小説ラスクロ『アニーよ、銃を取れ』/時代2/Turn3《コボルトの切り込み隊》


11-035C《コボルトの切り込み隊》
三匹寄れば災難のもと。



 獣が草を食んでいる。長い耳に小麦色の毛。黒いつぶらな瞳と愛玩用のものよりは力強い後ろ足。兎だ。穴兎ではなく、野兎。口をもしゃもしゃと動かしていた野兎はふと視線を空に持ち上げ、しばらく鼻の横の髭をぴくぴくとさせていたが、突然一目散に走り出した。まさしく脱兎のごとき動きに遅れて続いたのは森に響き渡る射撃音だった。

「外れましたね、アン」
 着弾地点を確認するまでもなく、《アニー・オークレー》が肩を竦めて言った。
 ボルトを引き、空になった薬莢を排出。肩に載せて抱えて、アンは溜め息を吐く。「止まっている目標だったら当たるんですが……急に動かれて、吃驚してしまって――」
「嘘はいけませんよ、アン」
 アンの言葉を遮ったのはアニーの静かな声だけではなかった。いつ持ち上がったのかわからぬ素早さで、アンの腕から.44口径のレバーアクションライフルが奪われ、その銃把はアニーの手に収まっていた。構えて、撃つ。彼女が狙ったのは40mは先の茂みの中で、外からは中に何があるのかもわからぬ場所だったが、つい先ほどアンが狙っていた野兎が逃げていった場所でもあった。
「残念ながら仕留めきれなかったみたいですね。アン、確認をお願いします」

 召喚英雄である《アニー・オークレー》が40m程度の距離を外すわけがない。であれば、確認しに行った茂みの中で足から血を流しながらもまだ生きている野兎は、彼女が狙ったとおりの結果ということだ。
 アンは革のウェストポーチから片刃のナイフを抜き、野兎の喉に突き立てた。ぼとぼとと噴き出す血を眺めてから、これなら銃で撃ち抜いたほうがどんなにか楽だっただろうかと思う。

 夏の盛り、メレドゥス王宮裏手の森は小太陽ではない、他の誰の追随をも許さない大太陽を浴びて輝いていた。森は常は王族が狩りを行うための場所であったが、召喚英雄が「訓練に使う」と言えば使用許可は簡単に下りた。
 アンは血抜きをした兎を手にして、アニーのもとまで戻る。彼女は満足そうでも不満そうでもない無表情で頷いて、馬に乗るように促した。今日の訓練は終わりだ。アンはほっと安堵する自身を感じた。
《アニー・オークレー》に銃を教わるようになって一年。アニーは優しく、可憐な女性ではあったが、いざ銃を持つとなれば彼女は召喚英雄《アニー・オークレー》だった。といっても、失敗すれば叩くだとか、肉体的に無茶な訓練を課すなどということはない。最初は筋力トレーニングから始まった彼女の教練は、素人のアンから見ても適切で、おかげでアンの銃の腕前はめきめきと上達した。身近に銃を扱える者というと、神業を見せる召喚英雄しかいないので比較はできないが、一般の兵士程度には銃が扱えるようになったのではないかという自負もある。
 だが、召喚英雄は銃がただ扱えるということと、実戦の中でそれが使えることを糸で結んだりはしなかった。
 弾丸を作る。それを装填する。狙う。撃つ。分解をする。掃除をする。一通りがこなせるようになったあとでアニーが課したのは、その弾丸を実際に生きている対象に撃ち込むことだった。

 そしてアンには、未だにそれができていない。

 前の馬ではふたつの栗色の三つ編みが揺れている。
「アン、お疲れですか?」
 三つ編みが振り返れば、大きな瞳が瞬いた。
「少し」と正直に頷く。
「それは肉体的なものではないですね」
「それは……」アンは少し躊躇ったが、また正直に頷いた。「そうです」
《アニー・オークレー》はアンが人殺しの技術を得たいわけではないと知っている。ただ、ただゴルディオーザのために、彼を守る力を得たいのだと知っている。そしてアンの気持ちも理解してくれている。幼く見える外見ではあっても、心はそうではない。彼女は年嵩の女性らしく、若いアンの気持ちをよく理解してくれた。理解してはくれたが、だからといって手加減してくれることはない。つまりは今日の訓練もそういうことだ。
「良い陽気ですね。こういう日に街に行けば、若い女性ならば好みの殿方のひとりやふたりでも見つかるのではないかと思います」
「わたしは……その、べつに器量が良いわけではないですし………髪もこんな、真っ黒ですから………」
「綺麗な黒髪だと思いますよ。それに、もし金髪ブロンドだったら今頃は強姦されるか〈山賊女王〉になっていたでしょうから、黒髪のほうがずっと良いです」
 とアニーは褒めているのかどうかよくわからないことを言った。

 アニーの言いたいこと――街にでも出ろというのは言葉通りの内容ではないのだろう。つまりは、ゴルディオーザなどという男に恋するのはやめておけと、もっと身近な幸せを得ろと、そういうことなのだ。
 アンとて、ゴルディオーザと結婚できるなどという夢を抱いているわけではない。なにせ、彼は王になってしまった。彼の父親が死んだ。ならば彼は〈黒覇王〉だ。これまでとは打って変わって、積極的に政を取り仕切り、戦争まで仕掛けている。レ・ムゥの五か国のうちのひとつを治める王としての正しい姿だ。であれば、ただのメイドに過ぎないアンからは遠すぎる。
 それでも――それでも、彼の手助けができるやもしれないと、アンは思っていた。女なれば、もっと女らしいことでとも思わないでもなかったが、そうしたことには自信がなかったし――何より、アンがゴルディオーザのために何かしたいと思ったときに、ちょうど召喚英雄が現れた。だからアンは、《アニー・オークレー》に教えを乞うたのだ。
 いつかこの技術が役に立つ日が来るとすれば、それは敵がメレドゥスの主城まで攻めてきたときだろう。街は戦火に燃え、家臣は皆殺され、女は犯され、そんな最中で、アンとゴルディオーザが生き残ったときだ。そうして、アンはゴルディオーザを銃の腕で守り、ともに逃げ出すのだ。手を取り合って。

 それは結局、彼との恋物語を夢見ているということで、やはり馬鹿馬鹿しい話だ。

「どうにも騒がしいですね」
《アニー・オークレー》の呟きで、アンは己の妄想から現実へと引き戻された。もう森から城門の前まで戻っていた。
 彼女の言う通り、民衆が集まって騒がしくしていた。街路の左右に分かれているのであれば、集会ではないだろう。何かが通るのだろうか。
 アニーが馬をゆったりとした足取りで近くにいた中年の女性のそばまで近づき、馬を下りる。「すみません、ご婦人。何かあったのですか?」
「兵隊さんが、オルバランのお姫さまを捕まえたんですってよ」
「オルバランの姫……というと、〈黄金覇者〉の娘の?」
「違う違う、アルマイル王女じゃなくて、どこかの神殿を治めている巫女さんだっていう話なんだけど……これがふたりといないような美しい方だって噂でね、それを見ようって男たちが集まっているのさ」
 と中年の女性はなぜか自慢げに言った。
「ご婦人も?」
「わたしは旦那を探しにね。まったく、仕事をほったらかしてしょうがないんだから」
 と中年女性が言うと、《アニー・オークレー》は喉を鳴らして笑ってから、婦人に礼を言って集団から離れた。

「ということのようですね」とアンのところまで戻ってきて、アニーは言った。「いまオルバランのほうへと遠征している兵というと、〈死に札デッドマンズ・ハンド〉たちかもしれません。手柄を立てたというわけですね」
〈死に札〉はアニーのあとで召喚された召喚英雄だ。彼女と同じく銃を使う髭もじゃの男で、信じられないことにアニーの知人だった。ふたりが並ぶと良家の令嬢と犯罪者で、明らかに異質に見えるのだが、奇妙なことに仲は良いらしい。
「アン? あなたも綺麗な女性に興味があるんですか?」 
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
 城へと戻ろうとしたとき、石畳を打ち付ける軽い木輪の音とともに馬車が姿を現した。道の左右に寄っていた民衆たちは、さらに両側に避ける。

 アンは何気なく馬車を見ていた。そして一瞬だけ、その馬車の窓に薄い紫銀髪の女が見え、その紫色の瞳と目が合った。
 これが《夜露の神樹姫 ディアーネ》とアンの出会いであった。たぶん、こんな出会い方でなければ、アンは彼女のことが好きになっていただろう。だがアンはこのすぐあとに、彼女のことが嫌いになり――殺してやりたいほどに憎く感じるようになった。


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