「それでも……」
 と、しゃがれた声でいった。重い意味をふくんだ、『それでも』だった。
「おれはあなたに、手錠をかけなければならん」

□夜よりほかに聴くものもなし(山田風太郎ミステリー傑作選3)
山田風太郎/光文社


 山田風太郎といえば忍法帳シリーズを思い浮かべる人が多いだろう。
 『ジョジョの奇妙な冒険』のような能力バトルの先駆けといわれる『甲賀忍法帖』や、『ドリフターズ』のような様々な英雄を同じ場に集わせる物語の原点ともいえる『魔界転生』(おぼろ忍法帳)など、後世に強い影響を与えた作品が多いので、それも当然かもしれない。

 また、最近ではせがわまさき作画による『バジリスク ~甲賀忍法帖~』『Y十M ~柳生忍法帳~』、連載中の『十 ~忍法魔界転生~』などが漫画化されており、特に『バジリスク』はアニメ化やパチンコ化されているので特に有名であろう。

 しかし実際には、山田風太郎の著作には他ジャンルの小説やエッセイなどもあり、特に推理小説は初期の頃に多く書いていた
 『夜よりほかに聴くものもなし』の初出は1962年『甲賀忍法帖』が1959年が初出なので(どちらもWikipediaより)、忍法帳という新たなジャンルを描き出した頃の作品ということになるだろうか。

 ヴェルレーヌの詩をもととする美しい題の『夜よりほかに聴くものもなし』は10-20ページ程度の短編を10つ纏めた連作短編である。
 共通点が幾つかあり、
  • 主人公は八坂という50歳過ぎの老刑事である。
  • 犯人はさまざまな動機で人を殺す
  • そのほとんどは当人にとって、やむにやまれぬ理由である。
  • 「それでも、おれはあなたに、手錠をかけなければならん」で終わる。
といったところか。

 さて、八坂刑事である。
 八坂刑事はとりたてて優秀な人物ではない。東京で刑事をやっているただの独身中年だ。とりわけ推理力があるわけではないし、顔がいいわけではない。記憶力や格闘能力が発揮される場面もない。
 たぶん彼を想像するときは、『踊る大捜査線』シリーズの和久さんを思い浮かべれば良いのではないかと思う。

 彼はそこそこ人に好かれる。
 そこそこ、というのは半端なようだが、彼に逮捕される人物の中には、「八坂刑事なら」という人間もいる。だが一方で、そうではない人間もいる。
 彼がそこそこ人に好かれるのは、たぶん、罪を憎んで人を憎まず、という人間だからだろう。

 八坂刑事は、ここ数年激増した交通事故、とくに、自動車による通行人の殺傷に対して、ふかい、いきどおりをもっていた。若いころとちがって、犯罪者に対する罰が思いのほか軽いとき、それに不満をおぼえるどころか、『まあ結構だった』とよろこびにちかい感情をもつようになっていた。しかし、このごろの自動車による傷害や致死の罪の軽さには、やはり一種の義憤をおぼえる。

 彼は罪を憎む。それを起こした人は憎まない。それが納得できる理由の犯罪であるならば。
 だが彼は、犯人を見逃したりはしない。
「おれはあなたに、手錠をかけなければならん」
 そう言って、犯人に手錠をかける。
 そう、彼は見逃さないのだ。情に厚く、他人の動機を誰よりも深く理解する心と経験を蓄えていながら、彼はまったく殺人者を見逃さない。

 では八坂刑事は口だけの、非情な人物なのか
 いや、違う。彼は確かに犯人に同情し、理解し、人を憎まない。だが見逃さない。

 あるとき、八坂刑事は同僚の南部刑事という三十代前半の刑事に関して、こんなふうに述懐する。

 彼の正義感の苛烈さは、八坂刑事もときどき眉をくもらすくらいだった。交通違反をしたアメリカ人を、さらに侮蔑的なすてぜりふを吐いたからといって留置場にたたきこんだこともあるし、貧しい母親がクリスマス・イブに、子供のためにお菓子をいれた紙の靴を万引きしたのを、ついに見のがさなかったこともある。
 職務熱心もここまでゆくと、八坂刑事も眉をくもらせることがしばしばだったが、それにもかかわらず、老刑事は彼を愛していた。じぶんの若いときもこうだったと思う。

 逆にいえば、八坂刑事なら、外国の知らぬ法律で違反をやらかして、そのことに多少侮蔑的な台詞を吐いたからといって、「外人なんだからしょうがないな」と済ませるということだろう。
 貧しい母親が子どものために万引きしたなら、窘めて、代わりに金を支払って菓子を買ってやるということだろう。

 だが作中における八坂刑事は情で目を曇らせたりはしない。
 その理由は、彼が遭遇する事件には(ある事件を除いて)ひとつの共通点があり、彼の価値観がたったひとつに絞られているからではないだろうか。

 それは、「人殺しをしているかどうか」だ。

 彼は人殺しを許さない。
 正確にいえば、人殺しを逮捕することを厭わない。どんな理由があっても、同情こそすれ、殺人者は見逃さない。いや、殺人の罪を問える人間は逃がさないというべきか。じっさい彼は、間接的に人を殺した男のことを、無理矢理には逮捕しようとしたりはしなかった。あくまで、逮捕できる人間を逮捕しただけだ。
 殺人だ。
 『夜よりほかに聴くものもなし』は、殺人という罪を扱った小説なのだ。

 殺人に対する罪は、山田風太郎作品で多く扱われているテーマというわけではない。
 たとえば『十三角関係』の歓喜先生などは八坂刑事とは正反対なのではないかと思う。彼は人殺しそのものをそう深くは捉えていない
 そもそも忍法帳シリーズの登場人物からして、殺人について深く思考することがない(忍者が殺人を躊躇っている余裕はない)。

 ところで、なぜ人を殺してはいけないのだろうか?
 この問いに対しては、「法律でそう決まっているから」というのが最もリーズナブルな回答であろう。しかしたいていの場合、この問いは、「なぜそういうことになっているのか」という問いかけであるので、「法律で決まっているから」と答えても、「なぜそんな法になっているのか」となるだけである。

 昔読んだ本なので詳細は忘れてしまったが、哲学者の永井均関連の本だったと思う。
 TV討論の若い学生の「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いに対して、参加者の誰もが回答できなかった。それに対して永井は言う。学生を納得させられるような論理的な回答など無いのだと。

 まさしくその通りなのだ。
 人を殺してはいけない理由などはない。
 あるのは、「『殺してはいけない』と思うよね?」である。

 生物というのは本能で動く生き物だ。ここでいう本能とは、遺伝子を次世代に受け継がせようとする方向性のことである。

 なぜ人は死を恐れるのか? 死んだら遺伝子を残せないからだ。逆に死んだものは、そこで滅びたからだ。
 なぜ人は愛を感ずるのか? 愛さなければ遺伝子が残せないからだ。逆に何も愛さないものは、そこで滅びたからだ。

 では殺人はどうか。
 自己防衛は生物を生物足らしめる機構のひとつであり、殺人に繋がる暴力行為を受ければ逆襲される。
 もちろん暴力行為によって捕食行為を行い、結果として生を伸ばすのだから、暴力行為そのものは問題ないとしても、自己増殖に必要な(あるいは間接的に遺伝子を残しうる)近縁種の殺害は、生物本能的によろしくない
 だから近縁種を殺害することは、自分に似た遺伝子が受け継ぐ可能性を低めることになる。逆に遠縁種や別種なら、自分の遺伝子にはあまり影響しない。

 結果的に、自分に(さまざまな意味で)近い人間は殺したくはない、殺してはいけない、殺すことに禁忌を感じるようになる。

 たとえばもし、わたしが誰かを殺す権利を得たとしても、きっとそれを行使することは滅多にないだろう。
 それはべつにこ、可哀想だとか、正義だとか、愛だとか、そういうものではまったくなしに、ただ「厭だから」殺さないのだ。
 その「厭だから」には、血が怖いとか、死んだら腐っていくのが厭だとか、そういう感情ももちろん含まれるだろうが、それ以上に「ただ厭」なのだ。

 だが実際には人は人を殺す。人が自殺をし、人が愛を憎むように。
 『夜よりほかに聴くものもなし』の犯人たちは人を殺す。

 彼らは狂っているわけではない。だから殺人を厭うている。してはいけない手段だと知っている。本能が忌避していることを理解している。
 だが、殺さなくてはならない。殺さずにはいられない。

 それは、ああ、八坂刑事には理解できる。理解できるのだ。
 だが彼らのしたことは、「してはいけないこと」なのだ。人間として、してはいけないことなのだ。
 だから八坂刑事は、彼の可能な範囲で、彼らに手錠をかける。それが「してはいけないこと」の印だから。「してはいけないこと」なのだよ、と、それを再認識させるために手錠をかける。

 彼がやってあげるしかないのだ。彼のほかには、夜しかいないのだから。

(夜よりほかに聴くものもなし レビュー)
(引用は『山田風太郎ミステリー傑作選3 サスペンス編 夜よりほかに聴くものもなし』山田風太郎/光文社 より)


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