アマランタインに種実無し/07/02 Calling Dr.Grout-2

 真っ暗な部屋の中で、男がクローゼットの中に身体を縮めて隠れていた。


 Skylineアパート、2階。エレキギターを象った豪奢な照明やワインセラーの中の酒は、暗闇から身を守るには不十分だ。
「あんた……、あんたは、あの病院にいた――!
 お、おい、テレビクルーはどうなっていたんだ?」
 恐怖で歯の根が合わない男の問いかけに、Azaleaは簡潔に答えた。「死んだ」
「死んだ!? じゃ、じゃああんたは何をしに………」


 Azaleaは決断をしなければならなかった。
 マスカレード――吸血鬼たちの仮面舞踏会の掟に従い、彼を殺すか。それとも、背いて生かすか。



「うわぁっ!」

 悲鳴の元を確かめるために廃病院の中に入ったAzaleaは何者かにぶつかって尻餅をついた。暗い病院の中で突如として現れた相手に対し、いつもなら悲鳴のひとつでもあげていておかしくなかっただろうが、今回に限っていうと、ぶつかった相手のほうがより大きな、情けない声をあげたため、Azaleaは冷静に物事を見ることができた。

 油で撫で付けた髪型に青い瞳。焦げ茶色のチノパンとジャケットで、胸のところには頭に渦巻き模様を描いたロゴがあり、その下に『Haunted L.A.』とあった。軽薄そうだな、というのが第一印象以上の感想をもたらさない容姿であった。

「あ、あんた……、あんた、あんたは人間か!? 人間だな!? おい、そこを退け!」
 尋常ではない様子を見れば、この奥で何事かが起きたのは幾つか想像ができるのだが、Azaleaは廃病院の入り口に陣取ったままで先を促した。


「テレビクルーがやられたんだ」と男は説明を始めた。「おれは……、超能力研究者だ。『Haunted L.A.』の。ああ、くそ、いつもはちゃちな都市伝説とか怪談をでっちあげて取材しているんだ。だがあそこにいたのは……、くそっ、やつが来る……」
「やつ? どんな容姿ですか?」
「女だよ。化け物だ。くそう、おれにはよく見えなかったが……、早く退け!」
 男が伸ばした手でAzlaeaは突き飛ばされてしまった。吸血鬼になったというのに、身体能力は殆ど向上してくれないのだから、尻餅をついたまま男の逃げる姿を見送るのも仕方が無いというものだ。

 Azaleaは立ち上がり、少し考えた。中にはまだ彼のほかにテレビクルー――『Haunted L.A.』とかいうオカルト番組の――がいるらしい。考えるのは、彼らが未だ生きているか、ではなく、死んでいるかどうか、であった。もう少し詳細を述べるなら、Azaleaのことを見たか、あるいは死んでいるかどうか、だ。見ていないならそもそも生死は問題無い。
 廃病院の外でAzaleaが血を吸っていたときにこの廃病院の中で悲鳴があがったのは間違いないのだ。先ほどの男は、化け物を見たとか言っていたか。女の。
 はたしてそれはAzaleaなのか、それともまた別の吸血鬼がこの廃病院の中にいるのか。彼らが見たのはどちらなのか。あの男が病院から逃げ出そうとしたことや、病院の中に入って来たAzaleaに殆ど無警戒だったことを考えれば、おそらくは後者なのだろうが、前者だったら、と思うと恐ろしい。正体を知られるわけにはいかないのだ。

 Masqueradeの掟。吸血鬼が人間の世界に溶け込むための掟は、Prince LaCroix率いるCamarillaによって敷かれている。掟を破ったところで、Camarillaの兵が対処するのだろうが、法を犯した吸血鬼にも同様に処罰があるだろう。
 Azaleaは怖い。LaCroixが。一度は生き長らえた命がもう一度失われることが。こんなにも、どうにもならない人生でも。

 だから、もしAzaleaの吸血行為を病院の中から覗いていたものがいたとしたら――。

 廃病院の中にはところどころ、破壊や暴力の跡があり、そのすべてが過去のものではないことは、扉越しにテレビクルーらしき若者の頭がペーストのように潰されたとき、Azaleaは悟った。己の正体を見ていた人間はいなかったということを。いや、もしいたとしても、いま死んだということを。


 最深部にいたのは、ひとりの女だった。女と男、いいや、やはり女だけだ。男のほうは、もう死んでいる。でなければ、女が男の胸の肉を齧り取ったときに悲鳴のひとつでもあげているべきなのだから。

「真の恐怖は死ではない。正体不明であることが恐怖だ」女は吐き捨てるように言ったあと、無警戒にAzaleaに向き直った。「これはこれは……、お仲間だな」
「仲間?」
「あなたは生きるために血を吸う。わたしは生きるために肉を喰らう。少し違うが、似たようなものだろう?」
 Pishaと名乗ったその血族は古風な喋り口で、230歳であると主張した。
「久しぶりに訪ねて来てくれた同族だ。歓迎したいところだが……、少々面倒事が起きていてね。先ほど食った男の仲間なんだが、あなたがこの病院の入り口のところで出会ったあの男だ。わたしのことを見たようだ。少し知り過ぎたな。対処する必要があるんだが、あなたがやってくれないか? 外歩きは得意ではないんだ」


「対処……?」
「死体は自由に処理していいぞ。肉を持ってきてくれれば、それはそれで助かるけど」
「殺せっていうの?」
「うん……? だって、あなたももともとは口封じにこの病院に入って来たのだろう?」

 そうだ。
 Azaleaは、これまで何人も人を殺してきた。Santa Monicaで、Downtownで、船で。


 病院の受付に名刺が落ちていたため、男が逃げ出したであろう自宅はすぐにわかった。
 名前、Simon Milligan。
 住所、Skylineアパート, Apt. 1, Downtown Los Angeles, CA。

 そしていま、男を見下ろして立っている。



「残念だな」
 廃病院に戻って来たAzaleaを見るなりPishaがそう言って肩を竦めたのは、Azaleaの表情から察しがついたのか、それともAuspexに似た千里眼によってAzaleaの動向を監視していたのか。

「あの男は、逃がしました」


「警察にでも駆け込むだろうな」
「そうかもしれません」
「厄介なことだ」
 そう言って溜め息を吐き、天を仰いだPishaが急にこちらを一瞥したため、Azaleaは身構えかけた。
 が、それは杞憂だった。

「ま、いい。あれのことはあとで考えるとしよう。悪いが考え方を異とする者を歓迎はできない」
「……わたしを殺さないの?」
「どうしてだ? 血族同士で争う理由はないだろう?
 それよりもあんた、気をつけたほうがいいだろうな。今回のことはわたしの問題だが、人間にあんまり肩入れしてマスカレードの掟を破っていると、執行者が粛清しに来るかもしれないから」
 彼女の声調は脅しでもなんでもなく、言葉通りにAzaleaを心配する色があった。それで、気付いた。彼女は人間と血族とを、まったく別の生き物と見ているのだろう。だから人間を殺すことに躊躇が無い。人間が虫を殺すことに躊躇しないように。逆に、同族殺しは簡単にはしない、というわけだ。

 廃病院を出たAzaleaは、己の腕を擦った。寒かった。腕は冷たい。足も。どこもかしこも。吸血鬼になったあの日以来、ずっと。
 Pishaは化け物だ。血族なのだ。だがそう思えばそう思うほど、自分も同じく吸血鬼なのだということが心に重く圧し掛かった。

 外では雨が降り出していた。



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