展覧会/でゅえるメイト
最近TCGを始めたのである。
■でゅえるメイト
(湯島ましゆ/翔鳳苑)
http://duel-mate.com/
TCGというのはご存知トレーディング・カード・ゲームのことだ。解らない人は、土日に小学生男子が地面に座ってやっているもの、といえばなんとなく思い当たるのではなかろうか。
思い当たらなくても、今回の展覧会を見るにあたっては、「とりあえずそういうゲームがあるのだな」と頷ければ問題なかろう。
『でゅえるメイト』はそんなTCGを扱った漫画だ。
ちなみにTCGには色々な種類があり、最も有名かつ大きな母体を持つのがマジック・ザ・ギャザリング(MtG)だろう。ただ『でゅえるメイト』で扱われるTCGは架空のものなので、実存するTCGを知らなくても問題はない。
さて、『でゅえるメイト』で比較的知名度があるようなないような、もしかすると知られているかもしれないなー、と思われるのは第3回のBパートだと思う。
『でゅえるメイト』はウェブ漫画で、古い話はダイジェストになり省略されているが(とはいっても2/3くらいは見られるのでダイジェストであることをほとんど感じさせないが)閲覧できる。先に挙げた第3回Bパートも今回の展覧会で紹介される部分は余すところなく見られるので、先に見ておくと解りやすいと思う。
漫画の第3回は主人公である神園いくさがカードショップの門前でうろつくヒロイン、札引かもねと出会い、なぜ札引かもねがカードショップに入ろうとしないのかを問うところから始まり、その理由を説明する回である。
札引かもねは語る。彼女は無類のカードゲーム好きだったが、カードゲームを一緒にプレイできる友だちがいなかった。そのためカードゲームショップで対戦をしに行ったのだが、対戦相手は乱暴な言葉遣いや、カードで無為にシャッフルしながら音を出したりして威圧し(シャカぱちというらしい)、初心者であるかもね相手に圧倒的な力差を見せ付けて勝利をした。そしてかもねはカードゲームショップ(とそれを利用する人)が苦手になった。
この回を見たとき、読者はこう思うはずだ。
「幼女のかもねちゃん可愛いよ」
と。
もう少し理性が残っていれば、
「この男たちはなんて酷いやつらなんだ」
だとか、
「確かにこういう奴らがいたなぁ。腹が立った」
と思うかもしれない。
さて、ここまでがウェブ版の話。
コミックス版では、追加要素として省略された部分が追加されていたり、書き下ろしがあったりする。
1巻ではその中に、『脇キャラだってでゅえるメイト』というコーナーと、『番外編 かもね+』というおまけ漫画がある。
これらの追加コンテンツで、作者は札引かもね相手に乱暴な言葉遣いをし、圧倒的な勝利を収めた挙句、幼少の札引かもねに心の傷を負わせた"幼いカードゲーマー"(これは彼らのことを扱った『脇キャラだってでゅえるメイト』のコーナーでつけられていたサブタイトル。都合が良いので彼らを呼ぶとき、この呼称を使う)を解釈するための3つのアプローチを行っている。
まず『脇キャラだってでゅえるメイト』の②『幼いカードゲーマー』で、"幼いカードゲーマー"たちはあくまで純粋にゲームを楽しんでいただけであって、悪意はまったくなかったとういことを伝えている。
これらの言葉は"元カードショップの店長(29歳)"の言葉として"幼いカードゲーマー"を評価するために述べられている。
成る程、そうなのかもしれない、とあなたはここで思うことができる。
次に『脇キャラだってでゅえるメイト』の①『カードゲームティーチャー』と彼らを対比させることができる。
このキャラクターは、"幼いカードゲーマー"と対戦する以前、TCGというものを全く知らない幼き札引かもねとデパートの販促コーナーで対戦し、かもねをTCG好きにさせたアルバイトの青年"TCGティーチングアルバイト(21歳)"の言葉だ(ぜんぜん話の流れと関係ないんですが、「てぃーちゃー」って打って変換するとティー茶ーになって、両方お茶じゃねぇか! って思うよね)。
彼のやったことは、"幼いカードゲーマー"とはまさしく真逆だ。おかげで札引かもねはTCG好きになった。好きになることができた。
やはり"カードゲームティーチャー"のような姿勢が大事なのだな、と当たり前のことをあなたは受け止めることができる。
ここまでのアプローチをレシーヴすることは容易い。
だがまだ、第三のアプローチがある。それはやはり追加コンテンツ『かもね+』で語られる。
『かもね+』は本編の数年前、TCGショップとは疎遠になりながらもひとり孤独にTCGを収集し続けていたかもねが「でゅえるメイト」を主張する同級生と出会い、ふたりだけとはいえプレイができるようになった頃の札引かもねの話だ。
札引かもねと彼女の「でゅえるメイト」は学校で自分たちに興味を示しているらしい同級生を見つけ、どうにか仲間に引き込もうとする。しかしかもねが本気でTCGをプレイした結果、同級生は彼女の元から去っていってしまう。
プレイングを「でゅえるメイト」に咎められた札引かもねは言う。
これはまさしく"幼いカードゲーマー"たちと同じ態度なのだ。
"幼いカードゲーマー"たちは何も、幼い札引かもねに意地悪をしたり、卑怯な手段を取ったりしたわけじゃない。戦って欲しい、と言われて戦った。
相手が使い方を間違えていたカードがあったら、それを指摘してあげた(たぶんそこだけ巻き戻ししたりもしていたのだろう)。
デッキを見て強いデッキの作り方を教えてあげた。
だが駄目だった。心が通じ合わなかった。相手を不快にさせた。
札引かもねの「でゅえるメイト」は言う。
彼の言っていることは正しい。
ああ、正しい。正しいはずだ。
だがなぜか心に響かない。何かお腹の辺りに渦巻くものがある。
それが何なのか、最初は解らなかった。
だが第1巻を読み返して解る。
彼は札引かもねとしか会話をしておらず、札引かもねも殆ど彼としか会話をしていない。つまり、内輪でしか会話をしなかった。
そしてこの構図は、"幼いカードゲーマー"の2人の男性と殆ど同じなのだ。彼らは札引かもねと殆ど会話をしようとせず、やはり内輪だけで会話をしていた。
つまり彼も含めて、札引かもねは"幼いカードゲーマー"と同じなのだ。
彼の立場も"幼いカードゲーマー"と変わらないのだ。
それを含めて何がいけないのか。何が問題なのか。
簡単なことで、相手の心を抉る原因となったのはプレイングや態度以上に、もっとメタ的な部分に問題の根があるのだ。
ここでいうメタとはTCGでいうメタ(つまりカードプールやトップのデッキを把握して対策すること)ではなく、人狼のようなゲームのメタ、つまりゲーム内では本来使えない外部的な情報のことだ。
メタ情報を得られるのは、人間を相手にするときだけである。
人狼をプレイしていたとき、わたしはメタ情報をしばしば使っていた。もちろん実際に言葉に出すのはルール違反だけれども。
メタ情報は、対面に相手がいなくても、相手が人間なら得ることができる。
会話の文体や話の流れから、比較的特定しやすい人というのがいる。100戦プレイした経験があれば、自然とその人の特徴が流れ込んでくる。
「この人がこんな考え方するのはおかしいな」「この人だったら当分任せても大丈夫だろうな」「たぶん他の人狼出身なんだろうけど、かなり頭が回るな」「どうも何処からか知識を得て回答しているようなところがあるな」
そしてその心の隙間を突ける。
だから人間相手は面白い。
メタ情報を通して、感情も伝わる。言われたくない言葉を言われたら、そこで言葉が濁る。色が褪せる。それで解る。
態度が悪かったかもしれない。プレイングに問題があったかもしれない。
だがそれを指摘されれば、それは改められるものだ。少なくとも、改めるための努力はできる。
コミュニケーションがなければ、しかし悪い点を気付くことすらできない。
だから、そう。
いやあの一般論というか、コミュニケーション得意な人じゃなきゃコミュニケーション大事ですよとか言っちゃいけないわけじゃないから言って良いんですよね!?
という前置きをしないといけないほどに、コミュニケーションが重要なのだ。
札引かもねも「でゅえるメイト」も、対戦相手とコミュニケーションを取ろうとしなかった。"幼いカードゲーマー"と同じように。だから彼の言葉は心に響かなかった。
たぶん、時間が経ってから、札引かもねはたぶんそのことに気付いた。
だからこそ、本編の札引かもねの姿がある。
彼女の新しい友は言う。
楽しませようとすることができるのは、対面に相手の存在を認めているからだ。人が生きているのを感じるからだ。
勝つにしろ、負けるにしろ、それが楽しい。相手が生きているから、ねじ伏せるのが楽しい。負けて泥水を啜るのが楽しいのだ。
ちなみに最後になりましたが、『でゅえるメイト』ですが、通常の本屋などでは取り扱っておりません。
わたしはイエローサブマリンの通販部で買いました。取り扱い店は→こちら(http://duel-mate.com/webcomic/shop.html)からどうぞ。
[でゅえるメイト レビュー]
■でゅえるメイト
(湯島ましゆ/翔鳳苑)
http://duel-mate.com/
TCGというのはご存知トレーディング・カード・ゲームのことだ。解らない人は、土日に小学生男子が地面に座ってやっているもの、といえばなんとなく思い当たるのではなかろうか。
思い当たらなくても、今回の展覧会を見るにあたっては、「とりあえずそういうゲームがあるのだな」と頷ければ問題なかろう。
『でゅえるメイト』はそんなTCGを扱った漫画だ。
ちなみにTCGには色々な種類があり、最も有名かつ大きな母体を持つのがマジック・ザ・ギャザリング(MtG)だろう。ただ『でゅえるメイト』で扱われるTCGは架空のものなので、実存するTCGを知らなくても問題はない。
さて、『でゅえるメイト』で比較的知名度があるようなないような、もしかすると知られているかもしれないなー、と思われるのは第3回のBパートだと思う。
『でゅえるメイト』はウェブ漫画で、古い話はダイジェストになり省略されているが(とはいっても2/3くらいは見られるのでダイジェストであることをほとんど感じさせないが)閲覧できる。先に挙げた第3回Bパートも今回の展覧会で紹介される部分は余すところなく見られるので、先に見ておくと解りやすいと思う。
漫画の第3回は主人公である神園いくさがカードショップの門前でうろつくヒロイン、札引かもねと出会い、なぜ札引かもねがカードショップに入ろうとしないのかを問うところから始まり、その理由を説明する回である。
札引かもねは語る。彼女は無類のカードゲーム好きだったが、カードゲームを一緒にプレイできる友だちがいなかった。そのためカードゲームショップで対戦をしに行ったのだが、対戦相手は乱暴な言葉遣いや、カードで無為にシャッフルしながら音を出したりして威圧し(シャカぱちというらしい)、初心者であるかもね相手に圧倒的な力差を見せ付けて勝利をした。そしてかもねはカードゲームショップ(とそれを利用する人)が苦手になった。
この回を見たとき、読者はこう思うはずだ。
「幼女のかもねちゃん可愛いよ」
と。
もう少し理性が残っていれば、
「この男たちはなんて酷いやつらなんだ」
だとか、
「確かにこういう奴らがいたなぁ。腹が立った」
と思うかもしれない。
さて、ここまでがウェブ版の話。
コミックス版では、追加要素として省略された部分が追加されていたり、書き下ろしがあったりする。
1巻ではその中に、『脇キャラだってでゅえるメイト』というコーナーと、『番外編 かもね+』というおまけ漫画がある。
これらの追加コンテンツで、作者は札引かもね相手に乱暴な言葉遣いをし、圧倒的な勝利を収めた挙句、幼少の札引かもねに心の傷を負わせた"幼いカードゲーマー"(これは彼らのことを扱った『脇キャラだってでゅえるメイト』のコーナーでつけられていたサブタイトル。都合が良いので彼らを呼ぶとき、この呼称を使う)を解釈するための3つのアプローチを行っている。
まず『脇キャラだってでゅえるメイト』の②『幼いカードゲーマー』で、"幼いカードゲーマー"たちはあくまで純粋にゲームを楽しんでいただけであって、悪意はまったくなかったとういことを伝えている。
彼らはカードゲームを貶めたいわけでも、ユーザーを減らしたいわけでもない。
むしろピュアに「ゲームだけ」楽しんでいる。つまりはファンなんだ。
ただ世界が狭いんだ。自分の価値観の先にいる自分じゃない他人にまだ意識が向かないんだ。
彼らの登場コマを見てほしい。そこに悪意なんてない。 (品はないが)
言葉遣いは悪い。態度も悪い。落ち着きもない。
でもカードを触っているときは、目がキラキラしている。
(どちらも、『でゅえるメイト』(湯島ましゆ/翔鳳苑)1巻『脇キャラだってでゅえるメイト②「幼いカードゲーマー」』より)
これらの言葉は"元カードショップの店長(29歳)"の言葉として"幼いカードゲーマー"を評価するために述べられている。
成る程、そうなのかもしれない、とあなたはここで思うことができる。
次に『脇キャラだってでゅえるメイト』の①『カードゲームティーチャー』と彼らを対比させることができる。
ルールを覚えてもらうんじゃない。「今から教えるゲームは楽しんだ」と知ってもらうことこそ真の目的だ。
まず相手に勝ってもらう。勝つ方法を覚えてようやく1週目は完了だ。
良いティーチャーに出会えるかどうかはその先のカードゲームライフを大きく変える。
だから俺はカードゲームの最高の出会いを演出するティーチャーであり続ける。
(どちらも、『でゅえるメイト』(湯島ましゆ/翔鳳苑)1巻『脇キャラだってでゅえるメイト①「カードゲームティーチャー」』より)
このキャラクターは、"幼いカードゲーマー"と対戦する以前、TCGというものを全く知らない幼き札引かもねとデパートの販促コーナーで対戦し、かもねをTCG好きにさせたアルバイトの青年"TCGティーチングアルバイト(21歳)"の言葉だ(ぜんぜん話の流れと関係ないんですが、「てぃーちゃー」って打って変換するとティー茶ーになって、両方お茶じゃねぇか! って思うよね)。
彼のやったことは、"幼いカードゲーマー"とはまさしく真逆だ。おかげで札引かもねはTCG好きになった。好きになることができた。
やはり"カードゲームティーチャー"のような姿勢が大事なのだな、と当たり前のことをあなたは受け止めることができる。
ここまでのアプローチをレシーヴすることは容易い。
だがまだ、第三のアプローチがある。それはやはり追加コンテンツ『かもね+』で語られる。
『かもね+』は本編の数年前、TCGショップとは疎遠になりながらもひとり孤独にTCGを収集し続けていたかもねが「でゅえるメイト」を主張する同級生と出会い、ふたりだけとはいえプレイができるようになった頃の札引かもねの話だ。
札引かもねと彼女の「でゅえるメイト」は学校で自分たちに興味を示しているらしい同級生を見つけ、どうにか仲間に引き込もうとする。しかしかもねが本気でTCGをプレイした結果、同級生は彼女の元から去っていってしまう。
プレイングを「でゅえるメイト」に咎められた札引かもねは言う。
「私… 悪くないかも」
「カードいっぱいあげたし」「デッキだって作り方とかちゃんと教えたかも プレイングだって巻き戻ししたり丁寧にやってたかも」
(『でゅえるメイト』(湯島ましゆ/翔鳳苑)1巻番外編『かもね+」』より)
これはまさしく"幼いカードゲーマー"たちと同じ態度なのだ。
"幼いカードゲーマー"たちは何も、幼い札引かもねに意地悪をしたり、卑怯な手段を取ったりしたわけじゃない。戦って欲しい、と言われて戦った。
相手が使い方を間違えていたカードがあったら、それを指摘してあげた(たぶんそこだけ巻き戻ししたりもしていたのだろう)。
デッキを見て強いデッキの作り方を教えてあげた。
だが駄目だった。心が通じ合わなかった。相手を不快にさせた。
札引かもねの「でゅえるメイト」は言う。
「でも…」「相手の顔は見てなかったんだろ」
「自分だけ楽しんでテンション上がってるから見えないんだよ」「もっと相手の気持ちを…」
(『でゅえるメイト』(湯島ましゆ/翔鳳苑)1巻番外編『かもね+」』より)
彼の言っていることは正しい。
ああ、正しい。正しいはずだ。
だがなぜか心に響かない。何かお腹の辺りに渦巻くものがある。
それが何なのか、最初は解らなかった。
だが第1巻を読み返して解る。
彼は札引かもねとしか会話をしておらず、札引かもねも殆ど彼としか会話をしていない。つまり、内輪でしか会話をしなかった。
そしてこの構図は、"幼いカードゲーマー"の2人の男性と殆ど同じなのだ。彼らは札引かもねと殆ど会話をしようとせず、やはり内輪だけで会話をしていた。
つまり彼も含めて、札引かもねは"幼いカードゲーマー"と同じなのだ。
ゲーマーA「それ今使えないよ?」⇔かもね「プレイングだって巻き戻ししたり丁寧にやってたかも」
ゲーマーA「あとこのレア超弱いから絶対いらね」⇔かもね「デッキのアドバイスもしてるかも!」
ゲーマーB「お前本気出しすぎー」⇔メイト「初心者コテンパンにしてどうすんだよ」
ゲーマーB「お前泣かせんなよー 手加減しろよー」⇔メイト「もっと相手の気持ちを…」
彼の立場も"幼いカードゲーマー"と変わらないのだ。
それを含めて何がいけないのか。何が問題なのか。
簡単なことで、相手の心を抉る原因となったのはプレイングや態度以上に、もっとメタ的な部分に問題の根があるのだ。
ここでいうメタとはTCGでいうメタ(つまりカードプールやトップのデッキを把握して対策すること)ではなく、人狼のようなゲームのメタ、つまりゲーム内では本来使えない外部的な情報のことだ。
メタ情報を得られるのは、人間を相手にするときだけである。
人狼をプレイしていたとき、わたしはメタ情報をしばしば使っていた。もちろん実際に言葉に出すのはルール違反だけれども。
メタ情報は、対面に相手がいなくても、相手が人間なら得ることができる。
会話の文体や話の流れから、比較的特定しやすい人というのがいる。100戦プレイした経験があれば、自然とその人の特徴が流れ込んでくる。
「この人がこんな考え方するのはおかしいな」「この人だったら当分任せても大丈夫だろうな」「たぶん他の人狼出身なんだろうけど、かなり頭が回るな」「どうも何処からか知識を得て回答しているようなところがあるな」
そしてその心の隙間を突ける。
だから人間相手は面白い。
メタ情報を通して、感情も伝わる。言われたくない言葉を言われたら、そこで言葉が濁る。色が褪せる。それで解る。
態度が悪かったかもしれない。プレイングに問題があったかもしれない。
だがそれを指摘されれば、それは改められるものだ。少なくとも、改めるための努力はできる。
コミュニケーションがなければ、しかし悪い点を気付くことすらできない。
だから、そう。
いやあの一般論というか、コミュニケーション得意な人じゃなきゃコミュニケーション大事ですよとか言っちゃいけないわけじゃないから言って良いんですよね!?
という前置きをしないといけないほどに、コミュニケーションが重要なのだ。
札引かもねも「でゅえるメイト」も、対戦相手とコミュニケーションを取ろうとしなかった。"幼いカードゲーマー"と同じように。だから彼の言葉は心に響かなかった。
たぶん、時間が経ってから、札引かもねはたぶんそのことに気付いた。
だからこそ、本編の札引かもねの姿がある。
彼女の新しい友は言う。
「あんなに楽しそうにプレイされるとなんだか私が大人気ない気がしてきますわ」「それに札引かもねは私を楽しませようとしている気さえ感じますし」
(『でゅえるメイト』(湯島ましゆ/翔鳳苑)2巻より)
楽しませようとすることができるのは、対面に相手の存在を認めているからだ。人が生きているのを感じるからだ。
勝つにしろ、負けるにしろ、それが楽しい。相手が生きているから、ねじ伏せるのが楽しい。負けて泥水を啜るのが楽しいのだ。
ちなみに最後になりましたが、『でゅえるメイト』ですが、通常の本屋などでは取り扱っておりません。
わたしはイエローサブマリンの通販部で買いました。取り扱い店は→こちら(http://duel-mate.com/webcomic/shop.html)からどうぞ。
(画像は『でゅえるメイト』より)
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