《メリナ・エモンス/Melina Emmons》、

旧友である大将軍と会話を交わすこと


 温かい目が疲弊した空気を覆い始めていました。
 怪我人を移送し、生存者を捜すための兵士たちの叫び声でさえも平穏さを感じさせるものでした。
 明確な勝者も敗者もいないままに終結した戦争でしたが、兵士たちは生き残って家族の待つ家に帰ることができるという希望に浮き足立っていました。


2-1-043U《生き残った羽/Survived Wings》
大天使アイリンやほかの羽たちの喪失に、生き残った羽たちは涙を浮かべた。

「ああ、寒い寒い。いったいいつになったら到着するわけ?」
 《メリナ・エモンス/Melina Emmons》が厚手のマントを重ねて被ったままがたがたと震えています。
 戦場を少し抜けた森の外には誰もおらず、ただ人が来るのを待っていた寒風が吹き付けてきます。
 寒さに足を取られて転んだのが何度目になった頃でしょうか、森の彼方に人の影が現れました。
 その影はメリナの姿を確認すると、ゆっくりと歩く速度のままで彼女のほうへと向かってきました。

「さっさと来なさいよ」
 メリナが悪態を吐きました。
 なんでこんな早い時間に出てこなくてはいけないのだろう。だいたい、わたしはこんなふうに待ち合わせの時間通りに来るような女じゃないのに。久しぶりに会うっていうから、こんなに早く来てやったというのに、こんなに寒いとは思わなかった。あいつのほうはぜんぜん寒くなさそうじゃない。こんなふうにわたしだけ損をするんだったら、もう少し火で暖まってからゆっくりと出てくれば良かった。

「久しぶりだね」
 寡黙に見える男が先に挨拶をしました。
「ずいぶん待ったんだけど」
「うん、時間に遅れてしまったかな? 間に合うように出て来たつもりなんだがね」
 メリナは顔を引き攣らせました。
(堪えてやろう。こいつはこんな性格だから、この年齢になっても結婚もできないんだから)
 固い顔の引き攣り笑いのまま、メリナは話題を変えることにしました。
「元気そうで何よりね、リハルト」
「なに、体力だけは鍛えているからね」
「それに関してだけは一生懸命ね」
「筋トレの話に花を咲かせるために呼び出したわけではないだろう? 何の用だね、メリナ?」
 深い溜め息の混ざった息を吐き出したあと、メリナは笑顔を消して本題に入ることにしました。

「セノトの聖所から噴き出した黒い光……、あなたも見たでしょう?」
 《リハルト・フォン・シュバルト/Richard von Schubart》が静かに先を促したので、メリナは両腕を抱いたまま左右に歩きながら話を続けました。
「エスファイアが知っているのかどうかは知らないけど……、魔王ベリアルが消えたわ」
 無表情に一貫していたはずの大将軍リハルトの双眸に混乱の色が立ちこめました。
 この男がこんな表情をするのなんて、初めてね。メリナはふっと微笑まずにはいられませんでした。

「数千年もの間、カイデロンを支配してきた魔王が消えた。いま、カイデロンが兵たちを統制できずに退却した理由はそのためよ」
「魔王が聖所に上がったことまでは報告を受けていた。だが、そこでいったい何があった?」
「詳しいことは教えられないけど……」歩き回っていたメリナはリハルトの身体を向けました。「おそらく、当分は魔王は戻ってこない。カイデロンは混乱に包まれるでしょうね。この話は他言無用よ。若い皇帝さまを唆してカイデロンに攻め込むのはやめておいてちょうだい」
 リハルトの沈黙を肯定として受け入れたメリナは、足下に積もった雪を足で払い、当時の状況のことを振り返りました。


《メリナ・エモンス/Melina Emmons》、

聖所での出来事を振り返ること


「メリナさま! メリナさま!」
 ワイバーンに乗り、聖所を飛び出して来た《ヴァイオレット/Violette》と《チェルシア/Chelcia》を眺めていたメリナは、騒がしく駆け寄りながら己を呼ぶ声に振り返りました。
「何があったの? エロンは?」
「アイリンさまと魔王ベリアルが………」

 メリナは一部始終を聞くと、すぐさま聖所に駆け込みました。
「エロン、この方が次期聖女さま?」
「そうです、メリナ」
「聖女さま、ちょっと失礼」
 メリナは驚いて目を丸く見開いているイクウェルの頭と首、手首を流れている魔力を感じ取ろうとしました。

「……無い」
 メリナはイクウェルの身体から、一切の魔力の痕跡を感じることができませんでした。
 いや、《次期聖女/The Next Saintess》なのだ、イエバの残滓を持っているはずではないのか? こんな、何の能力も無い一般人程度なんて……。
 一般人……?
 違和感がメリナの背筋から涌き上がりました。
「一般人程度じゃない。これはまるで封印されたような……、ううん、封印の痕跡さえ無い。まるですべての力を消したような状態ね」
 混乱に包まれたメリナの視界の中に、床に落ちていた肉塊が入ってきました。
 メリナは用心深く、その朽ち果てた肉塊を取り上げました。
「エロン、これは……、聖女さまの心臓?」
「はい、そうです。黒い光が噴き出てきたため、思わず………」
 複雑な気持ちで息苦しさを纏った声でエロンが伝えましたが、メリナが集中したのはその肉塊を調べることだけでした。
 これが魔王ベリアルが自身の存在を次期聖女の身体に移すために使った《聖女の心臓/》。
 その意識の最後の瞬間に《アイリン・ベル/Irene Belle》が割り込んだとすれば………。

「ご承知とは思いますが……」
 エロンの声に反応し、メリナは身体を起こして肉塊を静かに懐に入れました。
「ここであったことは、他言無用でお願いします」
「わかっているわ、エロン。ここでの出来事は誰にも話さない」
「ありがとうございます、メリナ」

 エロンは少し逡巡したのち、話を続けました。
「魔王ベリアルは……、それに、われわれのアイリンさまはどうなったのでしょうか」
「わたしにも正確なところはわからない」
 メリナはイクウェルの服を汚した血の塊と埃を叩きながら、話を受けました。
 その行動がエロンの目をごまかすためなのか、イクウェルがあまりに痛ましく見えたからなのかは、メリナ自身にもわかりませんでした。
「ベリアルは次期聖女さまの肉体に己を移そうとしていたわね? でも、彼女には何の力の痕跡も見られない」
「つまり……」
「ベリアルは意識の転送に失敗した。アイリンが防いだから」
「それならどうして、ベリアルもアイリンさまもいなくなってしまったのですか?」
「だから、わからない」

 エロンの眼にはありありと失望が浮かんでいました。
 ほかでもないアルケンの夢の道標が、わからない、と首を振ったというのは、魔術師の中にこの事態を説明することができる者はひとりとしていないと考えて間違いなかったからです。

「ただ、イエバの力とアゼルの力が衝突して次元の亀裂を作った可能性は考えられる。それで魔王とアイリンが次元を移動したのかも。でも、異次元の空気や魔力の痕跡は感じられない。
 もうひとつの可能性は、ベリアルとアイリンが同時にイクウェルの肉体に入ったということ。でも、そんな巨大な存在がふたつも入ったら、肉体が耐えることができないはず。
 それに、いまのイクウェルの身体からは、何の魔力も感じられない。たぶん、イエバの口の預言者もこの理由は説明できないと思う。完全に事態を明らかにするのは不可能ね。でも……」
 メリナはイクウェルに向かって笑いかけてから、話を繋ぎました。
「次期聖女さまは無事に帰ってきたでしょ?」


2-3-200CE《夜明けの慈悲/Mercy of Dawn》
エロンと夜明けの慈悲に、新しい名前が与えられた。聖女を護るもの、という名が。

 エロンにはすべてを語ったわけではない。
 それでも、わからない、と言ったのは嘘ではない。メリナも、まだ確信できていないのだから。


《メリナ・エモンス/Melina Emmons》、

エスファイアの大将軍と魔王の力について話し合うこと


「理由を言っておくわ。あなたも見たであろうあの黒い光……、あれは危険よ」
 リハルトは説明を要求するように目配せをしました。
「あの光は、大陸に存在するどんな力とも違う力。五大神の力ではない」
「魔王の力というわけではないのか?」
「違うわね。あの光は、魔王が消えた瞬間に現れた力だもの」
「では……、その光こそが魔王を消失させたのか?」
「それはわからないわね。あの黒い光が魔王を飲み込んだのか、それとも儀式が失敗した結果の副作用なのか。アイリンの力だとも思えない死」
「アイリン? 大天使の? 彼女もその場にいたのか?」
「そのとおり。彼女も魔王と同じように消えたわ。跡形も無く……」

 しばらく考えを整理するかのように、老将軍リハルトの瞳は虚空へと向かいました。
「……あなた、シェイクとカイデロンのリーダーふたりが消えたと知って、戦争の計画でも立てるつもり? さっき、それはやめろと言ったのを聞いていなかったの?」
「いや、まぁ、わかっている」
 リハルトは誤魔化すように咳払いをしました。

 メリナは肩を竦めてから、説明を再開します。
「言い換えるとね、あの力はこの世界の法則に従うような力じゃない。そのうえ、アゼルの残滓とイエバの大天使を同時に飲み込んでしまうほどの巨大な力なの。危険すぎる」
「だが、いまは何ともないのだろう? それに、その力が現れると何が起こるかという確信も無いはずだ」
「そんなことはない。神々の戦争を考えてちょうだい」
「……異界の神々のことか?」
「そのとおり。この世の法則で構成された力ではないなら、それは違う次元の力よ。そして、わたしたちの大陸に干渉できるほどに強力なら、それは異界の神の力と考えて間違いないわ」
「ずいぶんと解釈し過ぎな気がするな。異界の神々がこの大陸から撤退してからは数千年が経過している。その間、彼らが一度たりとも攻めてきたことはないだろう?」
「神々の時間をわたしたち人間の基準で考えないでよ。それに、あなたが言った数千年の平和が今回壊れたのは間違いないのよ。だって、数千年もの間に君臨してきた魔王が消失したんですもの」


2-C1EP《予兆のドラゴン/Dragon of Omen》
黒い光のあとで生じた最も大きな変化は、創世時に生きていたドラゴンの登場だった。

 リハルトは未だ疑わしい瞳でメリナを見つめました。
「兎に角、だから戦争はやめてほしいって言ったのよ。魔王と大天使が消えた、だなんていうことはすぐにトルステンの耳に入るでしょう? そうしたらすぐに戦争を起こそうとするはず。それを防げるのは、大将軍、あなたしかいないわ」
「なぜ、わたしがそうしなければいけない?」
「あなた、いままで何を聞いてきたわけ? エスファイアが戦争を始めてカイデロンやシェイクを征服することは簡単でしょう。でも、そんなふうにしてみんなが血を流したあとで異界の神々が現れたら、このアルカディアはお終いよ。今回は、わたしたちを守ってくれる五大神はいないんだから」
 メリナは冷えた手に息を吐きかけて、話を続けました。
「ぜひわたしのこの話が無駄にならないことを期待するわ。あなたがよく考えてくれることを信じてね」
「シエリオンにでも移民したかのような物言いだな。突然、平和に暮らそうだなんて言い出すなんて」
 メリナがくすくすと笑いました。
「歳を取ったのかもね」
 その言葉に、リハルトも失笑しました。いくらメリナが年をとってもリハルトの年齢に追いつくことはありえません。
 それでもふたりは確かにふたつの戦争を経験した人間で、10年前とは違う考え方を持っていました。


《リハルト・フォン・シュバルト/Richard von Schubart》、

反乱軍に拘束され、真実を告げること


「さて、そろそろ帰るわ。わたしたちが会っているのを誰かに見られたら大事だものね」
「見送りできなくて申し訳ない」
「ご冗談。そんな騎士道精神あふれるエスコートは、エスファイアのお嬢さんに言ってあげなさいな。うちのアルケンにはそういう考え方は無いんですからね」
 メリナが踵を返して連合軍の陣営に戻っていきます。
 ずっと寒い寒いと文句を言っていたメリナが遠ざかり、完全に視界から消えたあと、リハルトは口を開きました。
「何の用だ」


2-1-003C《エルビンのスパイ/Spy of Erwin》
「リハルトはこれからメリナに会うようです。そのあとは単独で帰還するでしょうから、この機会を使うべきです」

 その言葉が発せられるやいなや、いままで気配さえ感じさせずに森に隠れていた兵士たちが歩み出て、リハルトを囲み始めました。
「お久ぶりです、大将軍閣下」
「ニコラスか……。反乱軍へ加担するようになってから元気そうだな」
「先王陛下を毒殺した反逆者と居なくて良いもので、まったく気が楽ですよ」
 その言葉に、リハルトが鋭い目で周囲を睨み付けました。


2-006EL《ニコラス・シュナイダー/Niklas Schneider》
その男は力に対する野心と欲求のために、反乱軍に身を置いた。彼だけが、エルヴィンの薄弱な意志を変えることができた。

 《ニコラス・シュナイダー/Niklas Schneider》を含め、姿を現した者は12人。周囲にはさらに警戒する空気もありましたが、現れたものたちはすべて精鋭だけ選んだような動きで、尋常な身のこなしではありませんでした。
「さて、大人しく来ていただければ特別なことは致しません」
 リハルトが沈黙で受けると、すぐにニコラスが先頭になって森の中へ向かって歩き始めました。
 少し考えてから、リハルトも己を囲んだ反乱軍に従いました。

「お元気でしたか、第二王子」
「このような形で招待させてもらって申し訳ないね、リハルト」


2-1-066EP《エルビン・フォン・ベルクマン/Erwin von Bergmann》
「大丈夫だよ、ベッカー。リハルトは時期が来たらすぐに解放する。きみはそのまま騎士団の動きを監視してくれればいい」
「……彼を恨んではいないのか?」

 リハルトが連れてこられた場所はエスファイアの駐屯地からそれほど離れていない林の中の洞窟でした。
 洞窟の中にあったのは明かりを灯すための松明と僅かな荷物、そして悲壮な表情の反乱軍だけでした。
「ここは……、拠点というわけではなさそうですね。わたしに会うためだけの場所ということですか」
「ちょっと話がしたかったものでね。あまり良い席とはいえないけれども、理解してくれると嬉しい」
「承知しております」
「座ってくれ」
 《エルビン・フォン・ベルグマン/Erwin von Bergmann》はリハルトに木箱を勧めてから、己も腰かけました。

 リハルトが座ると、エルビンはしばらく逡巡したのちにぎこちなく話を始めました。
「兄さんは元気かな」
「健康です」
「それは良かった」

 再び、今度はかなり重い沈黙が流れました。

「顔に皺が増えたね、リハルト」
「年齢は騙せません」
「いろいろと大変だったんだろう」
「王子も凛々しくなられました」
 エルビンは苦笑して受けました。エルビンが王宮から追い出されて10年。その間、生きるためにどんなことを体験してきたのか、リハルトが知らないはずがありません。


2-1-009R《過酷な弾圧/Cruel Suppression》
反乱軍の勢力は、市民と奴隷、そして貴族から人員を補充することで成長し続けていたため、帝国軍は反乱分子を見つけ出すため、情け容赦なく市民を弾圧した。

 リハルトという師匠から国を治めるための数多くのことを学んできたエルビンは、いまやその国を転覆させるための反乱軍のリーダーとしてリハルトと相対しているのです。

「リハルト……、ぼくはとても遠くに来たがするよ」
 気を引き締めたエルビンが言葉を紡ぎました。
「父上を毒殺した暗殺犯として告発されたときには、死んででも潔白を証明するべきだったのかもしれない」
 リハルトは無言でした。
「でも、ぼくは怖かった。とても死ぬことができなかった。だから代わりにぼくは、真犯人を探し出して身の潔白を証明しようと決心した」
 松明に映った影がゆらゆらと揺れました。


2-1-008C《復讐の誓い/Pledge of Revenge》
「前皇帝を殺したのはエルビンさまではありませんでした。ですがわたしは、あなたの死が無駄ではなかったということを証明しなければなりません」

「リハルト、信じてくれ。ぼくは父上を殺してはいない」
「知っています」
「……なんだと?」

 ひりひりするような静寂が洞窟いっぱいに広がりました。驚きに見開かれたエルビンの目。周囲を囲んだ反乱軍兵士の驚きに満ちた表情。ニコラスは口元が震えるのを隠すために、静かに頭を下げました。

「ぼくが……、父上を殺さなかったことを知っていると言ったのか?」
「はい、知っています」
「いったい、いつから?」
「最初からわかっていました」


《エルビン・フォン・ベルグマン/Erwin von Bergmann》、

己が暗殺犯に仕立て上げられた経緯を知ること


 エルビンの拳がリハルトの顎を捉えました。

「ふざけるな! 何と言った!? いま、何と言ったのだ!? ぼくが父上を殺さなかったことを知っていた!?」
 エルビンが倒れたリハルトの上に圧し掛かり、がたがた震える手で喉首を掴みました。いまにも破裂しそうな勢いでした。
「じゃあなぜあんなことを……! なぜ知っていながら、反逆者として追い立てたりなんかしたんだ!?」
「先王が毒殺されたことを隠すことができませんでした」
 小さく咳をしてから、言葉が続きました。
「毒殺されたことを隠せていたら……、先王が名誉の戦死をされたということにすれば良かったのです。しかし、先王が毒殺をされたという事実が皆に知られても、われわれは暗殺犯の糸口さえ見つけることができなかったのです」
「……」
「先王は後継者を指定せずに亡くなりました。互いに利害関係が異なる貴族たちがトルステン陛下と王子の派閥に分かれて王位継承権を争うことは火を見るより明らかなことでした」
「……それで?」
「エルビンさまが王位を譲渡するとして解決できるような状態でもありませんでした。状況があいまい過ぎて、不満ある貴族が立ち上がったことでしょう。そのうえ、情勢が不安な時期でした」
 リハルトの視線は、「不満ある貴族」という単語とともにニコラスへと向かいました。その視線を受けても、ニコラスは目を逸らすことなく、横になっているリハルトを見下ろすだけでした。
「エスファイアの平和のために、おふたりの中で立場の弱いひとりが落伍しなければならなかったのです」
「そんな理由で……、ぼくを?」
「はい、そのとおりです。王子を先王暗殺犯に仕立て上げたのは、このリハルトです」


2-2-079U《リハルトの葛藤/Conflict of Richard》
「エスファイアのため、亡き王のためにエルビンさまを犠牲にした……。これがわたしの罪だ」

 エルビンは身体の中で何かが切れ、視界が真っ暗になるのを感じました。

「そうか……、そういうことか……」
 エルビンは静かにリハルトから身体を離して起き上がり、リハルトは横になったままで天井に揺れる汚れた明かりを眺めていました。
 自身が何を考えているのか、自分自身でさえわかりませんでした。


《ニコラス・シュナイダー/Niklas Schneider》、

大将軍を殺害せんとして死にかけの天使に遮られること


 どれくらい時間が過ぎたでしょうか。いまや洞窟にはふたりだけしかいないようでした。皆、息さえできずにふたりが止まった時間を解くことだけを待っていました。

「行け」
 エルビンの沈んだ声が発せられ、リハルトがゆっくりと身体を起こしました。身体から落ちてきた砂の塊が粉々になって散りました。
 ニコラスが不満そうな顔でエルビンに何か話そうとしかけましたが、止めました。
 起き上がったリハルトは、埃だらけのままでエルビンに礼を取りました。
「父なるハケンの勝利と栄光を」
 
 王宮の格式ある席でハケンの欠片を受け継ぐ血統にだけ行われる礼。10年ぶりにその礼を耳にし、エルヴィンは何も告げずにリハルトを送り出しました。
 リハルトの姿が消えると、すぐにニコラスが不満だらけの表情で口を開きました。
「いったい何をお考えなのです。あの男を解き放つとは、正気ですか? すぐに追撃隊を出発させて殺させます。フーゴ、ヴォルフガング!」
 ニコラスの命令とともに、2人の小隊長が走り出ました。
「リハルトを追え。捕えるのが難しければ、殺しても構わない」
 兵たちはともにすぐ走って出ていこうとしましたが、エルビンの冷たい視線を受けて、立ち止まりました。


2-1-006R《反軍の将軍/General of Insurgent》
「リハルトの言葉は、あなたの無実を証明したようなものだ! もはや躊躇するべきではない、エルビン!」

「直ちに出発するんだ!」
 ニコラスが再度命令を発しました。
 兵たちがエルビンのためにニコラスの命令にすぐに従わなかったのは初めてのことで、それがニコラスをこれまでに無いほどに気分を悪くさせました。
 わたしが実力的に反乱軍のリーダーであることは明らかだ。それなのに、あの案山子として立てている王子の表情などを窺うというのか? あいつらが戻ってきたら、誰が上なのかをはっきりさせてやる。

 しかし、リハルトを追いかけて行こうとした兵士は、思いがけない存在に阻止されました。
「止まって」
 割れて汚れたハスキーな女性の声が冷たく洞窟に鳴り響きました。
 耐えがたいその声は、音が響く洞窟の中にあってはさらに重苦しい重圧感を載せてきました。

 洞窟の最も内側、松明の光が届かない闇の中から、声の主がゆっくりと歩き出てきました。血走った黄金色の瞳がニコラスに向けられます。
「彼はエルビンが送り出した。あなたはエルビンに仕えているわけではないというの?」
「ラジア………」
 ニコラスは歯ぎしりしました。この滅びつつある死体のような女が、なぜここで割り込んでくるというのだ。

「不満だらけといった表情ね」
 骨だけ残った崩れた翼が、気味の悪い音を立てました。
「試してみる……?」
 《ラジア・ベル/Lagia Belle》が左腕をゆっくりと《皇帝の剣、プラウテ/Praute, Sword of Emperor》の柄へと移動します。
 非現実に感じられるほどに活気の無いその動きに、ニコラスは寒気を感じました。くそ、普段は死んだように静かにエルビンの後ろに立っているだけだというのに、いったい今日に限って、なぜ……!?


《ラジア・ベル/Lagia Belle》、

十年来の付き合いの少年と言葉を交わすこと


「撤収する」
 結局、撤収命令が下りました。
 ニコラスは敗北感に満ちた表情で、ラジアとエルビンを一瞥したのちに洞窟の外へ出て行きました。
 彼が完全に見えなくなったあとで、エルビンがラジアに向かって口を開きました。
「ありがとう」
「エルビン、王子なら王子らしく自尊心を忘れないで」
 ラジアはプラウテから手を離して、無いほうの腕の側のマントを整えながら言葉を紡ぎました。
「わたしは約束通り、トルステンを殺してあなたを玉座に着けるだけ。あなたもそれに見合った行動をするようにして。あんな鼠野郎に振り回されずに」

 ラジアが毒に満ちた話を終えると、すぐに背を向けました。
 そのまま行ってしまおうとするラジアの背に向かって、エルビンは再び呟くように礼を言いました。
「……ありがとう」
「礼なんて言わなくていい。こんな呪われた身体じゃなかったら、あなたを助けることなんてなかったんだから」


2-2-083R《涙の剣/Sword of Tears》
エルビンに忠誠を誓った兵士たちはひとり、またひとりと死んで行った。彼は涙とともに彼らに敬意を払った。

 ラジアは振り返らずに答えました。エルビンが泣いているのがわかったからです。


《アニル・ルーレシ/Anil Luleci》、

己を犠牲にして魔王の復活を防いだエルフを送り出すこと


「ごめんなさいね、セルヤ」
「仕方のないことです」
 《アニル・ルーレシ/Anil Luleci》は《シエナの種/Seed of Siena》を壊すために槌を取り上げました。
 《セルヤ・タスデレン/Serya Tasdelen》はアニルが自身の顔ほどの大きさの種の殻を壊して答えを取り出すのを静かに待っていました。


2-1-034C《住民裁判/Residents Trial》
「わたしは空腹です。シンプルに考えれば、生活のために彼女を食べるのが自然です」
「静粛に。あなたに罰を与えます」

「もう一度言うと、今回の裁判での結論では、あなたを追放することになった」アニルが口いっぱいに種を頬張りながら、ゆっくりと重く話を紡ぎました。「この話は、つまり迷路の森に二度と帰ってこられないという意味になる。本当に、それで良いというの?」
「構いません。住民会議を破って戦争に出たときから、覚悟をしていたことです」


2-1-035C《セルヤの決意/Resolution of Serya》
「あなたの慈悲深い判断を期待します、アニル。わたし、セルヤは森を出て、二度とシエナの土を踏まないことを約束します」

「……あなたの犠牲が魔王の謀略を防いだに違いないね。そして大陸の運命もまた救うことになる」
「ありがとうございます。あの黒い光の正体を必ず明らかにします」
 アニルは違う種を口に持っていきます。
「焦る必要は無いわ。ゆっくりと糸口を探して。まだ時間はわたしたちのほうにあるのだから。
 さあ、そろそろ入ってちょうだい。あなたが長く入っていると見つかってしまうかもしれないから」
「はい、わかりました。それでは住民裁判でまたお目にかかります」

 セルヤは丁重に礼をしたあと、退きました。彼女が消えると、すぐにアニルは小さく溜め息を吐いて蔓の向かい側にある杜の内に呼びかけました。
「バトゥー、あなたの助けがもう少し必要かもしれない」
「その話をするために呼んだのだろう」 《バトゥー・カヤ/Batur Kaya》がぶつぶつ言いながら乱暴に蔓を登ってきました。「おれももう歳なんだ。骨が折れる」
「五月蠅い。誰に前で歳を取った、だなんて文句を言ってるつもり?」
 アニルは食べたすべての種の殻を片付け、新しい種を代わりにテーブルに載せました。
 アニルが槌を振りあげると、すぐにバトゥーがその槌を取り上げて殻を破りました。
「あっ、内側に破片が入っちゃったじゃない」
「多少なら大丈夫だろう。それとも胃もたれでもするというのか?」
 わたしはあなたのように胃腸が丈夫じゃないの、とアニルは小さな口で種を噛み砕きました。
「文句を言いたいわけじゃない。それで、何が言いたいんだ」
 バトゥーが飛んでくる槌を避けながら尋ねると、アニルは種で頬をいっぱいに膨らませたまま本題に入りました。

「セルヤを助けて。たぶん、彼女は大陸中を回らなければならないかもしれない」
「戻ったばかりで、なぜおれが行く必要がある?」
「あなたには戻る家も無いでしょう?」
「……おれのことが嫌いなら、嫌いと言ってくれるかな?」
「シエリオンの実力者の中で、他人の耳目を避けて動くことができるのはあなただけなの。お願い」
「初めからそう言ってくれれば良いのに、なぜああいう言い方しかできないかな」
「怨恨がそうさせるのかもね」
「……立場がある間に身の振り方を決めるべきだったな。時間が経てば経つほどに歳をとる」
「あなたがさっさと老いて死んでくれれば良かったのに」
「それじゃあこうして話もできない」

 種の殻をすべてバトゥーに投げつけたあと、アニルは新しい種をテーブルに載せましたが、先ほど槌をバトゥーに投げつけてしまったことを思い出しました。
「バトゥー、槌を返してちょうだい」
「………」
 バトゥーは大きく溜め息を吐いたあと、槌を拾って来て種を割ってやりました。
「それで、おれがすべきことは、その黒い光に関する糸口を見つけるというわけだな?」
「うん。あれは危険だわ。あの力がなぜ再び現れたのか、それを知る必要がある」
「再び、だと? あの光が何か知っているのか?」
「神々の消失に関連するとだけ言っておくわ。もっとも、わたしが知っていることも限りがあるのだけれど」
「何千年もの昔の力だってことか。ふむん、いったいなぜそのような重大な任をおれやセルヤだけにに頼むんだ?」
「あなたたちだけで十分……、というか、いまはあなたたちのほかに人数を動かすことができないの」
「何かあったのか?」
 アニルは腹がいっぱいであることを示すように、家と葉でできた椅子の内側に深く身体を沈めて答えました。
「アイカンが目覚めたの」


2-2-102U《アニルの葛藤/Conflict of Anil》
「ダンタリオンが荒れ狂う理由を見つけなくてはならない。セルヤが黒い光のヒントを見つけてくれるはずだわ」

「アニル、あんたも目覚めただろう?」
「みんなは知らないでしょうけど……、わたしが休眠から起きる理由とアイカンが起きる理由は少し違うの。アイカンはわたしのようにシエリオンというシールの遺産の危機に反応して目を覚ますわけじゃない。アイカンはシエリオンじゃなくて、シエナの危険に反応して目を覚ますの」
「と、いうと……?」
「森が危険になるってこと。でも、わたしたちはいまのところ、その危険が外から来るのか内から来るのかさえわかっていない」アニルは疲れたようにそっと目を閉じました。「本当の危機はまだ始まってさえいないわ。でも、わたしたちはその予測さえできていない。きっと難しい時期が始まるでしょうね」




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