佐藤賢一の作品はマカロニウェスタンに通ずる部分が有ると思う。

女信長
佐藤賢一/新潮社

 京都に行ったときに読んだ。佐藤賢一作品となると、毎度ながら時間を忘れて一気に読んでしまい、今回もその類に違うことなく、帰りの新幹線の中で一気に読んでしまったのだが、これが面白くなかった。

 佐藤賢一の主人公といえば、ムキムキマッチョの絶倫であそこの大きいイケメンで、あーん、大事なところが熱くなってきたよぅ、とやりたい放題やりながら負け犬になり、そこから這い上がったり這い上がらなかったりする。
 今回の主人公は痩身の美女であり、これはこれまでの主人公とは全く異なっている。だからと一息に言えるものではなかろうが、面白くない。思えば御長(信長)は負け犬には成り得なかった気がする。やはり人間、負けて泥を啜り、這い蹲って尚生きるのが面白い。

 珍しく終わりは良かった本作であるが、そういうわけであまり面白くなかった。

 さて、冒頭でも述べたが、佐藤賢一の小説はマカロニウェスタンに通じる部分が有ると思っている。それは主人公の性質である。
 マカロニウェスタンの主人公は、Outlaw(無法者)だ。
 腕っ節が強く、敵を撃ち殺すときは躊躇いもしないし、時として無関係な市民を巻き込むことさえある。かと思えば異様なほどに敬虔であったり、紳士的なことさえある。背負うのは復讐などの重苦しい過去であり、華々しい未来など信じてはいない。歪んだ負け犬こそがマカロニの主人公なのである。
 これが佐藤賢一作品の主人公に通じるところがあるのだ。たとえば「黒犬」こと長腕のデュ・ゲクランや、「アンジューの一角獣」のシェフ・ピエール、ガリアの英雄ヴェルチンの無法者らしさは、如何にもマカロニだ。

 だが佐藤賢一とマカロニウェスタンで違う大きな点が一つある。それは銃の有無である。マカロニには銃があり、佐藤賢一には無い。
 何を言っているのだ、佐藤賢一作品には銃が出てくるだろう、この『女信長』からして、のっけから火縄銃が出てくるではないかと思われる趣もあるだろう。が、ここで言う銃とは、一般的な火器のことではなく、Equalizerのことだ。

 平等の銃、イコライザー。狭義ではピースメーカーという異名もある西部を征服した銃、コルト・シングルアクション・アーミー(SAA)のことを指すらしいが、ここで指すEqualizerとは、SAAだけではなく、開拓時代の西部に存在する一般的な銃のことである。
 獣、インディアン、そして無法者。様々な敵が存在する西部において、銃は必須の武器であると同時に、格差を埋めるべき道具でもあった。
 その格差とは人種や障害の有無など様々であるが、その中でも最も大きかった格差といえば、男女の差異ではないかと思う。

 或る意味でこれは、西部劇とマカロニ・ウェスタンを差別化する点でもある。西部劇に出てくる女は、基本的には守られる存在だ。だがマカロニにおいては「ハニー」コールダーのように、己が銃を取って戦うことができる。己が身を己で守るだけではなく、己が夢を叶えることもできる。

 もちろん銃が男女の格差を埋める道具に成り得るということは、『女信長』でも示唆されている。

 女では弓の名人になれない。が、その気になれば、女でも鉄砲の名人になれる。 
――ああ、そういう理屈か。
 道三は瞬時に洞察した。腕力のない女でも、火薬の力を借りる鉄砲なら名人になれる。よれよれの矢しか飛ばせないものが、鎧を打ち抜く勢いで鉛玉を飛ばせる。

 なるほど確かに『女信長』では冒頭も冒頭に、銃の利点を挙げている。
 だがさらにこうも続く。

 もちろん実戦に用立てるのは、いうほど簡単ではないとも思う。撃つのに力がいらないというが、他面で鉄砲は重い。持ち運びには、かえって弓より体力を必要とする。それくらいはやらせる、軽いほうがよいなどと、雑兵風情には文句はいわせないとしても、さらに弓の優位は続く。

 また、主人公である御長が男と一対一で対峙する場面が有り、そのとき彼女は刀の存在を意識する。如何に自分が非力だとて、女だと晴れさえしなければ、帯刀の相手に襲い掛かることはありえまいと思うのであるが、しかし決して銃の存在を意識したりはしない。
 もちろんこの当時、銃といえば火縄である。予め弾丸が充填してあったにせよ、撃つまでには時間が掛かるし、乱戦で使えるほどに取り回しが良いわけではない。
 だがそれを念頭に置いたとしても、鉄砲の有用性に誰よりも早く気付いた信長が、銃について一瞬たりとも触れないというのが如何なものだろう。

 改めて考えてみれば、これは彼女にとっては当然のことなのだ。なぜなら彼女にとっては、銃は戦の武器でしかないのだから。己の身体を守ってくれる物ではない。男と女という、絶対的な格差を埋める物ではないのだ。ならば銃は、イコライザーにはなりえない。

 マカロニにおいては、違う。
 たとえば『盲目ガンマン』では盲目の主人公はウィンチェスター・ライフルを杖代わりに使っていたし、米国作品なのでマカロニではないが、『シェーン』では主人公シェーンは拳銃をぶん殴るために使うシーンさえあった。西部においては、銃は単なる戦の武器ではない。日々の糧を得る狩りのための道具であり、無法者から己が身を守るための護符なのだ。

 そうではないのだから、佐藤賢一作品では、銃はイコライザーに成り得ない。主人公が格差を感じない肉体的に優れた男というわけではなくとも、そもそもが戦争の道具だからだ。戦争を行うのは力有る者だからだ。力有る者と力有る者同士の戦いにおいて、「平等の銃」はその意味を成し得ないからだ。

 ならば女が主人公たる『女信長』が「女性の信長」であることの面白さ発揮できなかったのも道理という気がしてくる。女は、いや、女なればこそ、銃を取らなければいけないのだ。

 個人的には、同じ下地で秀吉が主役ならば面白かったかもしれないなぁ、と思わないでもない。銃というイコライザーはないが、秀吉は他の力を持っているのだから。

 余談だが、今年2012年ドラマ化するそうで、これって性描写は如何するんだろうかと非常に気になってしまった。特に浅井長政との絡みとかね。
 更に余談だが、役者の信長が天海祐希で、一瞬、よもやドラマ版では信長が南光坊天海になるのかと思ってしまった。いやぁ、紛らわしい。

(引用は、『女信長』(佐藤賢一/新潮社)より)

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