ブロセリアンドの黒犬/04/10 《ニルヴェスの邪光》
3-024U 《ニルヴェスの邪光》 |
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「ああ、あれは破滅の光だ……地獄が白き光で覆われていることもあるなどと、知りたくはなかった……!」
~ある聖騎士の最後の言葉~
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女は石造りの壁に嵌め込まれた鉄格子から、外を見ていた。草木も眠る刻限であるだけ、明るいのは月ばかり、囁くのは風ばかりであった。
(おなか、痛いな………)
牢の向こうに視線を向ければ、木造りのテーブルに突っ伏して、牢番が眠っている。牢番の腰には鍵束が下がっているのだから、この牢の鍵もその中にあるに違いない。あの鍵束までどうにかして手が届けば、この牢から出られるだろう。
だが女は何の行動も起こせなかった。
ひとつには、単純に牢から反対側の壁際にいる男の腰のものを取る方法が思いつかなかったから。牢屋なのだから、そんな方法があるはずがないのだが。
もうひとつは、牢を出たところで行く当てもなく、そもそも牢を出たからすべてが解決するような問題ではなかったから。
だが最大の理由は、男に近づきたくはなかったからだった。
(怖い………)
男という存在を、女は恐れていた。最初から恐れていたわけではない。
神から授かった力があれば、あらゆる害は跳ね除け、恐れるものはひとつとして無いはずだった。だがその力は、《邪光の獣 ニルヴェス》を倒す過程で、いつの間にか失われてしまっていた。
今となっては、あらゆるものが害だった。あらゆるものが恐怖だった。
その中で男こそがいちばん怖かった。辛かった。何より、痛かった。
《ジャンヌ・ダルク》は顔を伏せ、ただただ泣いた。嗚咽を聞くのは夜だけだった。
*
エルトラはごくりと生唾を飲んだ。緊張していたというのもあったが、飛雷宮の巫女の白い脚が目に痛かった。
「ベルトランどのの様子はいかがですか………?」
巫女の問いかけは、何度も為されたものであり、エルトラが問いかけと同じ回数だけ飛雷宮に足を運んでいた。
ゼフィロンでの飛雷宮という場所は、王城、いやそれ以上に貴い場所であり、その巫女となれば、一介の兵士に過ぎないはずのエルトラには、その顔を見るだけでも失礼とされるような立場の違いがあるのに、これだけ話を乞われるのは、それだけ巫女がベルトランに関心があるからだろう。
巫女はこれまで、いろいろと形を変えてベルトランについての質問を行ってきたが、その内容を突き詰めると、こういうことだ。
「なぜ、ベルトランはゼフィロンに味方をするのか」
《ベルトラン・デュ・ゲクラン》はゼフィロンの召喚英雄だ。だからゼフィロンに味方をするのは当然だ。
その考え方の根底には、召喚英雄という立場の曖昧さとザインの使徒による介入がある。異世界の魂を用いて再構築された召喚英雄は、神を奪われた状態でアトランティカに産まれ落ちる。彼らは信仰の対象を失い、そしてそれぞれの国でそれぞれの国が信仰する神を、その神の代わりとして与えられる。つまりゼフィロンなら、シグニィだ。
だがベルトランの場合は、彼と同じ世界の、おそらくは同じ国、同じ時代の出身である召喚英雄、《ジャンヌ・ダルク》に会ってしまった。偽りの神、偽りの信仰を知ってしまった。ヴェスという神を知ってしまった。
もちろん、グランドールにしたって、《ジャンヌ・ダルク》に対しては偽りの信仰を押し付けているに違いないのだろう。だがそれでも、シグニィよりはまだしも、ヴェスのほうが彼らの信仰していた神に近いらしい。
何より、ベルトランはなぜか《ジャンヌ・ダルク》のことを信奉していた。それは、ジャンヌの召喚英雄としての魔力のようなものだったのかもしれないが、兎に角、ベルトランがゼフィロンに味方をする理由は無くなったはずだ。
にも関わらず、ベルトランはゼフィロンのために戦い続けた。グランドールとも戦ったし、災害獣との戦いでは前線に立った。ほかにも数えきれないほどの戦線に赴き、勝利を捥ぎ取ってきた。
なぜ、戦うのか。
なぜ、ゼフィロンに味方するのか。
なぜ、《ジャンヌ・ダルク》のところへ行かないのか。
エルトラは実際に、それらの疑問をぶつけてみた。
「うーん、確かにジャンヌさまのほうが正しい気がするんだけど……」尋ねられたとき、ベルトランはそんなふうに言ったものだ。「だからって、ヴェスって神さんがおれの知ってる神さんと同じかっていうと、なんか違う気もするし」
「でも、シグニィよりは近いのでしょう? ではなぜ、ゼフィロンに?」
「ま、それは、あんたらにも世話になったからな。こっち来たばっかりの頃とか」
ベルトランの答えは単純だった。世話になったから。つまり、ただの義理だ。
「成る程、義理」
ゆっくりと飛雷宮の巫女はエルトラの言葉を繰り返す。エルトラには、彼女の感情の色は汲み取れなかった。
沈黙が落ちる。
「《ベルトラン・デュ・ゲクラン》という方は難しい方です」
もう出て行ってよいのか迷っていると、巫女が口を開いた。
はい、とも、いいえ、とも言えず、エルトラは先を待つ。
「物欲は相応にあるようですが、金を欲しがるでもない。食い意地は張っていますが、食事を出されても当たり前のような顔をしている。ですがいちばん問題なのは、女のことです」
巫女が言いたいことがどういうことか、エルトラにはわかった。
召喚英雄にありがちなことに、当初ベルトランには女があてがわれていた。身の回りの世話も、雑多なことどもも、事務処理も、あるいはそれ以上のこともしてくれる女だ。
だがベルトランはその女に一度たりとも手出しをしなかった。
といっても、彼が女嫌いだとか、男色家だとか、そういうわけではないらしく、単に女性の前だとあがってしまい、何もできなくなるらしいのだ。
「そんなので、どうやって結婚したんですか」
とエルトラは尋ねてみたことがある。
返答を聞いて、納得した。
《ベルトラン・デュ・ゲクラン》40歳を過ぎようとしている年齢にも関わらず、未だ童貞であった。
しかしそうした単語が、改めて巫女の艶やかな唇から紡がれるというのは、何やら背徳的というか、異様な色気を感じてしまう。
「彼に忠誠を誓わせられれば、今後は楽になるのですが、ね」
巫女がそう言ったときである。飛雷宮が急に騒がしくなった。足音。騒めき。罵声。
エルトラは巫女を守るために身構えかけて、聞き覚えのある声が混じっていることに気づいた。
巫女の祭室の両開きの戸が、勢い良く開かれる。押し止めようする《飛雷宮の衛士》を引きずって入ってきたのは、《ベルトラン・デュ・ゲクラン》であった。
「お、エルトラがいる」とベルトランはエルトラを見るなり、ずんずんと部屋の中に入ってくる。「ちょうどいいや、巫女さんってのはどこにいるんだ?」
エルトラは黙って、巫女の隠れている薄布のほうに視線を向けた。そこから伸びる白い脚に、ベルトランも気付いたらしかった。
「あんたが巫女か」
わかりきっていたことだが、ベルトランの彼女に対する口調は、礼節を欠いたものだった。エルトラは窘めようとしたが、どうせ無駄だと思って、成り行きを見守る。
「その通りです。ベルトランさま、こうして顔を合わせるのは初めてですね」
「顔が見えねぇんだけど」
「ご用件はなんでしょう」
と巫女が無視して問えば、ベルトランも顔が見えないことには頓着しないようだった。用件を切り出す。
「ジャンヌさまを助けたい」
《ジャンヌ・ダルク》。
グランドールの召喚英雄であったはずの女は、いまや犯罪者として扱われていた。
容疑は災害獣との内通であると言われてる。グランドールの災害獣、《邪光の獣 ニルヴェス》との戦いの際、《ジャンヌ・ダルク》は敵に一切狙われることがなく、また不穏な動きをした結果、《聖王子 アルシフォン》の死の原因となったらしい。そのことから、彼女は英雄ではなく魔女とされ、投獄されて神聖裁判を待っている状態だ。
(おそらくは、処刑されるだろうな)
グランドールは現在、一種の恐慌状態にある。《聖王子 アルシフォン》が死んだ責任に対する矛先を、どこかに向けなければいけない状態なのだ。だからジャンヌの裁判は、まさしく魔女裁判になるだろう。
そのジャンヌを、助けたい。ベルトランはそう言った。
「左様ですか」
と巫女は落ち着いて答える。
「あんたはこの国の王さまみたいなもんなんだろ? どうにかしてくれよ」
「巫女は王とは違います。ただ、シグニィからの託宣を告げるだけの存在です。だから、彼女に関しては、少しわかることもあります。
《ジャンヌ・ダルク》という女は、どうやら元の世界でも面白い運命を辿っているようです。具体的なことはわかりませんが、おそらくは、彼女の死は既にクロノグリフに記述されている内容でしょう。どんなことがあろうとも、その記述が書き変わらぬ限りは、《ジャンヌ・ダルク》の死は揺らぎません」
「ジャンヌさまが死ぬのは避けられないっていうのか」
「そのようにクロノグリフに書かれたのであれば」
「死ぬのは、《ジャンヌ・ダルク》っていう女だろ?」
「え?」
「作戦があるんだ。おれの作戦に乗ってくれりゃあ、ジャンヌさまを助けられる。ジャンヌさまが協力してくれれば、あんたらも嬉しいだろ。だから、協力してくれ」
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