7-138U《吼えるイエティ》
「ほら、早く寝なさい……言うことを聞かない子は、凍てつき山から氷の魔物が来て食べてしまいますよ!」
~ヘインドラの伝統的な言い回し~

 セイレーンの少女を閉じ込めている氷柱は、まるでそこに何もないかのように透明度が高かった。下手な氷雪術で作られた氷ほど白く濁り、逆に高度な技術で作られたものほど透明になる。この少女を氷柱に閉じ込めたのは、間違いなく《厳冬将 ヴィクトー》だ。

 その有様を目の当たりにして、《凍える魔風 エルダ》の震える赤い瞳に生まれていた感情が何なのか、はじめ《青氷の神軍師 ミュシカ》には予想できなかった。
 だがぼろぼろと大粒の涙が流れ出てくれば、湧き上がっているのが悲哀であるということはいくらミュシカが女心に疎くとも、理解できるとうものだ。

「にいさまが……、この人を、にいさまが――」
 しゃくりあげながら、エルダは悲哀を言葉に篭めて漏らした。
「殺してしまった」

 氷雪騎士とあろうものがいまさら何を、とはミュシカは言わないでやった。彼ら氷雪騎士が戦場を渡り歩き、敵を殺戮し、血を凍らせてきたとはいっても、それとこれとは話が違う。どう違うと問われたら答えに窮するだろうが、違うものは違うのだ。
 なんと声をかけるべきかミュシカが迷っていると、エルダは涙を拭くや、氷柱に触れ、叩きはじめた。
「エっちゃん?」
「ミューちゃん、このひとの氷、溶かせない?」
「いや……、少なくとも普通の火じゃ無理だと思うけど……、どうして?」
「氷を溶かせば、もしかすると生き返るかも——」
「それは、無理だと思う」エルダの希望を挫くかもと思いながらも、ミュシカは殆ど被せるように言葉を重ねた。「水より氷のほうが密度が小さいから、凍らせた時点で細胞の中の水分が組織を壊しちゃってるんだ。だから――」
 首を傾げるエルダの瞳に疑問符が写っていたことで、ミュシカは説明を変えることにした。
「えっと、ほら、冷凍したお肉を温めて解凍しようとすると、中の肉汁が出てくるでしょ? あれと同じで――」
「お料理ってしないからわかんない」
「つまり、温めたら氷が溶けるかもしれないけど、結局は死んじゃうってこと」
「でも、釣ったお魚を冷凍してから解凍したら生き返ったって話を聞いたことがあるよ」
「それは……、魚だからで、えっと、たぶん、多少は凍っても大丈夫になっているんじゃない?」
「セイレーンは駄目?」
「魚なのは下半身だけだし……、脳とか神経とかが傷つく可能性はあると思う」
「どうにもならないの?」
 悲しそうな顔のエルダに問いかけられて、ミュシカは必死で思考を巡らせた。
 思いついたのは、メルク極海探検隊のメンバーとのやり取りだった。メルク極海からの帰還後も、極海探検隊のメンバーとやり取りする機会は何度かあった。
「……もしかしたら、あの人なら――」
 
 メンバーのひとり——物理学者であるレイムズによれば、召喚英雄《アーネスト・シャクルトン》の熱力学法則を逸脱した能力は、不可逆的なものに可逆的な性質を持たせることではないかという話をしたことがある。
「何度か説明したと思うけど……、熱湯と水から温いお湯を作り出すのは簡単だ。逆にお湯から熱湯と水に分離するのは不可能だ。もし分離が可能なら可逆的だが、不可能な場合を不可逆という。隊長は、不可逆なものを可逆的にしている。
 覆水盆に返らず、と言うだろう? 思考実験では可能な限り緩やかに動作を行うことで、可逆性を持たせるものもあるけれど、基本的に世の中は不可逆的だよ。エントロピーが増大する、だとかの話は聞いたことがないかい?」

 零したミルクを嘆いても無駄で、割れた壷は元には戻らない。

 だが《アーネスト・シャクルトン》の能力はミュシカの身体を温めるのみならず、凍傷によって壊死しかけた部位をも復元させてみせた。
 彼の力は万能ではない。たとえば抉り取られた肉片を新たに生やすことは不可能だろう。だが、僅かに壊れたものを、破片をくっつけるように元通りに修復することはできるのではないだろうか? でなくても、彼は熱量を操れる。氷漬けになったセイレーンを溶かすのであれば、彼以上の適任はいない。
(問題は――)
 ヘインドラという国の召喚英雄として呼び出された彼が、果たして協力してくれるか、ということだ。

 召喚英雄はおしなべて召喚された国に従順だ。それは、召喚英雄が神を奪われるからだ、と聞いたことがある。信仰対象を奪われ、代わりにと召喚された国の神があてがわれる。だから、召喚英雄はその神のために戦うようになるのだ、と。その国のために、その国の主権者のために尽くすようになるのだ、と。
 ヘインドラでいえば、彼が命令を受ける対象は霧氷の女王だ。そしてヴィクトーの変化も、おそらくは霧氷の女王が原因だ。彼をいちばん近くで見ていたであろう女王が何も口出ししていないのだから、ヴィクトーの変化は、彼女にとって望ましい変化なのだ。

 召喚英雄にも、霧氷の女王にも頼れないかもしれない。となれば、どれだけ頼れる人間がいるだろうか。ミュシカたちの力になってくれる人間はいるだろうが、それが功を為すかどうかは別問題だ。なにせ――。

 空気が変わり、背筋がぞくりと凍えた。
 ミュシカは己の吐息が白くなっていることに気付いた。

 霧氷の宮殿の一角、氷雪騎士の居住区の最深部、厳冬将の個室。
 念のためにと忍び込んでからは閉じておいたドアが、ゆっくりと……、ゆっくりと開いた。
 山から降りて来て女や子どもを氷漬けにし、攫っていくというお伽噺の化け物を思い出した。

 ああ――凍てつき山からイエティが降りてきた。



 《凍える魔風 エルダ》が即座に動けたのは、兄であるヴィクトーから敵意しか感じなかったからだ。
 敵ならば、戦わなくてはならない。それが氷雪騎士になったエルダの根底を為す理論であり、生存本能であった。

「ミューちゃん、窓を開けてっ!」
 一振りで長く伸ばした携帯式の魔導杖を振り、エルダはさらにその先端に三日月型の氷の刃を作り出す。
 即席のバルディッシュが受け止めた剣は、ほかの誰でもない兄、ヴィクトーの手から伸びるものであった。

 これが敵を敵とみなして真っ向から激突する、たとえば闘技場における剣闘士たちの戦いであれば、先の一撃で決まっていたはずだっただろう。もちろん、ヴィクトーの勝利という形で。それだけエルダとヴィクトーの実力差は明らかだ。でなくても、近接戦闘での武器の扱いはエルダの得手ではないのだ。
 だがエルダはずっと警戒していた。兄が本当に豹変してしまったという、その物的証拠を目にしてから。氷漬けにされたセイレーンの少女を目の当たりにしてから。

 三日月斧の先端に結合していた《小氷精》がヴィクトーの足に絡みついていたのは、その警戒の結果だ。ほんの小さな、涼風のような抵抗だったが、それが踏み込みに影響を与え、剣の振り切りを遅くした。だから受け止められた。
 だがそれも完全ではない。ヴィクトーから放たれる冷気が、エルダの拘束を引きはがそうとしている。数十秒と持たないのは明らかだった。

 言葉による説得は可能か。
 エルダはそれが不可能であるということは理解していた。ヴィクトーは、たぶん、きっと、誰かに操られている。でなければ、最愛の妹である自分に急に剣を向けてくるはずがないのだ。
 ならば、逃げるしかない。

 窓を開けてくれたかどうか、下がどうなっているかも確かめず、エルダはミュシカを抱えて窓から飛び降りた。3階からの落下だったが、粉雪の降る宮殿の中庭の雪は深いため、怪我はしなかった。
「ミューちゃん、大丈夫!?」
 深く沈んでしまった脚を抜きながら、友人の少年の名を呼ぶと、雪の中から小さく手が上げられた。エルダは己より小さな身体を雪の中から引きずり出した。
「ミューちゃん、生きてる?」
「なんとか……」
「さっき、何か言いかけてたよね? もしかしたら、あのひとならって。それって、だれ? あの女の人を助けてくれるひと? それとも、にいさまを止めてくれるひと? 両方?」
「それは……」
「教えて。そのひとって、誰?」
「シャクルトン………」

 ミュシカの視線はエルダの肩越しに、雪塗れの庭園の入口を見ていた。エルダもその視線を追った。
 立っていたのは、油で髪を左右に撫で付けた男だった。といっても軟派な色はなく、むしろ軍人めいた硬質さと屈強さを感じた。太い首の上に、広い顎、大きな口、そして凍えるように冷えた灰色の目。
(このひとが………)

「雪合戦かね?」
 召喚英雄、《アーネスト・シャクルトン》は腰の後ろに手を回した直立不動の姿勢のままで、似つかわしく無い軽い言葉を投げかけてきた。



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