《メリナ・エモンス/Melina Emmons》、

夢の梯子へ二度目の挑戦をすること


 夢の梯子。月の女神ミアが残していった知識が、忘れさられた夢のように流れる場所。
 梯子の新たな階段を《メリナ・エモンス/Melina Emmons》は上がっていきました。


2-4-268C《階段昇り/Clime the Stair》
月の梯子を上り、ミアの知識をもたらしたメリナを、月の魔女たちは監視していた。だがいつしかその知恵は魔女たちを脅かし始めた。

 感緑光と月の涙でできた池を眺めると、眩しい南瓜の椅子に座る人魚が首を差し出しています。彼女らの歌声に耳を傾けて、月が目尻に皺を作って笑い、夢の粉が巻き上がりました。
 今度は夢の粉が気だての良い優しい踊りの腕前に目を奪われようとしましたが、すぐに薬缶が池の中に入って茶葉を煮出し始めてしまいました。

(しっかり……、精神をしっかり保ちなさい、メリナ!)

 月の梯子を上がるということは、月の女神ミアの本質に近い膨大な知識と夢、幻想が集まった道を進むということです。
 ここで少しの間でも自我を失えば、ミアの一部として吸収されてしまうということを意味します。


2-1-061R《月食/Lunar Eclipse》
「月食のとき、ミアの力は最も強くなるといわれている。しかしそれだけではない。少なくとも我々にとっては……」

 メリナはたったいま通り過ぎていったハリネズミ型のマフィンが、百年ほど前に梯子から下りられなかった先代の夢の道標であることに気付いて気を引き締めようとしました。
 しかしミアの知識から目を逸らすことはできませんでした。
 メリナは誘惑する知識に対する欲求が泉のように湧いて出てくる、学者としての己がただただ悔しくなり、歯噛みしました。

(母なるミアよ……、わたしをなぜ魔術師として産み落としたの?)

 ここに上がってからどれほどの時間が流れたのかさえもはやわかりませんでした。
 月が目をぱちぱちと瞬きさせる時間は一年よりも長く、日が昇って沈む時間は一秒よりも短かったのです。
 あと少しでもこの場にいたら、自身が喪失してしまうことが理解できるほどの知識の激流に巻き込まれ、精神が限りなく遠くなっていきます。そうしている間に飛び回っていたハリネズミマフィンが目に入りました。

(あぁ……、なんて奇妙な生き物だろう。なぜあんなところに口があるのか。決まりが悪い形だ。言っちゃ悪いけど、あなたが人間だったときはピエトロよりもっと不細工だったんでしょうね。うん? ピエトロが誰かって? ピエトロの話? ピエトロがわからない? 誰だったっけ。わたしも思い出せない………」


2-4-241U《盗んだ知識/Stolen Piece of Knowledgement》
メリナは月の梯子に登らなければいけなかった。そして階段の吹き抜けから、知識の断片が血族によって盗まれたことを知った。


《ベッカー・クラウゼ/Becker Krause》、

反乱軍蜂起のための合図を待つこと


「ベッカーさま、これ以上遅れたら帝国軍に感づかれてしまいます」
 《ベッカー・クラウゼ/Becker Krause》は再び唇を噛みました。
 自身の唇が流れるのが血なのか雨水なのかは区別することができなくなってから、ずいぶんと時間が経っていました。密かに橋の下に集結した兵士たちの息づかいだけが休み無く続けられています。

 すべての準備は終わりました。
 あとは進撃の合図だけあれば。信号弾が上がりさえすれば、あちこちに隠れていた反乱軍の兵士たちが一斉に蜂起し、王城を陥落させて《トルステン二世/》の首を刎ねることができるはずでした。

 しかしその信号弾が上がることがなかったのです。

 兵士たちの静かな視線だけが、ベッカーの脊髄を鋭く引き裂きました。いったいなぜ。どうして進軍しないのだ、と。
(約束の時間はとうに過ぎた………)
 ベッカーは伝令が駆けてくるはずの道を眺めることしかできませんでした。
 いくら反乱軍が王城の近くに潜伏できたからといって、外部の準備ができないままに占領を試みるのは自殺行為に等しいことです。

(やはりタイミングが早過ぎたのか………)
 今頃は、オロバスとシメイエスという名の巨人がこのケルヤンを掻き回しているはずなのです。
 そうでなければ、いまこのようにエスファイアの首都であるコロッセががら空きになるほど兵がいなくなってしまう理由はありません。
 いま、ベッカーが最も苛立っていることは、計画が準備できないままに状況が始まったということでした。
 本来は巨人はもう少したくさん、そして確かに制御できるように改造したうえで、ケルヤンと他の二ヶ所の都市に同時に解き放ち、帝国軍の兵を分散させる計画でした。
 しかしその計画はトゥルースシーカーの科学者がオロバスの制御に失敗し、歪んでしまいました。

 いまベッカーができることは、ケルヤンの状況を見守っているはずの《エルビン・フォン・ベルグマン/Ervin von Bergmann》の信号を待つことだけ。ただ待つだけでした。


《レア・シュミット/Leah Schmidt》、

巨人の暴動の中で幼馴染みの王子と再会すること


「投石機の準備はまだか!?」
 返答を急く《レア・シュミット/Leah Schmidt》を見上げ、先任の兵士が報告をします。「射線が確保できる位置に到達するまでは、まだ時間が必要です!」
「先鋒隊が全滅してしまうぞ! 十分以内に完了させなさい!」


2-4-222C《先鋒隊/Vanguard》
「走れ! 我々が巨人を倒すために為すべきことは、本隊到着までやつをここに食い止めることだ!」

 レアは蹴飛ばすような勢いで命令を発しました。疾走するレアの横に騎兵隊がつけ、報告を行います。
「シュルツ傘下騎兵三〇〇騎、装甲解除し招集が完了しました!」
「良し、一度でも攻撃を喰らえばそこで終わりだということはわかっているな? 少しでも身体を重くするものは全て捨てるんだ!
 いまから投石機の準備が完了するまでの間、三人一組になり、あの巨人の周囲を旋回して視線を引きつける。突撃!」

 はっ!
 重たい叫び声とともに騎兵隊が激流のように巨人の周囲に分かれました。
 都市全体に暗い影を落とす巨人を見上げ、レアは状況を整理しました。
(わたしたちが攻撃をしなくても、数時間のうちにあの巨人は死亡するだろう。だが、いったいなぜあんなふうに満身創痍になっているのだ?)
 巨人は生きて動いていることが信じられないほどにみすぼらしい姿でした。縫合は炸裂したように身体のあちこちに亀裂が入り、血と混ざっている蛍光色の液体がばくばくと流れ出ています。無理矢理に組み込まれた正体不明の装置は巨人の動きに耐えることができないのか、所々壊れていました。

 特にあの頭。
 巨人の肩から突き出す頭のひとつは、あの巨人のものではないことは明らかでした。まともに癒着しておらず、瞼が裏返った目は痙攣しています。


2-4-226U《キメラ巨人/Chimera Giant》
エスファイアによって執拗に荒れ狂うキメラと化した巨人。神々の残滓の終わりが差し迫っていた。

 何もしなくても、巨人はすぐに倒れて死ぬであろうことは明らかでした。

 しかし巨人は狂ったように暴れ、身体に触れる建物を吹き飛ばし、掠めるだけで全身がぐちゃぐちゃになるほどの巨大な石ころを吹き飛ばしていました。
 だから、レアと帝国軍は巨人が倒れるのを待っているだけではいられなかったのです。都市と市民の安全を確保しなければなりませんでした。

「人間たちめ……、おまえらはわれわれを裏切った!」
 巨人が吐き出した轟音に、レアは手綱から手を離して耳を塞いでしまいそうになりました。
「裏切った!? わたしたちが何を裏切ったというの!? 答えて、巨人よ!」
 レアは巨人に向かってあらん限りに声を張り上げました。
 しかし崩れ行く都市の中で逃げる市民の悲鳴が密集したこの阿鼻叫喚の地獄の中心で、レアの声が巨人に届くとは思えませんでした。

「ママ!」
 かすかに聞こえて来た悲痛な叫びに、レアは耳が澄ませて見回すと、まだ歩くことも満足にできないような年齢の幼い子どもが、倒れた母親の身体を掴んで揺さぶっていました。
「何をしているの、早く逃げなさい!」
 レアは駆けつけて子どもを促そうとしましたが、子どもは立ち上がることさえしませんでした。
 すると倒れている母親が頭を上げ、レアに頼み込んできました。
「騎士さま、この子をお願いいたします」
「あなたは……」
 レアはなぜ母親が逃げないのか、それを目にするまで理解することができませんでした。
 女の両足は、崩れ落ちた巨大な岩によって潰されていたのです。
「ご覧のように、わたしはここから動くことはできません。ですから、この子をどうか………」

「レアさま、危険です!」
 護衛騎士の叫びにレアが視線を上げると、巨大な柱が崩れ落ちてきました。
 考える暇さえなく身体が動きました。
 レアが理性を取り戻したときには己の懐に抱かれていた子どもが、母親を捜して、元居た場所へと視線を向けようとしたところでした。レアは慌てて子どもの頭を掴み、自身の顔を見つめさせました。
「お、お母さんを探しに行こう」
「え? だって、ママはあそこに……」
 再び背を向けようとする子どもの頬に、レアは触れました。
「違う、いまさっき、あっちに行ってしまったの。わたしたちも早く行かないと。ああ、馬に乗ったことはある? 面白いよ。一緒に乗ってみようか?」

 話をしながら子どもの注意を引くレアの視線が、子どもの背後で崩れ落ちた柱と、その下でいっぱいに溜まっている血液とでしばらく往復しました。
 今日、いったい何人の罪の無い命が奪われたのだろう。
 何人の子どもがこのように両親を失ったのだろう。
 子どもを安全なところへ避難させるために疾走するレアの顔は、憎しみと怒りで歪んでいました。

 そして子どもと一緒に避難民の行列に到着したとき、その表情はすぐに混乱と当惑に変わることになりました。

「……エルビン?」
 子どもを下ろしたレアは、ふと避難民の行列に混じっている青年と目が合いました。
 幼い頃、一緒に過ごして来た友人であり、いつか仕えることになるであろう王族であった、ずっと捜していた少年。

 レアとエルビンの再会の瞬間でした。

 お互いをはっきりと認識できていたはずでした。しかしエルビンはすぐに身体を回してレアを避けました。レアは人波に入り込んで行くエルビンを大声を張り上げて呼ぼうとしたとき、後方で血を吐く轟音が鳴り響きました。
「一片の名誉さえ持たぬ人間たちよ……! すべて殺してやる。神々の名にかけて、おまえたちを呪ってやる……!」

 巨人が全身から血を噴き出して、塔をひとつ薙ぎ倒しました。崩れ落ちてゆく塔は、巨人の血が死の匂いで濡らされてゆきます。その粘りある液体は、塔の残骸から巻き起こされる砂煙でさえ重く沈めるほどでした。

 そしてその残酷な光景の上で、信号が発せられました。
「レアさま、投石機の準備が完了致しました!」
 レアが兵の報告を受けて背を向けると、エルビンの姿はもう確認することができませんでした。
 決断しなければなりませんでした。エルビンを捜しに行くか、巨人を防ぎに行くか……。
 いや、初めから選択の余地はありませんでした。

「軽騎兵、全員後退せよ! 投石機、装填開始!」
 投石機の傍に馬を走らせるレアの背中越しに、家族と家を失った避難民が遠ざかってゆきます。
 レアは到底彼らの目を無視できませんでした。彼らは願っているのです。己たちを助けてくれる存在を。エルビンの友人ではない、騎士としてのレアを。


《エルビン・フォン・ベルグマン/Ervin von Bergmann》、

幼馴染みの騎士の少女に背を向けること


「ごめん……、レア」
 我を忘れるほどに駆け回り、路地へと隠れたエルビンは息切れをしていました。
 エルビンもまた、レアに会いたいと思っていました。自身の潔白を伝えたいと思っていました。したい話は山のようにありました。
 ですが、いまはそれは不可能なことでした。

「エルビンさま、手遅れになるまえにベッカーに信号を送らなければなりません」
 伝令の言葉に対して目を閉じて息を吐くエルビンの頭の中に、避難民を救助していたレアの姿が思い浮かびました。
 そして都市を破壊しているオロバスとシメイエスの姿も。
 彼らが流す血と悲しみも。
 絶叫も。
 痛みも。


2-4-227R《反軍の司令官/Commander of Insurgent》
「エルビンさま、時間がありません。ベッカーはコロッセで我々の合図を待ち望んでいます。首都を攻める絶好の機会です」

「……ベッカーに撤収するよう伝えてくれ」
「え? ですが、オロバスが……!」
「オロバスは間もなく死ぬだろう。やはり巨人一人だけでは力不足だった。十分な時間を稼ぐことはできなかった。手遅れになるまえに……、ベッカーに撤収を伝えるんだ」
「は、はい。わかりました」
 伝令が退くのを見て、エルビンは壁にもたれてどっかりと座り込みました。もはや立っている力さえ残っていませんでした。

 ベッカーを進撃させることもできました。そうしていたら、作戦は成功していたかもしれません。まだ遅くはありませんでした。
 しかし、エルビンはそうすることができませんでした。いくら自分で理解していなかったといっても、オロバスをあのようにさせたのは反乱軍であるという事実が、そしていま反乱軍が作り出したこの地獄にレアがいるという事実が、エルビンにこの状況を利用することをできなくさせていました。

「申し訳ありません。ごめんなさい………」
 涙に乗せて、知らず知らずのうちに謝罪の言葉を口にしていました。
 反乱軍の手で死に追いやることになった巨人のための謝罪なのか、決断を下すことができずに犠牲だけを払い決起を先送りにすることになってしまった反乱軍への謝罪なのか、でなければその両方に対する謝罪なのか、エルビン自身にもわかりませんでした。
 ただ絶えず、謝罪の言葉だけを呟くだけでした。


《ベッカー・クラウゼ/Becker Krause》、

一日を終えること


「いまから全員、発見されることがないよう偽装して脱出する」
 沈鬱な雰囲気の中で到底説明できるようなことではありませんでした。さまざまな苦難を耐えてここまで来たというのに、王城を目前にしてまさか退却とは。

「あー、よく聞いて。おれたちは今回ほとんど成功するところだった。惜しくも、最後に運がちょっと悪かっただけなんだ」
 雨音の中で、ベッカーは言葉を少し選びました。
「皆、再びもと居た場所に戻って待ってちょうだい。パン屋として、鍛冶屋として、傭兵として。おれも再び、皇室の犬として隠れて過ごす。おれたちが再度ここに集結する日は、そんなに遠く無い。その日、また会いましょう」

 反乱軍の重く低い声が鳴り響いたあとで、直ちにベッカーは退却を指揮しました。
 引き潮のように抜け出る兵たちを見ながら、ベッカーは思考に耽りました。
(本当にケルヤンでの状況が上手くいかなかったのか、でなければ………)
 ベッカーはエルビンの軟弱な性格を思い出しました。
 そんなはずはないと思いながらも、エルビンの決断力を疑ってしまうのは仕方が無いことでした。まさか兵の命をかけているというのに、こんな状況で迷ったというのか、いや、まさかそんなはずが、と思いながらも、疑いは残りました。

 いや、かえって本当にそうだとすれば、ベッカーにとってエルビンはより一層迎える価値がある主君になるかもしれません。
 先王も《トルステン・フォン・ベルクマン2世/Torsten von Bergmann 2》も典型的なエスファイアの君主であり、ベッカーはもうそのような君主ではなく、民衆の意を聞いて国を治める君主の存在を願っていました。
 エルビンの足りない決断力は、自身がそばにいて代わりになってやればいいことで、それは欠点にはならないはずだ、と考えました。

 エルビンとベッカー、ケルヤンの市民らと巨人、反乱軍の兵士たちとレア。
 この日は皆が皆、異なる悲しみを刻んだ日となりました。



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