小説ラスクロ『太陽の鴉』/時代1/Turn1《陽炎の精》


「いかような理由から、烏が光の象徴になるのですか」
「黒点として太陽の光から現れ、この地上に舞い降りるからじゃ」
「ですが、空を飛ぶのは他の鳥とて変わりありません」
「他は空にあってはくろいが、地上に降りるや、たちまち色を帯びてしまう。偽物ということじゃ。烏だけが太陽に抱かれるときも、この地上に舞い降りたときも、その黒い色が少しも変わることがない」
 佐藤 賢一, 『カエサルを撃て』, 中公文庫, 2004. p398より



7-066U《陽炎の精》
すべてが儚く消えても、痛みは残る……人生と同じさ。

 雨が降ると、いまでも胸や臍の下あたりが痛むので、指の先で揉んだり摘まんだりする。これくらいなら発情期があった頃よりはマシだ、と己に言い聞かせながら痛みの発する部位に触れているといくらか楽になる。
 いや、あのときは発情期だったからというよりは、単に心に受けた衝撃が強かったせいだろうか。精神の針が肉体に突き刺さっていた。返しがついた鉤針が骨を抉り、肉を削いでいた。そのせいだ。

 城の研究施設からの帰路、黒オセロテ森は秋口の色に染まりつつあった。とはいっても大部分の樹は黒オセロテの耳の色と同じようなくすんだ葉を持つ常葉樹ばかりなのだから、季節の変化は視覚ではなく聴覚に訪れる。オークの吟遊詩人のような音をたてる夏の耳障りな虫たちが姿を消し、風に似た音が奏でられるようになった。
「秋は……、8回目か」
 独り言ちてきた時間とともに、身体の傷は癒えた。心も。
 いや、心を癒してきたのは時間だけではなかった。

「シェネ、お帰り」
 貴族とはいえ、小領地の長であり、しかもその土地は戦争で疲弊していて、未だ何年も前の荒れ果てた建物が手付かずで残っているような村である。閑散とした中に田畑と高床の木造家屋があるばかりで、シェネの家も長の家といってもほかと変わるところがない平屋の小さな家だ。
 だがその家に帰るだけで声が返ってくるというのは何にも代えがたい幸福で、それに魚と香草が焼ける匂いが漂ってくるのだから、なおさらだ。

 8年前、シェネは臓器と右目と尊厳と息子を失った。
 その理由を、戦争だ、なんて簡単に片づけることはできない。
 確かにティルダナとは戦争中だったし、黒オセロテ小領地の森に火を点けたのはレーテ領に侵入していたティルダナ兵だった。
 だがティルダナ兵が黒オセロテの森に入ったという報を聞いたとき、その場に駆けつけようとしなければ、死に別れた夫の唯一の忘れ形見である息子から目を離さなければ、自分が思い上がらなければ、ひとりではろくろく出歩けもしない息子は焼けた柱に潰されることは無かっただろう。
 結局、子どもが死ぬときは、いつだって責任があるのは母親だ。

 しばらくは自分を責めた。死のうかと思った。そのたびに周囲の人間が止めた。
 そうなるたびに、自分は誰かに止めて欲しくて死ぬふりをしているだけではないのかと思うようになった。シェネには立場があった。オセロテの貴族としての。だから、自殺など止められるのは当然のことだったし、予想ができたことだった。自分が情けなくなった。

 だから、シェネは戦場に積極的に身を置くようになった。誰にも止められずに死地に赴くために。その際に、ひとりでも多くのティルダナ人を道連れにできるように。
 二人目の息子に出会ったのは、その戦場で――いや、正確には戦場跡地でだった。

「なに?」
 シェネが後ろから抱きつくと、息子は不満げな様子で行為の理由を尋ねてきた。
 あれから8年
 10歳に満たない年齢で、生きることさえも覚束なかった幼子は、年齢相応に成長していた。いや、それ以上だ。筋骨逞しく、上背があり、喉仏が尖っている。広い口から発せられる声が低ければ、それは精力的な男らしさを感じさせる。
 だが実際は十代半ば。他人より早熟というだけで、まだ若い。いや、シェネにとってしてみればまだまだ幼過ぎる。

「家に帰るとご飯ができているというのは、良い」とシェネは笑ってみせた。
「おれが仕事に行くようになるとそうも言ってはいられなくなると思うけどね」
 シェネは唇を尖らせた。「騎士なんてやめたほうがいいと思うよ。男の子はみんな憧れるけど、危ないし、野蛮だし、もっと生産的な仕事にしたほうがいいのに。ケーキ屋さんとか」
 彼はシェネとは違い、人間なので成長してしまえば黒オセロテより体格が良いし、人より早熟なので運動でも村仕事でも人に負けるということが無かった。言ってしまえば挫折を知らない。それなのに優しいのだから、さすがわたしの息子だ、育て方が良かったな、などとシェネは胸を張りたくなってしまう。
 実際のところ、彼が大人びているのは一度大事なものを失っているからだろう。シェネが腹を痛めて産んだ子を失ったのと同じように、彼も両親を失っている。
 だからこそ、シェネは息子のことが心配だった。これまでは城で魔戦技の研究をしているシェネに代わり、家事をしながら黒オセロテ森の内政も手伝ってくれていた彼のことが。優しくて、かっこよくて、だから不満があるとすればふたつだけなのだ。
 ひとつはシェネのことを母と呼んでくれないことで、これに関してはシェネにも非がある。親を失って戦場にいた彼に対し、急に「わたしをママと呼べ」だなんて言えなかったのだから。だからそれは、仕方が無い。
 もうひとつの問題は、だから彼が無理をし過ぎることだけなのだ。

 息子が騎士叙勲を受けてからというもの、シェネは祈る回数が増えた。
 どうか無事でいてください。わたしの心。わたしの愛。わたしの宝物。わたしの愛しい……ゼスタール、と。



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