小説ラスクロ『太陽の鴉』/時代2/Turn3《魔戦技の異端姫 シェネ》


 そのころは、どこにも山がなく、太陽は沈まず、雨は降らず、風も吹かなかった。ワタリガラスはふたりに乾いた苔で寝床の作り方を教えた。じぶんは仮面をひきおろして、鳥のかたちで眠った。いちばん早く起きると、小川にゆき、トゲウオ、カワヒメマス、ブラックフィッシュ(ウシヅラ科の淡水魚)を二匹ずつ作った。人間が起きて、見にくると、ワタリガラスは、カワヒメマスは山の小川、トゲウオは海岸でみつかり、どちらもいい食べ物になるよと説明した。ついでにトガリネズミを作り、これは食べ物にはならないが、土地を活き活きさせておくのによいといった。
宮岡 伯人, 『エスキモー―極北の文化誌』, 岩波新書, 1987.『ワタリガラスの創生』p38より 




9-082R《魔戦技の異端姫 シェネ》
オセロテ族の中での居場所を失ってまでも、ゼスタールに付き従うことを選んだ……それが彼女たちが背負った宿命だ。

 肉が焼けていた。

 どんな肉でも、油が弾けて音を立てているときは人肉が焼ける戦争を思い出してしまう。そういうときは一度深呼吸をして、肉に向かい合ってみることにしている。
 人の身と調理用の肉は、結局は同じで、では戦争のときになぜあんなにも不快なのかというと、ひとつには人が雑食だからというのもあろうが、より大きいのは直火だからだろう。牛や豚の肉だって、直に火を通して焼けばすぐに焦げ、その匂いは腹を殴りつけるようなものになるはずだ。したがって、適切に調理さえすれば、それは胃袋を掴むものになるはずなのだ。

「質問いい?」
 油の張られた鍋を前にして腹に気合いを入れながら、《魔戦技の異端姫 シェネ》は小さく手を挙げた。
「なんだ」
 と短く答えたのは緋色のコック帽を被った右目のところに傷がある男だった。言葉には僅かに訛りがあり、浅黒い肌も相まって、異国の情緒を感じさせた。
「この油って、どのくらいにすればいいの?」
「中温だ」
 とやはりコック帽の男の返答は端的だ。
「中温って、どのくらい?」
「菜箸を入れて気泡が出る程度だ」
「それって、具体的には何度?」
「知らん」

 鍋の油の中に沈められた挽肉と筍とピーマンは、男が握るおたまで掻き混ぜられたのちにすぐさま笊で引き揚げられた。
「あ、もうあげちゃうの? でもまだ完成じゃないでしょ? いま油に入れたのって、なに?」
「油通しだ」
「どういう意味があるの?」
「水分を抜く」
「それだけ?」
「火が均等に通る」
「あとは?」
「知らん。そういうものだ。黙っていろ、小娘」
 にべもない返答を返した《獄炎の料理人 ウォン・ガ》は、油から引き揚げた食材をフライパンに入れ、調味料を入れてかき混ぜた。皿に上げて、どうやらこれで完成らしい。
 小娘という表現で形容されるのは久しぶりで少しだけ胸が高鳴ってしまったが、皿に盛りつけられた料理の香りは、シェネの心をより動かした。さすがプロは違う。

「シェネ?」
 投げかけられた男の声に振り向くと、食器だの食材だのが入れられた箱や瓶で山積みの厨房の入り口に、《魔血の破戒騎士 ゼスタール》が立っていた。
「ゼスタール。どうしたの? お腹減ったか? ご飯はもうすぐだよ」
「いや……、賑やかだったから」
 見にきただけ、と言ってゼスタールは僅かに笑んだ。ここのところ、張り詰めているばかりだった頰が緩んだので、シェネも思わず笑顔になってしまう。
「シェネ、何をやってるの?」
「ご飯を習っているのだ」と言いながら、シェネはフリル付きのエプロンの裾を振ってやった。「やることないから、暇だしなぁ。折角中華を習えるチャンスだもの。このぶんだと、帰った頃には目茶苦茶レパートリーが増えていること請け合いだぞ」
「そうだと良いね」
 そう言ったときのゼスタールの表情は、一瞬前と違ってどこかぎこちなく、疲れた色が見えた。

 ゼスタールが出て行ってしまったあと、シェネはウォン・ガの調理や盛り付けを手伝った。食堂に料理を運び、電送筒で船内中に昼餉の時間であることを告げ、食堂に戻った。
 背が低く、耳を忙しなく動かしてぶつからぬよう、両手に持った皿から料理を零さぬようにしているのは黒オセロテだ。ふゆふよと天井近くを漂いながら、好みの料理を探しているのは《夢魔の切り込み隊》らサキュバスだ。落ち着き払った所作で確保していた料理を口に運ぶのは、レーテの夢魔女だ。
 みな、ゼスタールのためにレーテという国を離れて《魔導戦艦 ゼスタナス》に乗り込んだ。シェネは知らなかった。ゼスタールが騎士として働きながら、友を、仲間を増やしていたという事実を。だからどちらかといえば内気で、優しすぎるくらいの我が子が、こんなにも他人から愛されていることを知ることができたのは嬉しかった。
 だが《魔導戦艦 ゼスタナス》を、彼らを指揮する当の本人、ゼスタールはいつまで経っても食堂にやってこなかった。

 シェネは料理を二人分、包んで動力昇降機に乗り、それから慎重に片手で梯子を登って甲板まで出た。
「ゼスタール!」
 大声でその名を呼べば、シェネが切ることを惜しんだために伸びっぱなしになっていた銀髪が翻ってこちらを向いた。
「ご飯だよ。天気は悪いけど、ここでお弁当にしようか?」
 そう提案してやると、ゼスタールはしばらく逡巡してから頷いた。

 この《魔導戦艦 ゼスタナス》でレーテを出奔してから、およそ一ヶ月。ゼスタールは何かに悩んでいるらしかった。
 悩むのは当然だ。この船に乗っている者の中で、己の立場を、これからの行く先を悩まぬ者は、眠りっぱなしのサイクロプスくらいなものだろう。
 ゼスタールが他の者と違うのは、彼が他人に物を相談できない立場をであるという点だ。レーテの支配者、《慟哭城の主 パルテネッタ》への反勢力を立ち上げたのは彼であり、いまやゼスタムと呼ばれる組織のリーダーなのだから。
 そう、だから……、ゼスタールにたくさんの友や仲間がいるというのは、半分間違いだ。彼には仲間がいて、しかしそれは友ではない。信奉者だ。慟哭城の主とは意を反する者たちにとっての希望で、だから心を許せる友人ではないのだ。
 上に立つ者は常に孤独だ。黒オセロテ森の小さな村の長であったシェネは、僅かながらその孤独について知っている。知ってはいたが……、手助けしてやれなかった。《沈黙の黒牙 ザ・ジ》や《獄炎の料理人 ウォン・ガ》のような一部の気心が知れた者を除き、人の前では「ゼスタールさま」などと呼んでいるのだから、笑えてしまう。

 料理の皿を甲板に広げる。空は暗く、太陽は見えず、雷鳴が轟いている。せめて空が明るければ、太陽が沈んでもいつかは昇ることは信じられるだろうに、ここではそれさえも叶わない。
「参ったね、本当に……、こんなことになるなんて」
 シェネが雷雲を見上げて呟くように言うと、「ごめん」とゼスタールの謝罪が返ってきた。
「そういう意味じゃないよ、ゼスタール」とシェネは微笑んでやった。「この空域のこと」

 死哭空域。

 《魔導戦艦 ゼスタナス》が一週間前から拘束され続けている場所の名だ。ゼスタナスの対魔力障壁が無ければ、甲板の上に立っていることすら叶わないほど空気が乱れており、魔法の素養がないシェネでさえ、魔力の奔流を身に染みて感じるほどだ。
 捕まった直後は脱出のために策を尽くしたものだが、何をやってもこの空域から外に出ることができなかった。一先ずゼスタナスの魔導エンジンが稼働しているため飛び続けることができているが、それもいつまで保つかはわかったものではない。

「いちおうね、どうにかできる人の当てはあるんだけれども……、連絡を取るのが難しいんだよね」とシェネは肩を竦めてみせた。
「シェネは、いろいろ知り合いが多いよね」
「昔……、戦争に参加していた時期があったからね。そのときに、いろんな所に行って、色んな人と出会った。それで頼れる人もできたし、ゼスタール……、あなたにも出会えた
 言葉を紡ぎながら、どう切り出したものかとシェネは迷った。が、最終的には真っ直ぐに向き合うしかないと思った。親子だ。腹を割って話し合えば、きっと解決できる。シェネは常にそう信じていたし、信じたかった。
「ゼスタール……、そろそろ聞かせてもらえないか? なんで、レーテに反旗を翻して船を奪ったのか、を」
「シェネ、おれは――」

 突如、船が揺れた。

 殺す、ぶち殺す。
 カエサル。
 ユリウス・カエサル、おまえを殺す。

 空気を揺らす振動によって、その意志は船上のシェネたちに届いた。

 シェネは揺れた衝撃で倒れた姿勢のまま、四つん這いで縁まで近づいた。そして見た。遥か下方、暗雲を突き破り伸びる岩山の頂上で、嵐を巻き起こし、雷を降り注がせる者の正体を。死哭空域の原因たる存在を。
 それは腰より長い髪も、禍々しい刺青を施された身体も、全身が鴉の濡れ羽の色に染まった男だった。



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