Crescent Moonwitch》 |
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月の魔女は首都ラプリタに侵入した者の波動を感じとり、詳細を突き止めることを政府に要求をした。月輪の魔術師たちはこれに対する責任を重く受け止め……。 |
「同意します」
「戦争でのあなたがたの功労は認められています。
しかしそれが今回の事件の免罪符にはなりません。これにも同意しますか?」
「……同意します」
《メリナ・エモンス/Melina Emmons》は歯ぎしりをして答えました。それと同時に《ピエトロ・フリゴ/Pietro Frigo》の口元がかすかに上がりました。
「われわれアルケンの聖域である月の梯子に、神の呪いを受けた血族たちが足を踏み入れた……。想像することさえ憚られることです。月の上で見守っておられるミアさまがどれほど震怒されるでしょうか?」
(笑わせる。あんたがミアさまに一度でもまともに祈りを捧げたことがあるっていうの?)
メリナはピエトロの言葉を無視しようとしました。
「裁判長! 被告の罪は確実であり、また非常に重いと言わざるをえません。
そこで裁判を進める前に、被告のすべての権限を奪い、夢の道標の資格を剥奪することを提案します」
法廷は激しくざわめきました。
「判決が下されるまでもなかったか? 夢の道標メリナもここで終わりか」
「やはりピエトロは恐ろしい。だが、酷過ぎる話だ」
陪審員と傍聴人との間で重苦しいやり取りがなされました。
その間、ピエトロとメリナは互いに鋭くにらみ合いました。
(笑わせる。あんたがミアさまに一度でもまともに祈りを捧げたことがあるっていうの?)
メリナはピエトロの言葉を無視しようとしました。
2-1-058R《月輪の大賢者/Archsage of Moon Ring》 |
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「勝利に関してはお祝いの言葉を述べさせていただきます、メリナ。しかし言っておかねばならないことがあります。より大きな価値こそが優先されるべきなのです。あなたでも、そう考えるでしょう……?」 |
「裁判長! 被告の罪は確実であり、また非常に重いと言わざるをえません。
そこで裁判を進める前に、被告のすべての権限を奪い、夢の道標の資格を剥奪することを提案します」
法廷は激しくざわめきました。
「判決が下されるまでもなかったか? 夢の道標メリナもここで終わりか」
「やはりピエトロは恐ろしい。だが、酷過ぎる話だ」
陪審員と傍聴人との間で重苦しいやり取りがなされました。
その間、ピエトロとメリナは互いに鋭くにらみ合いました。
「さてさて、今回きみはどんな反撃をしてくれるのか。持っているカードを出してくれたまえ」
ピエトロの目つきが、そう告げていました。
(ピエトロ……、狡猾な男。でもそう簡単にわたしを出し抜かせたりはしない)
場の騒動が沈むことを待ってから、メリナが口火を切りました。
「良いでしょう、連邦長官どの。それならわたしが提案をさせていただきます」
裁判長とピエトロ、そして残りのすべての視線がメリナに向かって集中しましたが、その重圧感を余裕を持って受け止めるメリナの発言は、それ自体が爆弾のようなものでした。
「月の梯子の新しい階段を登ります」
法廷はあっという間に修羅場と化しました。裁判官が場を統制するために木槌を叩き続けましたが、既に手の施しようが無い状態です。
その中で、ただピエトロとメリナだけが、再び静かにお互いにらみ合っていました。
階段を上る、ということ。
月の梯子を登るということは、メリナ自身だけではなく、アルケンという国家自体を揺るがす可能性のある大きな事件であり、戦争に関心がなく自身の研究にだけ没頭する魔術師たちでさえ、夢の道標が梯子を上がるという話を聞けばすべてのものを放り出して飛び出すほどのことです。
それもアルケンが月の神ミアの子どもたちで成り立った国家だからです。
ミアを追う魔術師であるアルケンの国民は、常に月を、そして月に繋がった梯子を眺めて、ミアが残した魔法を通じてミアと対話をしようとしています。
それは赤ん坊が母親の懐に抱かれることのように自然なことであり、人々の夢と希望そのものです。
夢の道標が月の梯子を昇り、新たな階段のドアを開けることになれば、これまで知らされていなかったミアの残した魔法が世の中に流れ出ることになります。
新たな階段の書庫に保存されていた母なるミアの残した話が、梯子の外のアルケン全域に広まることで、皆が母の暖かみに涙して、魔術師たちは頭の中に鳴り響くミアの歌で新たな教えを思い出します。
しかし、夢の道標が梯子の階段を上がるのは、一生に一度あるかないかという仕事です。
梯子の新しい階段を上がるためには、月の魔女の監視下で試験を行う必要があり、それは命を賭けなければならないほど危険なことだからです。
歴代の道標が梯子に挑戦した記録を総合すれば、成功する確率は半分程度。
そして道標が自身の任期のうちに階段を2度も挑戦した記録は数えるほどしかありません。
その極めて少ない事例の中でも、二度すべて成功した記録を残したのはただの一度だけ。その一度をやり遂げた夢の道標は、歴代最強の大魔術師として賞賛を受け、当然ながら当時のアルケンは全盛期を享受しました。
そしていま、その歴史にメリナが挑戦状を差し出したのです。
「確かにもう一度階段を上がることに成功すれば、血族が梯子に侵入した罪は緩和できるでしょう。いえ、それどころかアルケンはあなたに借りを作ることにさえなります」
ピエトロが口を開くと、すぐに場は静かになりました。
その静寂を破り、ピエトロの声が再び法廷に鳴り響きました。
「ですが、まだ遅くはありませんよ、メリナ。いまならまだ取り消すことはできます。
本当に階段を登るつもりですか?」
唾を嚥下する音でさえ鋭く耳に突き刺さるような緊張感が場を支配していました。
この夢の道標メリナをなんだと思っている? ここで退くことはありえない。絶対に、アルケンをあなたの思い通りなんかにさせたりはしない。
「来月の十五夜に登ります。期待していてください」
「アルケンの歴史上でも、たったひとりしか成功できなかったことです。メリナ、是非あなたにもう一度ミアさまの歌声を響かせることができることを期待しますよ」
アルケンのふたりの大物が互いに睨み、それぞれ別の意味で笑いました。戦いが始まったのです。アルケンの未来を決める、前代未聞の戦いが。
前へ
ピエトロの目つきが、そう告げていました。
(ピエトロ……、狡猾な男。でもそう簡単にわたしを出し抜かせたりはしない)
2-2-127U《メリナの葛藤/Conflict of Melina》 |
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(この糞っ垂れのピエトロ! そう簡単にわたしを下ろすことをできるとは思わないで) 「さて、裁判長。わたしから提案があるのですが」 |
場の騒動が沈むことを待ってから、メリナが口火を切りました。
「良いでしょう、連邦長官どの。それならわたしが提案をさせていただきます」
裁判長とピエトロ、そして残りのすべての視線がメリナに向かって集中しましたが、その重圧感を余裕を持って受け止めるメリナの発言は、それ自体が爆弾のようなものでした。
「月の梯子の新しい階段を登ります」
法廷はあっという間に修羅場と化しました。裁判官が場を統制するために木槌を叩き続けましたが、既に手の施しようが無い状態です。
その中で、ただピエトロとメリナだけが、再び静かにお互いにらみ合っていました。
階段を上る、ということ。
月の梯子を登るということは、メリナ自身だけではなく、アルケンという国家自体を揺るがす可能性のある大きな事件であり、戦争に関心がなく自身の研究にだけ没頭する魔術師たちでさえ、夢の道標が梯子を上がるという話を聞けばすべてのものを放り出して飛び出すほどのことです。
それもアルケンが月の神ミアの子どもたちで成り立った国家だからです。
ミアを追う魔術師であるアルケンの国民は、常に月を、そして月に繋がった梯子を眺めて、ミアが残した魔法を通じてミアと対話をしようとしています。
それは赤ん坊が母親の懐に抱かれることのように自然なことであり、人々の夢と希望そのものです。
夢の道標が月の梯子を昇り、新たな階段のドアを開けることになれば、これまで知らされていなかったミアの残した魔法が世の中に流れ出ることになります。
新たな階段の書庫に保存されていた母なるミアの残した話が、梯子の外のアルケン全域に広まることで、皆が母の暖かみに涙して、魔術師たちは頭の中に鳴り響くミアの歌で新たな教えを思い出します。
しかし、夢の道標が梯子の階段を上がるのは、一生に一度あるかないかという仕事です。
梯子の新しい階段を上がるためには、月の魔女の監視下で試験を行う必要があり、それは命を賭けなければならないほど危険なことだからです。
歴代の道標が梯子に挑戦した記録を総合すれば、成功する確率は半分程度。
そして道標が自身の任期のうちに階段を2度も挑戦した記録は数えるほどしかありません。
その極めて少ない事例の中でも、二度すべて成功した記録を残したのはただの一度だけ。その一度をやり遂げた夢の道標は、歴代最強の大魔術師として賞賛を受け、当然ながら当時のアルケンは全盛期を享受しました。
そしていま、その歴史にメリナが挑戦状を差し出したのです。
「確かにもう一度階段を上がることに成功すれば、血族が梯子に侵入した罪は緩和できるでしょう。いえ、それどころかアルケンはあなたに借りを作ることにさえなります」
ピエトロが口を開くと、すぐに場は静かになりました。
その静寂を破り、ピエトロの声が再び法廷に鳴り響きました。
「ですが、まだ遅くはありませんよ、メリナ。いまならまだ取り消すことはできます。
本当に階段を登るつもりですか?」
唾を嚥下する音でさえ鋭く耳に突き刺さるような緊張感が場を支配していました。
この夢の道標メリナをなんだと思っている? ここで退くことはありえない。絶対に、アルケンをあなたの思い通りなんかにさせたりはしない。
「来月の十五夜に登ります。期待していてください」
「アルケンの歴史上でも、たったひとりしか成功できなかったことです。メリナ、是非あなたにもう一度ミアさまの歌声を響かせることができることを期待しますよ」
アルケンのふたりの大物が互いに睨み、それぞれ別の意味で笑いました。戦いが始まったのです。アルケンの未来を決める、前代未聞の戦いが。
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