展覧会/対決の刻
感情移入できる小説というのは面白い小説だと思う。逆は正しいとはいえないし、裏も間違いだが、しかし対偶「面白くない小説は感情移入できない」は悪くない。
■対決の刻
ディーン・クーンツ/講談社/田中一江
この「感情移入をする」という行為については大きくわけて2種類あると思う。
ひとつは登場人物そのものになりきるという場合で、これはホラーや恋愛ものの場合がわかりやすいのではないかと思う。自分という存在をその物語の登場人物に置き換えて、怖いシーンならば怖い、愛おしいと感じるシーンならば愛おしいと情動を感じるわけだ。
もうひとつは自分という意識を保ったままで物語の人物に何かしらの情動を感じる場合だ。たとえば嬉しそうなキャラクタがいれば、嬉しそうなキャラクタに自己を同一して嬉しさを感じるわけではなく、その嬉しそうなキャラクタを感じることそのものを嬉しく感じる。悲しんでいるキャラクタがいればその人物が悲しんでいることを悲しく感じる。
これは感情移入という言葉の定義とは少々違うかもしれない。登場人物の感情をそのまま移入しているわけではないからだ。だから登場人物の感じている感情とは別の感情を得ることができる。登場人物に反応して感情が産まれるわけで、感情反応とでも呼ぶのが適当だろうか。あるいは単に「感動する」といっても良いかもしれない。
『対決の刻』を読んでいる間中に感じ、先を読み進めさせるパワーとなった感情はひとつで、それは登場人物のひとりであるレイラニに対する「可哀想だ」という感情だ。
レイラニ。
可哀想なレイラニ。
妊娠中にドラッグを服用すれば素晴らしい子が産まれると思い込むサイコな母親によって左手と左足が不自由な状態で産み出され、義理の父親には兄を殺され、10歳になる前にこの状況を打破しなければ大好きなミッキー・ベルソングのようなグラマーな美女になれずに兄と同様に殺されることを知りながら自分が無力な子どもであることを完全に理解しており、あらゆる努力をしつつもそれらはすべて無に帰される、自らを可哀想な子どもではなくミュータントだと主張することで僅かな安寧を得る可哀想なレイラニ。
レイラニが可哀想だ、とわたしはずっと思っていた。
決して不遇の立場にあるレイラニに感情移入をして、辛いという感情で心を振るわせるのではない。あくまで自己を保ったままで、レイラニという存在に「可哀想だ」という感情を向けていたのだ。
感情移入するというのならレイラニを助けようとする美女、ミッキーに対してかもしれない。しかし彼女は彼女なりのバックグラウンドがあり、それが相まってレイラニに向ける視線も少し異なっている。それにミッキーがいなかったとしても、レイラニに可哀想だと思うだろう。
『対決の刻』は登場人物に心を委ねて身を任せる小説ではない。あくまで自分の心の奥底から感情を迸らせなければ楽しめない小説だ。
そしてもうひとつ。
最初に述べたとおりに、「感情移入できる小説は面白い小説である」の裏である「感情移入できない小説は面白くない小説」は正しくない。
『対決の刻』には限りなく感情移入するのが難しいキャラクタが存在する。主人公のひとり、ミッキー・ベルソングの叔母であるミセスDことジェニーヴァだ。
彼女は愛する夫ともに強盗で頭を撃たれて以来、それまでに見た映画の登場人物と自分の境界が曖昧になってしまったという変わった経歴を持つ女性だ。彼女はときたま昔の映画に登場する華々しい美女の架空の記憶を思い出し、笑い、泣き、そしてその感情が映画のものであったことに気付いてジョークを飛ばす。
彼女は映画に完全に感情移入している。しかし読者の多くは、彼女のレイラニを助けようとする感情には同調できたとしても、自分の頭がおかしいということを自覚しつつもそのことについて冗談を言う、美女として数々の物語で男を惑わしてきた記憶を持つ女性に感情移入することは難しいだろう。
彼女こそまさに感情移入をする小説とは対極にいる存在だ。心は委ねるものではなく、自らで発揮するものなのだと教えてくれる。
『対決の刻』は物語の完成度としてはそう高くはないかもしれない。主人公のひとりである私立探偵のノア・ファレルは存在立場が怪しいままだし、ラストの一章は犬好きなクーンツの個人的な趣味が凝縮されたようなものでしかない。
だがわたしはクーンツの小説の中では『対決の刻』がいちばん好きだ。こんなに苦しくて、可哀想だという情動を必要とする小説は他にはない。
■対決の刻
ディーン・クーンツ/講談社/田中一江
「こんども、あたしの負けね。彼はただの自分勝手なブタ野郎だわ」
「ミセスD、お兄さんを自分勝手なブタ野郎って呼ばれたけど、いいの?」
「悲しいけど、ほんとにそうなんだもの」
この「感情移入をする」という行為については大きくわけて2種類あると思う。
ひとつは登場人物そのものになりきるという場合で、これはホラーや恋愛ものの場合がわかりやすいのではないかと思う。自分という存在をその物語の登場人物に置き換えて、怖いシーンならば怖い、愛おしいと感じるシーンならば愛おしいと情動を感じるわけだ。
もうひとつは自分という意識を保ったままで物語の人物に何かしらの情動を感じる場合だ。たとえば嬉しそうなキャラクタがいれば、嬉しそうなキャラクタに自己を同一して嬉しさを感じるわけではなく、その嬉しそうなキャラクタを感じることそのものを嬉しく感じる。悲しんでいるキャラクタがいればその人物が悲しんでいることを悲しく感じる。
これは感情移入という言葉の定義とは少々違うかもしれない。登場人物の感情をそのまま移入しているわけではないからだ。だから登場人物の感じている感情とは別の感情を得ることができる。登場人物に反応して感情が産まれるわけで、感情反応とでも呼ぶのが適当だろうか。あるいは単に「感動する」といっても良いかもしれない。
『対決の刻』を読んでいる間中に感じ、先を読み進めさせるパワーとなった感情はひとつで、それは登場人物のひとりであるレイラニに対する「可哀想だ」という感情だ。
レイラニ。
可哀想なレイラニ。
妊娠中にドラッグを服用すれば素晴らしい子が産まれると思い込むサイコな母親によって左手と左足が不自由な状態で産み出され、義理の父親には兄を殺され、10歳になる前にこの状況を打破しなければ大好きなミッキー・ベルソングのようなグラマーな美女になれずに兄と同様に殺されることを知りながら自分が無力な子どもであることを完全に理解しており、あらゆる努力をしつつもそれらはすべて無に帰される、自らを可哀想な子どもではなくミュータントだと主張することで僅かな安寧を得る可哀想なレイラニ。
「逆に、あたしは――ファーストネームはきれいでも、そのあとがクロンクなんて妙ちきりんな名前でしょ。だから、半分はまあまあかわいくても――」
「あなたは、すごくかわいいわよ」ミッキーは請け負った。
これはほんとうだ。金色の髪。リンドウの花びらのような青い瞳。くっきりとした顔立ちは、レイラニが子どもだから愛らしいのではなく、おとなになっても美人だということを焼く遡行していた。
「半分はね」レイラニは渋しぶみとめた。「おとなになったら、人がふりかえるようなものかもしれないけど、あたしがミュータントだってことでバランスがとれてるの」
レイラニが可哀想だ、とわたしはずっと思っていた。
決して不遇の立場にあるレイラニに感情移入をして、辛いという感情で心を振るわせるのではない。あくまで自己を保ったままで、レイラニという存在に「可哀想だ」という感情を向けていたのだ。
感情移入するというのならレイラニを助けようとする美女、ミッキーに対してかもしれない。しかし彼女は彼女なりのバックグラウンドがあり、それが相まってレイラニに向ける視線も少し異なっている。それにミッキーがいなかったとしても、レイラニに可哀想だと思うだろう。
『対決の刻』は登場人物に心を委ねて身を任せる小説ではない。あくまで自分の心の奥底から感情を迸らせなければ楽しめない小説だ。
「どうしても訊きたいことがあるんだけど、ミセスD。失礼な子だと思わないでね」
ジェニーヴァが目を丸くした。「そんなこと思うもんですか。あなたはとてもいい子よ。まちがいなく……」眉をひそめて、「なんていうんだっけ?」
「とてもいい子の、まちがいなく、立派な子どものミュータント」
「自分でそういうなら、そうでしょうね」
「大好きだから訊くんだけどね、ミセスD、すてきな変人のふりをしてるの? それとも天然なの?」
ジェニーヴァは嬉々として問い返した。「あたし、すてきな変人かしら?」
そしてもうひとつ。
最初に述べたとおりに、「感情移入できる小説は面白い小説である」の裏である「感情移入できない小説は面白くない小説」は正しくない。
『対決の刻』には限りなく感情移入するのが難しいキャラクタが存在する。主人公のひとり、ミッキー・ベルソングの叔母であるミセスDことジェニーヴァだ。
彼女は愛する夫ともに強盗で頭を撃たれて以来、それまでに見た映画の登場人物と自分の境界が曖昧になってしまったという変わった経歴を持つ女性だ。彼女はときたま昔の映画に登場する華々しい美女の架空の記憶を思い出し、笑い、泣き、そしてその感情が映画のものであったことに気付いてジョークを飛ばす。
彼女は映画に完全に感情移入している。しかし読者の多くは、彼女のレイラニを助けようとする感情には同調できたとしても、自分の頭がおかしいということを自覚しつつもそのことについて冗談を言う、美女として数々の物語で男を惑わしてきた記憶を持つ女性に感情移入することは難しいだろう。
銃で頭を撃たれても明るい側面がありうるとしたら、それはなんとすばらしい予測不能な世界だろう。
それは、ミッキーではなくジェニーヴァがいいそうなことだ。ミッキーが落ちこんでいるとき、ジェニーヴァは楽観論をもちだしてくる。
「ミッキー、銃で頭を撃たれても明るい側面がありうるとしたら、それはなんとすばらしい予測不能な世界じゃない。ときどき、ものごとが混乱して恥をかくことがあっても、過ぎ去った人生からこんなにいろいろと魅力的でロマンチックな思い出を引きだせるなんて楽しいわよ! いえ、なにも頭を怪我しろっていってるわけじゃないけど、あたしだって神経がちょっと妙な具合になってなかったらケイリー・グラントやジェイムズ・スチュアートと愛し愛される関係にはぜったいにならなかったと思うし、ジョン・ウェインとアイルランドであんなふうにすばらしい経験はできっこなかったはずだしね」
彼女こそまさに感情移入をする小説とは対極にいる存在だ。心は委ねるものではなく、自らで発揮するものなのだと教えてくれる。
『対決の刻』は物語の完成度としてはそう高くはないかもしれない。主人公のひとりである私立探偵のノア・ファレルは存在立場が怪しいままだし、ラストの一章は犬好きなクーンツの個人的な趣味が凝縮されたようなものでしかない。
だがわたしはクーンツの小説の中では『対決の刻』がいちばん好きだ。こんなに苦しくて、可哀想だという情動を必要とする小説は他にはない。
(*引用は『対決の刻 上』Dクーンツ/講談社 より)
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