展覧会/本屋の森のあかり

7月 18, 2011
子どものころから本は好きだった。

本屋の森のあかり

講談社/磯谷有紀

自分の名前を書いて、その物語に参加できるという形の児童書があり、それは幼い頃の宝物だったように思う。
本が好きなのは自由だからだ。読みながら何を考えても良いし、いつ、どれだけの量を読むべきかも規制されていない。自由で、軽くて、ふわふわで、好きだ。

本が格好良いものだと思うようになったのは中学生のときだ。本屋だかレンタルビデオ店だかに『すべてがFになる』のゲーム化を報せるポスターが貼ってあった。『すべてがFになる』という響きはとても不思議で、ゲームを買わずに本を買った。
初めて買った講談社文庫の本はとても素敵で格好良かった。掌大のサイズなのに分厚くて、字はとてもきめ細やかで、クリーム色の紙の上に黒い文字が詰まっているのは見ているだけで素敵だった。故辰巳四郎氏のデザインした表紙が何よりも格好良かったと感じた(ちなみにゲームはその後数年してブックオフで見つけたのを購入した。中澤工のパートになったらテイスト変わりすぎてギャグかと思った)。

今になって思えばよく勇気を出したものだと思う。当時のわたしにとって、講談社文庫の本はとても大人っぽく、格調高く、高級な鼈甲細工のように感じたのだ。

それも当たり前のことで、子どものころは「大人の本」は読めない、理解できないものだと思っていた。絵はないし、文字は小さいし、きっと買っても無駄だと感じたし、子ども向けではないから手を出してはいけないもののようにも感じたのだろう。

改めて振り返ってみれば、小学生の頃は児童書か漫画かライトノベルしか読まなかった。今改めて思い返してみると、よくそれだけの世界に留まっていられたな、と思える。

当時『星もぐらサンジの伝説』という児童書が好きで、それは何度となく読んでいた。明智小五郎シリーズやシャーロック・ホームズシリーズのようなミステリーも好きだった。だがそれらもすべて児童書コーナーのものだった。

『本屋の森のあかり』の4巻、『「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」』を読んだとき、ああ、確かにこんなことがあったなぁ、と思った。

子どもにとってはとても世界が狭くて、たとえば電車で一本、隣の町まで出かけたときには、その電車に乗らなければ帰れないように感じられたものだ。今はそうは感じない。どこでも行けるし、何でも読める。ずっとそうでありたいものだ。


余談だがわたしの中の法則で「2巻の法則」というものがある。1巻が凡作でも2巻から急に面白くなる可能性があるため、せめて2巻までは期待しても良いという法則だ(2巻まで待って駄目ならそれ以降も駄目な可能性が高い)。ドロヘドロ、ワッハマン、BLAME!あたりはわたしの中でこの法則が当てはまっている(ドロヘドロとBLAME!は1巻も十分パワーあるけどね)。
『本屋の森のあかり』は珍しく雑誌を読んで知った。読んだのが4巻の『夢十夜』で、これが良かった。きっと1巻のエピソードとかだったらこうやって買い続けることはできなかっただろう。タイミングって大事ね。

(*画像は『本屋の森のあかり』(磯谷有紀/講談社)4巻『「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」』より)

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