展覧会/オシゴトじかん

7月 02, 2011
どうも好きな漫画でも、電子書籍のみの販売だと人に勧めづらい。もともと人に何かを勧めるという性質でもないが。

■オシゴトじかん
市松/講談社

→e-book Japan『オシゴトじかん』 http://www.ebookjapan.jp/ebj/book/60036339.html
→so(作者 市松 のHP) http://urban.sakura.ne.jp/blog/

ハードになっていれば実物がその場であるので見せることもできるし、それで興味を惹けるが、電子書籍として存在しているとそうもいかない。
もちろん躯体の選びようによってはこの問題は簡単にカヴァーできる。iPhoneに代表されるスマートフォンやPDAの類があれば、たとえ野外であってもそのコンテンツを他人に勧めることができるだろう。

だが現在のところのスマートフォンやPDAの類は書籍を読むには向いてないように感じる。少なくともわたし個人にとっては。


わたしにとって書籍とはぶん投げるもんである。
寝る前に読んでいた本は階下(夏以外はロフトで寝ている)のクッションの上に投げるし、座って読んでいた本はテーブルの上に投げる。風呂に入っているときに読んでいた本は風呂上りに布団に向かって投げ、寝逆立ち(仰向けの状態から腰から上を垂直に立てた姿勢)で読んでいた本はそのまま後方に投げる。
そういうわけで投げても困らない強度がないと電子書籍は困る。

基本的に物は失くさないが、扱いは手荒い。なのでハードが繊細であったり、壊れやすかったりすると困る。特に電子書籍リーダーと使うのであれば、画面が汚れたり傷ついたりして読み難くなるのは致命的だ。



五年くらい前の想像図では、電子書籍というのは電子ペーパーを応用したほとんど紙と変わらないような書き換え可能な媒体で活用されるというような展望になっていた気がする。そのレベルまで実現してくれれば電子書籍というのも悪くない、とうより大歓迎だけれども、あとどれくらいかかるのだろうか。日本国内だとそもそも電子化の風潮が弱いのも不安だ。

基本的に紹介したい漫画とまったく関連しないことをつれづれと書いているが、だいたいわたしにとってはいつものことである。感想文を書くときに書き出しの行からてきとうに関係ありそうでないことを書くというのは小学校5年生のときに取得した技術で、これを覚えて以来文章を書く速度が飛躍的に増した。とってもらくちんである。

だいたい極論をいえば書評を見て本を買うなんてことはまずありえない

書評といってもいろいろだが、忠実にその本を解説しようと思えば本の要約になりかねない。その過程で変換があれば元の良さが失われてしまうだろうし、付け足すものがあればそれが蛇足になるか、そうでなければ元の作品それ自体に欠落があるということになる。書評が価値のあるものなら、そっちを本にしたほうが良い
書評というものそれ自体がてきとうに付け足したようなものだという気もする。本当に本を紹介する場合、表紙とタイトル、著者、価格、あとはタグのようなものをつけておけばそれで済むという気がする。ようはカタログだ。だがそれだとなんか寂しいので、たぶん書評というものをてきとうに捏ねて載せているのだろう。うむ。少なくともこの展覧会のコンテンツはそんな感じだ。



ジャンルにもよるが、本を買うときにまず優先するのは著者で、好きな著者なら買う。これは小説でも漫画でもエッセイでも新書でも参考書でも論文でも同じだ。
で次に来るのはタイトルで、小説・エッセイはこれでほぼ決まる。クローズドである。次は扱っているテーマで、漫画・新書・論文あたりはこれで九割決まる(論文もテーマだけで読むものを決められるのはわたしの対象が狭いせいだろうけど)。
漫画だと雑誌やらなにやらを読んで知る場合があるが、わたしはほとんど雑誌を読まないので新規開拓することは稀だ。
唯一例外ともいえるパターンは、好ましい・趣味の合う人物が紹介していた場合で、この場合は書評などいっさい必要なく、ただ「面白かった」の言葉さえあれば良い(わたしの場合、たとえば『ウォッチャーズ』がこれにあたる。『犬マユゲでいこう』で紹介されてた)。

つまり、基本的に読む本というのは新書や参考書(文芸書・写真集とかも)などを除けばほぼ著者買いで、そうでなければかなり限られた要素に従って買っている。閉鎖的なのだ。


自分がそういう買い方・読み方をするから他人に勧める場合も碌に内容を書かない。てきとうに、こう、立て板に水というか、暖簾に腕押しというか、糠に釘、そういうするするっと、そういう漫画なのです。

(画像は『オシゴトじかん』(市松/講談社) より)

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