展覧会/小川未明童話集 赤いろうそくと人魚
童話というのは、得てして救いが有るものだ。
たとえばO. ワイルドの『幸福の王子』を見てみれば、鉛の塊になった王子は溶かされ、南へ渡ることができなかった燕は死ぬ。それ事態は可哀想なことではあるが、最後には天使によって選ばれ、天国へ連れて行かれる。天国に行けば身長150センチのFカップ美少女だとか、赤面がちの大人しいイケメンだとかが居るのかは知らないが、希望が有る終わり方である。
小川未明童話集 赤いろうそくと人魚
小川未明(新潮社)
登場人物に災難が降り掛かる場合でも、それは因果応報のものであり、つまりは教訓的だ。悪いことをしたから悪いことが起きるというのなら、良く生きれば良い結末が待っている、ということになるわけで、これもある意味では希望が有る。
最近(でもないか)、"To the Moon"(2TM)のレビュー企画でプラネタリウム版"銀河鉄道の夜"を思い出し、DVDを購入した。2TMのレビューでも引用したが、さそりの話がいちばん好きだ。
自分がどうせ死するべき運命なら、いたちの食料になれば良かった。そうすればいたちは生きられたのに。自分も良く生きて、死ねたのに。それが女の子の述べた、さそりの考えであった。
さそりはしかし、こんな考え方も出来たはずだ。自分は精一杯逃げようとした。結果は運悪く捕まってしまい、それだけではなく食われることなく井戸に落ちてしまったが、遣るべきことは遣ったのだ。だから何も悔いることはない、と。
この考え方は、べつだんおかしくないように思える。生きるために逃げるのは正当な努力だし、未来という結果は予想できないことなのだから。
ふたつの考え方が対立する。
[1]と[2]の考え方の相違は、死に対する受け止め方の相違だ。
[2]の考え方の場合、死はゼロだ。自分が死ねば、はい、そこで終わり。世界はそれだけ。自分が死ねばそれで終わりなのだから、その影響など考えない。
一方で[1]の考え方では、死はゼロではない。世界は続くし、自分の死体は残る。生き方も。
死の先に何が有るのかは誰にも解らない。少なくとも、実証することはできない。
だが希望を持って死んだほうが快くはある。
さそりはきっと、こう思ったのだろう。自分は死んでも、全てが終わるわけではない。ならば、この身体、この命、最後の一片まで燃やし尽くしても構わない、と。
それは単純な自己犠牲ではないのだ。
わたしは人狼クローンのプレイヤーであった、と唐突なこの文意を理解することができる人はそんなに多くないと思う。
人狼とは、”汝は人狼なりや?”という対人推理議論ゲームのことで、そのクローンとは人狼を模倣したゲームのことだ。一般にクローンというと、システム的にかなり似通ったものを指すことが多いと思うが、ここでは人狼の根幹であるシステムを用いているものとしてクローンという言葉を使った。
さて、わたしの参加していた人狼の国では、こんな言葉が有る。
「どんな状況であれ、自分吊りを推すのは駄目だ」
またわけの分からない言葉が出てきたが、”吊り”というのはプレイヤー同士の投票でプレイヤーのひとりをゲームから離脱させることである。人狼というゲームは、人間に化けた人狼を、議論と推理、能力によって探し当てていき、投票によって吊っていくゲームなのだ。つまり、大部分の人間プレイヤーにとっては吊る対象は人狼であることが望ましい(人狼プレイヤーにとっても、人間のふりをしていないと吊られてしまうため、表向きの主張はほぼ同一になる)。
単語が理解できたところで、この言葉の意味することというのは簡単だ。人狼というゲームは、基本的には自分以外のプレイヤーが人間なのか、人狼なのか、はたまた狂人なのかが判らない。能力者は判定で狼を見分けられるし、場の情勢によってはある程度絞りができることもあるが、基本的には人間であることが確信できるのは己だけである。
人狼にはさまざまなクローンが存在し、わたしが参加していた国もそのクローンの中の(しかも、とびきり特異な)ひとつなのだが、信じられるのが己自身だけであるという根本の部分は変わらない。人狼の面白さのひとつは、すなわち相手が敵なのかどうかも判らないまま戦わなくてはならないというこの点なのだ。
自分自身は人間であると確信できている一方で、他人は人狼かどうか判らない。ならば自分吊りを推すよりも、他人に(たとえその人物が人狼に見えなくても)吊りを押し付けるほうが、少なくとも未来への可能性が有る。
となると、この「自分吊りを推すのは駄目」というのは非常に自明なことを言っているように思える。
だが明らかに自明なことは、自明であるが故に、ふつう言葉として発されない。だというのに、なぜこんな言葉が飛び出す状況が生まれるのか?
たとえば、条件的に今日吊るのに適当なプレイヤーとして、同一条件の人物がふたり居る。
ひとり(A)はとても議論を活発に行い、推理も正当に感じられる。一方で、もうひとりのプレイヤー(B)は初心者で、一生懸命頑張ってはいるのだが、いまいち言葉は上手く出てこないし、頭が回らない。
あなたがプレイヤーBとする。目の前に居るのは、状況的には自分とほぼ同一だが、自分より明らかに優れている人物だ。推理は信憑性が有るし、人当たりが良いし、しかも、なんてこった、イケメンだ。くそう。なんとなく、人狼ではなく人間のようにも感じられる。
もちろんその確証は100%ではない。だが、信じても良いのではないかと感じられる程度には、おまえになら騙されても悔いはないと目を瞑ることができる程度には、信じられる。
そんなときに、自分吊りを推してしまう。
個人的な考えとしては、自分吊りを推すというのは良くも悪くもないと思っている。ありえないことではないというのも、目の当たりにすることで知っている。
目の前に、自分よりもっと優秀な人間がいる。そしてその人物は、おそらく悪人ではない。善人だ。自分より、きっと。
それなら、そう、それならきっと、目の前にいるこの人が生き延びたほうが、みんな幸せになれる。きっとそうだ。
そんなふうに考えるのは、己の幸せを軽んじている人間だけではないだろう。
残念ながら、ああ、本当に残念だが、そうなのだ。自分よりもあらゆる点で優秀な存在は、確かに居るのだ。皆、それぞれが存在している理由、生きる意味、果たすべき目標など無いのだ。人間には優劣が有るのだ。
童話として、子どもにそれを突きつけるのであれば、その意味はなんだろう?
己が他人よりもあらゆる点で劣っているか、せいぜいで同等程度の人間であると囁きかけることの意味ななにか?
それは迫り来る死に対する戦い方を教えることかもしれない。
優秀かどうかの評価は、結果から逆算されるものだ。結果が優れているものであれば、優秀とされる。
だが優等ではない人間にとっては、結果は無意味だ。少なくとも、何かしら特定の長所を持っていない、馬鹿なおまえにとっては。ならば、優秀だという結果を求めるべきではない。
人間は、結局は死ぬ。それは抗えない。だから死という結果に対して目標を定めるのは不毛なことだ。
生きる意味などない。だが生きている。生まれてしまった。その中で、生きるしかないのだと。仕方が無いから、さぁ、頑張ろうと、そうした姿勢を教えるものなのかもしれない。
たとえばO. ワイルドの『幸福の王子』を見てみれば、鉛の塊になった王子は溶かされ、南へ渡ることができなかった燕は死ぬ。それ事態は可哀想なことではあるが、最後には天使によって選ばれ、天国へ連れて行かれる。天国に行けば身長150センチのFカップ美少女だとか、赤面がちの大人しいイケメンだとかが居るのかは知らないが、希望が有る終わり方である。
小川未明童話集 赤いろうそくと人魚
小川未明(新潮社)
登場人物に災難が降り掛かる場合でも、それは因果応報のものであり、つまりは教訓的だ。悪いことをしたから悪いことが起きるというのなら、良く生きれば良い結末が待っている、ということになるわけで、これもある意味では希望が有る。
最近(でもないか)、"To the Moon"(2TM)のレビュー企画でプラネタリウム版"銀河鉄道の夜"を思い出し、DVDを購入した。2TMのレビューでも引用したが、さそりの話がいちばん好きだ。
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こう)云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押(おさ)えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺(おぼ)れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈(いの)りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
(宮沢賢治 青空文庫『銀河鉄道の夜』 より)
自分がどうせ死するべき運命なら、いたちの食料になれば良かった。そうすればいたちは生きられたのに。自分も良く生きて、死ねたのに。それが女の子の述べた、さそりの考えであった。
さそりはしかし、こんな考え方も出来たはずだ。自分は精一杯逃げようとした。結果は運悪く捕まってしまい、それだけではなく食われることなく井戸に落ちてしまったが、遣るべきことは遣ったのだ。だから何も悔いることはない、と。
この考え方は、べつだんおかしくないように思える。生きるために逃げるのは正当な努力だし、未来という結果は予想できないことなのだから。
ふたつの考え方が対立する。
- [1]どうせ死ぬなら、相手を生かせば良かった。
- [2]どうせ死ぬとしても、精一杯努力したからべつに構わない。
[1]と[2]の考え方の相違は、死に対する受け止め方の相違だ。
[2]の考え方の場合、死はゼロだ。自分が死ねば、はい、そこで終わり。世界はそれだけ。自分が死ねばそれで終わりなのだから、その影響など考えない。
一方で[1]の考え方では、死はゼロではない。世界は続くし、自分の死体は残る。生き方も。
死の先に何が有るのかは誰にも解らない。少なくとも、実証することはできない。
だが希望を持って死んだほうが快くはある。
人はいずれ死ぬ。だが、おれの場合は、命がすり減っていくから死ぬのではない、自分の命の時間は増えていくのだとイメージした。積み木が高く積み重なっていくように、それがいつかは崩れるように、おれは死ぬのだ。積み木のブロックはバラバラになっても、そのように命の断片は残る。やがてそれはなにかに取り込まれて利用されるだろう。おれはもともとそのようにして生まれてきたのだ。おれは消えても、断片のすべてをこの世から消し去ることなどできない。
(神林長平 ソノラマ文庫『ライトジーンの遺産』 より)
さそりはきっと、こう思ったのだろう。自分は死んでも、全てが終わるわけではない。ならば、この身体、この命、最後の一片まで燃やし尽くしても構わない、と。
それは単純な自己犠牲ではないのだ。
わたしは人狼クローンのプレイヤーであった、と唐突なこの文意を理解することができる人はそんなに多くないと思う。
人狼とは、”汝は人狼なりや?”という対人推理議論ゲームのことで、そのクローンとは人狼を模倣したゲームのことだ。一般にクローンというと、システム的にかなり似通ったものを指すことが多いと思うが、ここでは人狼の根幹であるシステムを用いているものとしてクローンという言葉を使った。
さて、わたしの参加していた人狼の国では、こんな言葉が有る。
「どんな状況であれ、自分吊りを推すのは駄目だ」
またわけの分からない言葉が出てきたが、”吊り”というのはプレイヤー同士の投票でプレイヤーのひとりをゲームから離脱させることである。人狼というゲームは、人間に化けた人狼を、議論と推理、能力によって探し当てていき、投票によって吊っていくゲームなのだ。つまり、大部分の人間プレイヤーにとっては吊る対象は人狼であることが望ましい(人狼プレイヤーにとっても、人間のふりをしていないと吊られてしまうため、表向きの主張はほぼ同一になる)。
単語が理解できたところで、この言葉の意味することというのは簡単だ。人狼というゲームは、基本的には自分以外のプレイヤーが人間なのか、人狼なのか、はたまた狂人なのかが判らない。能力者は判定で狼を見分けられるし、場の情勢によってはある程度絞りができることもあるが、基本的には人間であることが確信できるのは己だけである。
人狼にはさまざまなクローンが存在し、わたしが参加していた国もそのクローンの中の(しかも、とびきり特異な)ひとつなのだが、信じられるのが己自身だけであるという根本の部分は変わらない。人狼の面白さのひとつは、すなわち相手が敵なのかどうかも判らないまま戦わなくてはならないというこの点なのだ。
自分自身は人間であると確信できている一方で、他人は人狼かどうか判らない。ならば自分吊りを推すよりも、他人に(たとえその人物が人狼に見えなくても)吊りを押し付けるほうが、少なくとも未来への可能性が有る。
となると、この「自分吊りを推すのは駄目」というのは非常に自明なことを言っているように思える。
だが明らかに自明なことは、自明であるが故に、ふつう言葉として発されない。だというのに、なぜこんな言葉が飛び出す状況が生まれるのか?
たとえば、条件的に今日吊るのに適当なプレイヤーとして、同一条件の人物がふたり居る。
ひとり(A)はとても議論を活発に行い、推理も正当に感じられる。一方で、もうひとりのプレイヤー(B)は初心者で、一生懸命頑張ってはいるのだが、いまいち言葉は上手く出てこないし、頭が回らない。
あなたがプレイヤーBとする。目の前に居るのは、状況的には自分とほぼ同一だが、自分より明らかに優れている人物だ。推理は信憑性が有るし、人当たりが良いし、しかも、なんてこった、イケメンだ。くそう。なんとなく、人狼ではなく人間のようにも感じられる。
もちろんその確証は100%ではない。だが、信じても良いのではないかと感じられる程度には、おまえになら騙されても悔いはないと目を瞑ることができる程度には、信じられる。
そんなときに、自分吊りを推してしまう。
個人的な考えとしては、自分吊りを推すというのは良くも悪くもないと思っている。ありえないことではないというのも、目の当たりにすることで知っている。
目の前に、自分よりもっと優秀な人間がいる。そしてその人物は、おそらく悪人ではない。善人だ。自分より、きっと。
それなら、そう、それならきっと、目の前にいるこの人が生き延びたほうが、みんな幸せになれる。きっとそうだ。
そんなふうに考えるのは、己の幸せを軽んじている人間だけではないだろう。
「ああ、わたしは、どうしたらいいだろう」と、姉は、自分の長い髪を両手でもんで悲しみました。
「もう一人、この世の中には、自分というものがあって、その自分は、わたしよりも、もっとしんせつな、もっと善良な自分なのであろう。その自分が、弟を連れていってしまったのだ」と、姉は胸が張り裂けそうになって、後悔しました。
(小川未明 新潮社『小川未明童話集 赤いろうそくと人魚』 より)
残念ながら、ああ、本当に残念だが、そうなのだ。自分よりもあらゆる点で優秀な存在は、確かに居るのだ。皆、それぞれが存在している理由、生きる意味、果たすべき目標など無いのだ。人間には優劣が有るのだ。
童話として、子どもにそれを突きつけるのであれば、その意味はなんだろう?
己が他人よりもあらゆる点で劣っているか、せいぜいで同等程度の人間であると囁きかけることの意味ななにか?
それは迫り来る死に対する戦い方を教えることかもしれない。
優秀かどうかの評価は、結果から逆算されるものだ。結果が優れているものであれば、優秀とされる。
だが優等ではない人間にとっては、結果は無意味だ。少なくとも、何かしら特定の長所を持っていない、馬鹿なおまえにとっては。ならば、優秀だという結果を求めるべきではない。
人間は、結局は死ぬ。それは抗えない。だから死という結果に対して目標を定めるのは不毛なことだ。
生きる意味などない。だが生きている。生まれてしまった。その中で、生きるしかないのだと。仕方が無いから、さぁ、頑張ろうと、そうした姿勢を教えるものなのかもしれない。
(下線部太字は引用)
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*追記
青空文庫に著作権切れで載ってたので、本レビューに最も強い情動を与えた『港に着いた黒んぼ』のページをリンクで貼る。
「黒んぼ関係無ぇじゃん!」と突っ込むこと請け合い。
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