小説ラスクロ『アニーよ、銃を取れ』/時代3/Turn10《ホーリーバレッター》


13-017C《ホーリーバレッター》
「聖弾の軌道のように、まっすぐ在れ!」
~シャダスの聖射手たちの合言葉~



 掴んでいるのは細い手だった。指はディアーネよりも細いかもしれない。白くて、骨ばっていて、それでいて大きくて、緊張で震えていて……そんな手がディアーネの手首を掴み、引いていた。そして、離れた。
「先に行け」
〈黒覇帝〉は震える呼吸の中で言った。彼が指し示したのは森の出口ではあったが、その先あるのは故郷のオルバランではなく、メレドゥスのウディスト城が見えていた。
「行くわけがないでしょう」とディアーネは言ってやった。「あなたは自分が何をしているか、何を言っているかわかっているのですか? 無理矢理結婚させられて、そのくせ何をしてくるわけでもなく、ただ連れ回して、いつも無言で、不機嫌な顔で、それで………」

 不満はいくらでもあって、しかし言葉にすればするほどいちばん大事なことは言葉として出てこなかった。それはつまり、この男は馬鹿だ、ということだ。
 つまりは敵なのだ。当たり前だ。ディアーネはメレドゥスという国が嫌いだし、〈黒覇帝〉だってオルバランを憎んでいるだろう。であれば結婚など成立するはずがない。まともな結婚生活などありえない。どれだけ尽くされても、敵は敵だ。好きにはなれない。この男はそれがわかっていない。考えが足りない。現実が見えていない。だから、馬鹿なのだ。だから、前が見えていないのだ。だから。

 だから、敵じゃなければ、もっと良い出会いがあったかもしれないのに。

「ディアーネ、そいつから離れろ………」
 森の中から発せられた声は血に塗れていた。《目覚めし黄金覇者 アルマイル》は片耳からだらだらと血を流していた。剣を杖代わりにしているからには、何かに縋らなくては立っていられないほどに疲弊しているのかもしれない。いや、三半規管に何か問題でもあるのか。
 彼女を傷つけたのは召喚英雄だろう。つい先ほど、森の中でアルマイルに遭遇したときに〈黒覇帝〉を救った女だ。《アニー・オークレー》とかいう銃士だ。姿を現したのがアニーではなくアルマイルだということは、彼女はあの召喚英雄に勝ったということか。あの己に自信がなくて泣き虫だったアルマイルが。
 目頭が熱くなったが、泣いていられる事態ではなかった。杖代わりに剣をついたままで、アルマイルは腰に差していた短刀を抜いた。召喚英雄ではなく〈黒覇帝〉相手ならば、まだ戦えるということだろう。

「アルマイル、やめて!」
 とディアーネは言った。アルマイルを気遣う姉代わりの女としての声で言った。やめて、危険だから、あなたは怪我をしているから、だからもうやめて、と。だがアルマイルは止まらない。当たり前だ。こんな状況で、やめて、と言ったとしても、それはつまり鼓舞のようなものだ。わたしのことは気にしないで、だなんて心の底から思っているはずがないと思うに違いない。
〈黒覇帝〉も〈黒覇帝〉で、相手が手負いならば勝てるやもと思っているのか、それとも勝てずとも――馬鹿らしいことに――ディアーネを逃がすことを優先させたいとでもいうのか、刀を抜いて構えた。なぁ、馬鹿じゃないか? こいつは、自分が戦えばディアーネが大人しく砦まで行ってくれるとでも思っているのか、なぁ。
 ディアーネはどうすれば良いのかわからなかった――わからない? いや、何をするべきかはわかる。ずっと隠し持っていた短刀で、〈黒覇帝〉を後ろから刺し殺すべきなのだ。恨みを込めて、オルバランの〈夜露の神樹姫〉として、悪しきメレドゥスの〈黒覇帝〉を討つべきなのだ。
 だが何をするべきかと、何をしたいかが違う場合もある。
《黒覇帝 ゴルディオーザ》の背中を前に、ディアーネは立ち竦んだ。


 アンが砦を飛び出したのは、ほとんど規則的ともいえる感覚だった銃声が森から聞こえなくなったからだ。召喚英雄《アニー・オークレー》の古びたレバーアクションライフルの銃声が。
 アニーという人物の容姿にそぐわぬ強さを、アンは彼女と出会ってからの期間で知っていた。単に召喚英雄であるというだけではなく、彼女は強かった。
 だが厭な予感がした。狙撃手が狙撃地点を離れて見通しの悪い森に向かったという時点で、彼女の負けが決まったように思えた。

 ウディスト砦は既に敵兵に攻め込まれていた。報告にあったオルバランのドワーフやヴェガのミノタウロス、ケンタウロス、スワントではなく、オートマタや天使たちだ。シャダスだ。非戦闘員であるアンは砦の奥へ隠れるようにと兵たちに言われた。だがアンは銃を手に、砦の中庭に繋がれていた馬に飛び乗っていた。
 砦を覆い尽くす天馬騎士たちは黒雲のようで、砦の扉を崩そうとするオートマタたちは穀物を食い荒らす鼠のようだ。砦壁を飛び越えて現れたアンに対し、彼らシャダスの敵兵は一斉にその視線を向けた。そしてその手を伸ばしてきた。だがその手はあまりにも丁寧で、おそらくはメイドのアンの恰好が明らかに非戦闘員だったからだろう、優しかった。
(殺せそうだ)
 伸びてくる手を掻い潜りながら、アンはそんなことを思った。これまで――これまでずっと避けてきた。銃で殺すこと。《アニー・オークレー》との教練で的になる動物であっても、アンは銃で殺さないように努めてきた。おかげで的にされた動物は長く苦しむことになった。
 殺さなければ生きてはいけない。アンもそれは理解していて、だから仕留めそこなった獲物を殺すようにと命令されれば、その通りにした。武器を武器として扱わないだけで、アンは生きるために命を奪ってきた。
 だから――だから同じなのだ。何で殺すにしても同じなのだ。いまさら怯えることなんてない。



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