8-109U《ヨー雪原の小イエティ》
賢いイエティの子供は、見聞を広めに旅立つとき、しっかりと準備を整えておくものだ。


 あまりに……。
 あまりに、眩しい。

 ヴィクトーは目を細めずにはいられず、だけではなく殆ど目を伏せて砂浜を歩いた。
「ヴィクトーさん、こっちですよ」
 と高い声で名が呼ばれる。声だけだと少女と見分けが付かないので、名を呼ばれると一瞬硬直してしまうのだが、よく考えればこの島でヴィクトーの名を知る者といえばメルク極海観測船の乗員しかいないのだ。

 そう思って顔を上げてみたが、しかし南国の茹だる暑さに防寒着を脱ぎ、殆ど肌着のような服だけを纏った薄い肩の人物は、長旅で伸びた猫毛が潮風を受けて流れていただけ、女の子のような少年にも、活発な格好の少女にも見えてしまった。

「きみはよく平気だな」
「え?」
 ヴィクトーの言葉に、《青氷の神軍師 ミュシカ》は大きく首を傾げ、ふわふわした髪が揺れた。
この島で………」
「ああ……、えっと、セイレーンの声の波長帯や可聴領域は人間よりも広いので、普通の人が長時間会話をしていると気持ち悪くなることもあるそうですよ。
 でも子どもの場合は声の波長帯が高いほうに近いので、影響を受けにくいらしいです」

 ヴィクトーが言いたかったのはそういうことではない。

 極海の中に存在する南国島。セイレーンの島。

 半裸の女性ばかりのセイレーンの島は、ヘインドラ本国の価値感に照らし合わせるならば破廉恥というほかない。健康的な肌の色は、頂点の太陽よりも、照り返す砂浜よりも、ちらちら光る水面よりも眩しかった。

 いや、半裸程度ならまだ良い。
 者によっては布地を一切身に纏わずに波間で戯れているのだ。南国産の果実をぷるぷると揺らしているのだ。白くて桃色なのだ
 
 ミュシカが平気そうにしているのは、単に子どもだから、というだけではないだろう。慣れとは怖いものだ。日頃から宮殿の女官との接触が多いだけ、女性の肌に対する感覚が麻痺しているのかもしれない。
 ヴィクトーは空を仰いだ。空が青く、ぽつねんぽつねんと浮かぶ雲は暗鬱としたメルク氷海とは思えぬほど平和だった。

 メルク極海観測船は、極海の中にぽつねんと存在する南国島への寄港を許可された。が、港町より先の立ち入りについては人数の制限を付けられてしまった。

 セイレーンとその島は確かにヘインドラの一部ではあるが、ヘインドラの霧氷の女王に完全に隷属しているわけではない。むしろヘインドラという国の中にもうひとつ小さい国があるような状態であり、属国という表現が適当だ。
 そのためヘインドラに属する人間でも、容易にセイレーンの島には立ち入れない。

 今回、寄港が許されただけでなく、物資の支給まで受けることができるようになったのは、精霊力の異常という全世界的な異常事態が起きているためだ。
 特に近年のメルク氷海の異常に関してはセイレーンたちも危惧しているらしく、積極的な支援を申し出てきた。精霊力の異常を解決できれば、セイレーンたちにひとつ貸しを作ることができるだろう。

 現在のヴィクトーとミュシカは、ヘインドラの役人ということで《アーネスト・シャクルトン》とともにセイレーンたちの宮殿へとあいさつに向かった帰りである。
 大理石造りの宮殿は、むしろ神殿という表現のほうが適切に見えた。構造としては平屋になるのだが、屋根が船が十分に入りそうなほど高い。女王との謁見の間の奥に安置されていた巨大な竜神像を収めるための構造なのだろう。

 セイレーンの女王は気分が優れないということで出てこなかったが、その娘であるアイネという少女が対応してくれたので、仮病というわけではなかろう。セイレーンの女王ならば、血筋的にセゴナの使徒の血脈であることもありうるので、あるいはメルク極海の精霊力の異常が影響しているのかもしれない。

(さっさと船に戻ろう) 
 独り言ちて気を取り直すために首を振ると、ぐらりと身体が傾きかける。慌てて砂を踏みしめると、足元で貝殻が割れる音がした。
 ずっと船に揺られていたからか、安定した地面の上に降り立つと、逆に揺れているように感じられる。陸酔いというらしいこの現象は、船に乗っていた時間が長ければ長いほど続くらしい。陸に慣れれば、また船酔いになりやすくなってしまう。でなくても、このセイレーンの島でヴィクトーたちの姿は目立ち過ぎる。さっさと戻るのが吉だ。

「さぁ、ミュシカ」
 船に戻ろう、と振り返っても、砂浜に南国植物と嘴のいやに長い鳥が魚を啄む姿があるばかりで、小柄な少年軍師の姿が見当たらなかった。
 何処へ行ってしまったのかと首を巡らせてみると、小さな身体はすぐに見つかった。砂浜が途切れて木造りになっている桟橋で、何やら座り込んでいた。

 連れ去られでもしたらどうしようという一瞬の危惧があったため、安堵に胸を撫で下ろしかけたヴィクトーの身体は硬直した。
 ミュシカは桟橋の端に腰かけていたセイレーンと話していたらしかった。
 金髪に白い花飾りをつけたそのセイレーンは、やがて己を見つめるヴィクトーの存在に気付いたようで、青い瞳を見開いてじっとこちらに視線を向けた。

「あ、ヴィクトーさん、ちょっと来てください!」
 セイレーンの視線に誘導されたミュシカもヴィクトーの存在を思い出してくれたようで、セイレーンとの会話を中断してこちらに手を振った。

 ミュシカと会話をしていたセイレーンは、それまで見てきた女たちと比べれば貧相な身体つきの少女だったが、それでも白い前垂れは濡れた長い金髪と同じように肌にぴったりとくっついていて、明らかに男とは違う肉の盛り上がりを見せていた。

「あの、ヴィクトーさん? もしもし?」
 呼んでも来ないので諦めてこちらにやってきたミュシカが、心配そうな表情でヴィクトーの顔を覗き込んでいた。
「なんだ、どうした。何かあったのか。あまりちょろちょろするな」
「ああ、はい。すみません。えっと、それでヴィクトーさん、兎の飾りって何か持っていますか?」
「は?」
「えっとですね、あの人……、兎が好きなんだそうです。でも、この島は普通の兎は生息していないせいか、兎がどういう生き物なのかよくわかっていない人が多くて、そういう飾りとかも売ってなくて……、だから、外から人が来たときはいつも、兎に関係したものを持っていないかって訊いているそうです」
「待て、いっていどういう経緯でそういう話になったんだ?」
「さっきからずっとこっちを見ていたから気になってたんですよ。ヴィクトーさんに話しかけたがってるのかなって思って、訊いてみたんです」

 ヴィクトーは視線を桟橋のセイレーンへと戻した。金髪の少女は、恥ずかしそうな様子でじぃとこちらを見つめている。セイレーンの島に来て、羞恥という感情に触れたのは初めてだ。
 セイレーンは魔力で翼を消したり尾を足に変えたりできるはずだが、あのセイレーンはそこまで魔力が高くないのか、それとも単にヴィクトーに近づくのが厭なだけか。
 いろいろと言いたいことがあったが、ミュシカにはあまり知らない女性に話しかける男には育ってほしくないと思ったヴィクトーだった。
「きみは、兎の書いてある便箋を持っていなかったか?」
「もう兎のやつは全部使っちゃったんですよ」

 とりあえずポーズだけ、ヴィクトーは腕にかけていたロングコートのポケットに手を突っ込んでみると指先に当たるものがあった。引っ張り出してみれば、雪兎を象った小さな銀細工だった。
 こんなものを突っ込んだだろうか、と首を捻っているうちに思い出した。妹のエルダに貰ったものだ。旅のお守りだ、と。「どうせ兄さまに渡しても持っていてくれないので、勝手に付けておきます」と言っていたが、コートのポケットの中に入れてあったのだとは知らなかった。
 エルダから貰ったものだ。これをくれてやるわけにはいかないな、と仕舞いかけて、ふと考える。こんなものを後生大事にしてしまうから、いざというときに駄目なのではないか、と。ティルダナの戦争でも、役目を果たせなかったのではないか、と。

 雪兎の銀細工を渡してやると、ミュシカは驚いた表情になった。
「ヴィクトーさん、こんな可愛い物を持っていたんですね……。誰かからのプレゼントですか? 女性とか」
「必要無いものだ。くれてやる。きみから渡してやってくれ」
「あんまり人から貰ったプレゼントを、また他の人にあげるというのは―――」
「あの娘に渡さんならここに捨てていく」
 とまで言ってやると、ミュシカは諦めたように首を振ってから銀細工を受け取り、桟橋のところまで駆け戻って行った。
 ミュシカが銀細工を渡すと、セイレーンの少女は距離があってもわかるほど輝かせた青い瞳をこちらに向けてきた。このままだと魚の尾のままでぴょんぴょんと向かってきそうだったので、ヴィクトーは急いでその場を立ち去った。


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