小説ラスクロ『アニーよ、銃を取れ』/時代3/Turn6《大牙噛み》
意気地がない。
《夜露の神樹姫 ディアーネ》はまたひとつ、《黒覇帝 ゴルディオーザ》の駄目な点を思いついた。
内装の豪奢さよりも座り心地と機動性を求めた馬車の中にいたのは〈黒覇帝〉とディアーネだけだった。もちろん馬車を引く馬の騎手はいるが、馬車は機動性を損なわない程度の強度も求めていたため、壁材は十分に分厚く、馬の足音や車輪が擦れる音もあって、叫ぶのでなければ外に声が漏れることもないだろう。それなのに、〈黒覇帝〉はむっつりと押し黙ったままで、外の風景を眺めている。大太陽も小太陽も寝静まった夜ともなれば、瞳に映るのは闇だけだというのに。
無理矢理に婚姻の契から早一年。はてどうなることやらと思っていたが、〈黒覇帝〉のすることといえば、呼び出して一緒に食事を取らせたり、出かける機会があれば同行させたりするばかりだ。
最初こそ――おそらくは《深冥の魔参謀 ベリス・ベレナ》と呼ばれていた妖艶な女軍師が気を回したことで――寝室に同衾させられることもあったが、そのときも手出しをしてくることはなかった。
あるいは欲していたのは〈夜露の神樹姫〉と婚姻することその事実のみであり、ディアーネ本人については特に気に留めていないのではと思うこともないではなかったが、それならばこうもいちいち連れ回したりはしないだろうし、部屋を薔薇で満たしたりはしないだろうとも思う。
考えようによっては、〈黒覇帝〉という男はディアーネのことを一種尊重していて、婚姻によって立場そのものは縛りはしたものの、行為にばかりは手を染めるべきではないと思っているのかもしれない。言葉の端を読む限りでは、どうやらまだディアーネが穢れを知らぬ
ディアーネからすると、〈黒覇帝〉は子どものようだった。小さな子ども――幼子というほどではない、相応に背が伸び、肉体的に成長したことで、自分では大人びたと思っている、しかし臆病で頭の悪い、自尊心が高いくせに他人に期待する子どもだ。
ちらと視線をこちらに向けてくるからには、こちらからの何がしかの行為を期待しているのかもしれない。たとえば、この前は花をくれてありがとう、と礼を言うだとか、旅は楽しいですね、と話題を振るだとか、そんなことを。
たぶん〈黒覇帝〉という男は忘れている。ディアーネは不本意な結婚をさせられたのであり、彼のことを好いてもなんでもないということを。
そして〈黒覇帝〉という男は知らない。ディアーネは刃を忍ばせてメレドゥスにやってきたということを。その気になれば、いつでも殺せるということを。
己の身を顧みないのであれば、その「いつ」はいまでも良いのだ。
「ディアーネ、おまえは――」
〈黒覇帝〉が何か言いかけたとき、ディアーネは身構えかけたが、それが良くなかった。馬車が急停止したことで、車内が揺れてディアーネは倒れそうになった。〈黒覇帝〉に受け止められて、なんとか身体を打たずに済んだ。抱きつくような恰好になったのは、釈然としないが。
「何があった」
と馬車の窓を鍵を開けて開き、前方の御者に向けて〈黒覇帝〉が尋ねる。
「申し訳ありません……いや、前方に障害物が」
馬車はいつしか谷間の細い渓谷に差し掛かっていた。であれば、道が塞がれれば馬車は簡単に往来できない。
御者から恐縮したような返事が返ってきたその刹那、馬車の屋根がぎしりと揺れた。落石か。いや、もっと軽やかに、それでいて力強く、屋根が揺れたのだ。続けて、何か重い物が砕ける音とともに馬車がまた揺れた。
〈黒覇帝〉から身体を離したディアーネは、もう一方の馬車の窓を開けて外を見た。するとそこにあったのは、異様な切断面を持つ熊よりも大きな巨石と、その前に佇む男だった。
「こりゃ敵襲ですな」
携えていた刀を鞘に収め、男は首元を揉みながら言った。和装に束ねた黒髪。確か名は、《紫魔将 風牙刃のロム・スゥ》といったか。護衛として同行していたメレドゥス軍の将のうちのひとりだ。
信じられないことだが、上から落ちてきた巨石が落着するまえに、《ロム・スゥ》が屋根から跳んで刀で両断したらしい。
前方を塞いでいた障害物は自然のダムのような横倒しになった巨木だったが、そこに近寄る影があった。白髪の、しかし明らかに老人ではない筋骨隆々とした巨漢。彼は己の背丈よりも高く胴よりも太い巨木を持ち上げるや、崖上に向けて投げつけた。
巨木が槍のように崖に突き刺さると、崖は砕けてばらばらと人が降ってきた。いや、人ではない。牛面人身のミノタウロスだ。彼らは、しかし落ちてきたときに頭がぐちゃりと砕けたので、人と変わらぬ見た目になっていた。
「ヴェガだな」
と野太い声を響かせたのは、障害物となっていた巨木を退けた巨漢だった。こちらは、《赤魔将 豪砕のダズール》だとかいう名だ。
そのとき、後方から駆けてくる騎馬があった。いや、前方からもだ。用心深いというよりは臆病な〈黒覇帝〉が予め撒いておいた斥候だ。
「皇帝! 敵襲です! 斥候が敵軍を見つけました!」
と、どちらも強襲を告げるものであれば、落石も敵の攻撃だというロム・スゥの見方は正しいのだろう。
「おせぇよ」
とロム・スゥは喉を鳴らして笑った。
複数の斥候の報告を纏めると、前方からはドワーフ、ドリアード、獣などが600以上、おそらくオルバランの軍が接近中。後方からはケンタウロスやミノタウロスの存在から、ヴェガの軍勢と思われる100程度の少数による追撃が来ていた」
「とはいえ相手がヴェガなら、どこから矢が飛んで来るかはわからんな………。スワントがいないのも気がかりだし、少なくとも崖上にはもう少しいるだろう」にやにやと笑いながら、ロム・スゥが言った。「率いている将は?」
「将は確認できますが……名前まではわかりません。オルバランは大柄な人間の女、ヴェガはミノタウロスの女です」
「ミノタウロスの女……〈
「戦士というよりは、
「ふむん、魔術師か。見たことがない将ってのは、単に小勢ということか、それとも温存していた戦力か……」顎に手を当て、ロム・スゥは唇の端を持ち上げた。「大将、おれは
「おれが前に行く。オルバランだな」とダズールは言って、近くにいた熊に跨った。
《ロム・スゥ》も《ダズール》も、単独で敵と戦うわけではないが、もともと戦闘目的での遠征ではないので大部隊を率いているわけではない。〈黒覇帝〉にも護衛を残すとして、前線に出られるのはそれぞれ100ずつ程度だろう。つまりは圧倒的に数が多い敵と戦うことになるのだが、ふたりの男には怯えも迷いも見えなかった。
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