7-144U《霜が降りた記憶》
「これは俺が扱う中でも、一番ささやかな冷気だよ……だが吹きつける場所さえ選べば、あんたのすべてを奪うには十分だ。」
~厳冬将 ヴィクトー~

 空から下りるとともに叩きつけた剣は奇襲のはずだった。であれば、予期せぬ一撃で敵の首が落ち、肉と骨の塊が宙を舞い、脳の欠片を散らした男の首が霜を赤く染めていたはずだった。
 しかし現実はといえば《未来の聖砂王 メルファード》の刃に付着していたのは薄い霜氷だけであった。

「メルファード……、おまえ、戻っていたのか………!?」
 背後から聞こえる父、ラハーンの声には、明らかな疲弊の色が混ざっていた。疲弊だけではない。苦痛、絶望、そしてその中のほんのひと掬いの希望。
 千の剣王と称された剛力無双の父親が、弱かった息子の救援を受けたというだけでここまでの安堵を見せたことで、メルファードはむしろ緊張した。目の前の敵は、この父をそれだけ深い絶望へ追い落とすほどに強いということだからだ。

 父の負傷の度合いは気にはなったが、振り向くだけの余裕は無かった。メルファードは気を緩めず、剣を正眼に構えて目の前の敵を警戒した。
 見たところは、ロングコートを纏った、腹が立つくらいの優男。氷雪騎士と呼ばれる、ヘインドラのエリート騎士団員だ。そして彼が若くして将軍位を持っているということは知っている。それだけ有名だから。

 《厳冬将 ヴィクトー》。

 メルファードは己の柄を握る指先が凍え始めているのを感じた。この指で、この腕で、目の前の氷雪騎士と渡り合えるのだろうか。
 ティルダナの砂漠には霜が降りていた。通常ではありえないことだ。太陽の光を反射する砂粒は、凍り付いて、よりいっそう白く輝いている。そして霜が降りているのは砂上だけではなく、その上に倒れ伏す死体の上もだった。
 槍を持ったままのティルダナ兵士がいる。羽を逆立てたダルカがいる。瘤が潰れたラクダがいる。そしてティルダナの兵や馬だけではなく、明らかにヘインドラの兵とわかる寒冷装備の兵士たちも、等しく凍結死体と化していた。

 音が聞こえない。いや、何か定期的に、どくん、どくん、と音がする。耳がおかしくなったか、とはじめ思ったが、己の心臓の音が聞こえているのだと遅れて気付いた。
 このまま立ち尽くしていれば、先に倒れるのは氷雪術を真っ向から受けているメルファードのほうだ。だが剣を振りかぶったところで、振るうのは一撃が限界だろう。それが当たらなければ、いつものように剣を翻して防御はできない。氷雪騎士の術が、勇猛果敢に剣を振るうための体力を奪っているのだから。

 《未来の聖砂王 メルファード》は踏み込むとともに、構えた剣を凪いだ。修行と共に身に付けた不可避の剣には、しかしいつものように覇力は乗らず、《厳冬将 ヴィクトー》はその一撃を滑るように一歩下がるだけで避けた。
 反撃が来る。これこそ不可避だ。一対一ならば。

 轟音を伴った一撃とともに、氷雪騎士の剣が真っ二つに折れた。
「遅いぞ、ラムール兄弟………」
『小型艇で先行したのはあんたでしょう、大将。それにあんたが近くにいるから、十分接近しないと狙いが付けられなかったんですよ。さぁさ、下がってください』

 集音機と拡声器でメルファードと会話をするのは、鳥ではない。単なる飛行機ではない。ドラゴンではないし、もちろんスーパーマンでもありえない。
 これぞティルダナの技術の粋。ティルダナの神の御業。ティルダナの神髄。鳥より速く、ラクダより丈夫で、大サソリより危険な最強の船。
 この場に《西風の銀翼 ラムール兄弟》がいたら、そんなふうに啖呵を切ったことだろう。
 《吹雪の壁》を切り裂き姿を現した巨体は、ティルダナが誇る戦艦、《飛空戦艦 メル・アルタバール》その建造技術ももちろん、空中から氷雪騎士の長剣に命中させた乗務員の腕前も最高だ。

「アンカーっ!」
 負傷した《千の剣王 ラハーン》の巨体を抱えたメルファードが叫ぶやいなや、《飛空戦艦 メル・アルタバール》の側部船底から錨が射出され、砂上に突き刺さる。アルタバールの機関銃弾を氷の盾で叩き落すヴィクトーを尻目に、メルファードは錨に飛びついた。
「引き揚げろっ!」
 声が届いたとは思えなかったが、すぐさま錨は巻き上げられ始めた。《西風の銀翼 ラムール兄弟》の弟のほうは、臆病すぎるきらいもあるが、戦場の機微を察知する良い目を持っている。彼が引き上げてくれたのだろう。

「ああ、なんて重い親爺どのだ……」
 ラハーンを担いで船体へと戻ったメルファードは、その巨体を下ろしてから大きく息を吐いた。ラハーンの身体からは手にも足にも血が滲んでいるが、胸や腹に大きな傷は無い。おそらく、命に関わるような深い傷は無いはずだ。
 いや、今はそんなことを確かめている場合ではない。

「大将、ご苦労さまでした」
 と船底まで降りてきて手を叩いたラムール兄弟の兄に、「撤退だ」とメルファードは命令を発した。
「は?」
「全速力で撤退だ!」
「大将、何言ってるんですか。敵は残りひとりのようだし、いまは耐えているようですが、そのうち体力が尽きます。相手にはここまで攻撃する兵器なんて無いんですから、このままロングレンジから射撃を――」
 ラムール兄を説得する必要は無かった。まるで巨大地震が起きたように船体が震え、床が傾き始めたからだ。

「何が起きたんだ、弟よ!」
 ラムール兄が船底の通信機で慌ただしく操舵室と会話をする。
『兄貴、揚力が低下している! このままではストールする!』
 ストールとは航空機が揚力を失い、失速することだ。ただでさえ、メルファードらの救援のために速度を落とし、地上すれすれまで下りてきているのだ。十分に速度を得て上昇するまでは、いつでも失速の危険が付き纏うものだ、が、明らかにこの状況は異常だ

 窓がすべて凍り付いており、外部の状況は視認できない。が、それがすなわち解答だった。
 あの男、《厳冬将 ヴィクトー》という氷雪騎士の氷雪術によって戦艦周辺の空気が凍り付くほどに冷やされ、翼に氷が張り付いてしまったのだ。翼の形状は揚力を得るために特化しているが、その上に霜や氷が付着すれば、そのための機能が失われて揚力低下に繋がる。
「このままあの男の近くにいたら、霜だけじゃ済まない。液体燃料が凍り付くぞ!」
「いや、液体燃料の融点は-40度以下ですよ? キャブヒーターもありますし、圧縮熱で温度も上がっているのに、そんな、凍り付くだなんて……」
「ラムール、あの氷雪騎士と戦ったぼくにはわかる。あの男は……、召喚英雄並みだ」

 召喚英雄。その恐ろしさについては、長旅の中で《未来の聖砂王 メルファード》と《西風の銀翼 ラムール兄弟》の共通の認識となっている。
 太った兄が真剣な表情で頷き、船首の弟へと撤退指示を飛ばす。

 撤退が始まる最中、メルファードは霜が降りた窓越しに霜で覆われた砂漠を見下ろした。風景は歪み、そこにいるはずの氷雪騎士の姿は見えなかったが、メルファードは背筋が凍るような冷たい眼光を感じ、恐怖せずにはいられなかった。



「ミューちゃん。にいさまが……、にいさまが最近おかしいの」

 まず、《青氷の神軍師 ミュシカ》のことを「ミューちゃん」と呼ぶのはひとりしかいない。
 いや、ちゃん付けながらわりとあり、ヘインドラ霧氷の王宮の執務室の机で突っ伏して寝ていたミュシカの背に抱き付いて親しげに声をかける人物も少なくは無いのだが、その場合は殆ど「ミュシカちゃん」であり、「ミューちゃん」はない。だから、「ミューちゃん」はひとりだけなのだ。
 そしてその人物が「にいさま」と言えば、《厳冬将 ヴィクトー》以外にはいないのだ。

「エっちゃん、ちょっと……、あの、あとでもいい?」
「駄目」
「眠いんだけど……、仕事もあるし」
「うん、でも、いいでしょ?」
 そう言って小首を傾げる様子は、凍てつく魔風で敵兵を凍らせる《凍える魔風 エルダ》と呼ばれた氷雪騎士とは思えぬほどに可愛らしい。
 エルダのほうが少し年上だが、見習いを除くと官憲の中でミュシカとエルダは飛び抜けて若く、歳が近い。尊敬している家族が軍に所属している共通点もあり、友人同士の関係だ。無下にはできない。ミュシカはここ最近の忙しさの原因である戦争関連の書類をファイルに収めて奥に押しやった。

「で、なに?」
「ミューちゃん、忙しかったんじゃないの?」
「エっちゃんがあとじゃあ駄目って言ったんでしょ」
「うん、ありがとう」
 とエルダは礼を言って、にっこり笑った。たぶん、いちおうのところの遠慮をしていたのだろう。ミュシカは彼女に椅子を勧めてやった。
「あのね、ミューちゃん。最近、にいさまがおかしいって思ったこと、無い?」
 ヴィクトーだったらおかしくなかったことはない、と言おうと思ったが、さすがに彼の妹に対して言う言葉ではないので、やめておいた。
「最近は将軍職に就いたから、忙しいと思うけど……、何かあったの?」
「なんだか最近は殆どお話してくれないし、部屋にも入れてくれないし……、それに、最近は一緒に出撃していないのだけれど、にいさまの部隊の死傷者が異常に多いらしいの。だから……、何かあったのかと思って」

 エルダがヴィクトーと共に出陣させないようにしているのは、実をいえばミュシカである。
 ヴィクトーがもともと変わった人物だったというのは兎も角として、最近になって豹変したというのはミュシカにも頷けるところだった。メルク氷海への探索航海以後、《アーネスト・シャクルトン》の力を利用して《フロストクラーケン》を倒したのをきっかけにしてか、彼の氷雪術は恐ろしく強大になった。
 その結果として、戦争そのものは有利に進められるようにはなったものの、彼の氷雪術によって味方の部隊さえも被害を受けることが多くなったのだ。
 《凍える魔風 エルダ》の友人であるミュシカは、彼女が兄の氷雪術の被害を受けぬように、と手を回していたのである。

 とはいえ、そこまで正直に事を伝えるつもりは無い。ヴィクトーの様子がおかしいのを知りながら、それを放置していたことを伝えることにもなってしまうからだ。
 ヴィクトーがおかしい。異常だ。それは、ああ、その通りだ。探検から帰還し、《厳冬将 ヴィクトー》の二つ名を受けてから、彼はこれまで以上に人を寄せ付けず、頑なになった。

 それでもヴィクトーのことを放っておいたのは、彼が強くなったからだった。

 たった一人で戦況を覆すことが可能な兵士。いや、兵器といって差し支えが無いほどの戦力は、これまでの召喚英雄に相当するほどの影響力を見せていた。
 だがその結果として、友人を蔑ろにしていたのかもしれない。
 探検隊に参加している間に降り積もった仕事で、ミュシカはここのところ殆ど忙殺されていたようなものだった。だから、友を利用してしまっていた。が、それは間違いだった。エルダに相談されて、ミュシカはようやくそう思うことができた。

「ミューちゃん、女王さまから何か聞いていない?」
 ミュシカは首を振った。聞いていないし、そもそもヴィクトーの変化は霧氷の女王によるものではないかという気がしていた。上手く言葉では言い表せないが、探検隊が出発する前に女王が示唆していたことが、まさしくヴィクトーの変化を表しているような気がしたのだ。
「女王は何も言わないと思う。それに、たぶん訊かないほうがいいよ」
「そうかなぁ……、それじゃあ、うーん、どうしよう。今はにいさま、ティルダナに戦争に行っていていないの」
「エっちゃん、探検隊が帰ってきたあとで、ヴィクトーさんの部屋に入ったことはある?」
 とミュシカは少し逡巡してから尋ねてみた。
「ううん。無いよ。にいさま、前からあまり部屋には入れてくれないもの」
「……ぼくは、ヴィクトーさんの部屋を調べてみるのがいいと思う。探検隊から帰還したあと、ヴィクトーさんは女王からふたつ褒美を貰ったって聞いた。ひとつは厳冬将の称号だけれど、もうひとつが何なのかは知らない。もしかすると、何かヴィクトーさんの心を惑わすようなものを与えたのかもしれない」
「悪いのは女王さまってこと?」
「いや、そこまでは言ってないけど………。えっと、いちおう訊いておくけど、そうだったらどうする?」
「逃げるよ。亡命する。にいさまと一緒に。あ、ミューちゃんも一緒にね」
 エルダは少し思い込みが激しいところがあって、考え方も極端だ。一度女王が悪人だと認識したら、何を仕出かすかわからない。彼女を放っておくわけにはいかない、とミュシカは思った。

 もうひとつ考えたのは、事はそう簡単ではないかもしれない、ということだ。
 女王が悪人で、ヴィクトーの心を操っている、と考えるのは、お伽噺めいていて、あまりに都合の良い妄想な気がする。ヴィクトーほどの氷雪術の使い手の心を魔法で操るのは容易なことではないし、操られていると本来の精神との競合によって、どうしても戦闘力が低下するものだ。それなのに、戦争時のヴィクトーはむしろ強くなっており、操作されているのとは真逆だ。
 そう、むしろ、ヴィクトーは強くなっているのだ。女王から、いったい何を受け取ったのだろう? 何を得たのだろう? それは、探検の中で《フロストクラーケン》と対峙した際に見つけたのではなかろうか。己の欲を。己を満たすものを。

 鍵を抉じ開けて忍び込んだ凍てつくヴィクトーの部屋で、ミュシカとエルダは見つけた。彼の心を満たしていた、氷柱に閉じ込められた女を。どこかティルダナの聖夜姫にも似た、ミュシカにも見覚えがある、セイレーンの少女を。


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