7-142U《アリス症候群》
「魂の大きさは、見かけの大きさでは測れないものさ。」
~変化術の達人~

「助けてください!」
 《凍える魔風 エルダ》が雪から足を抜き、《アーネスト・シャクルトン》のもとへと駆け寄った。

「わたし――、わたし、エルダといいます。ヴィクトーにいさまの妹です。にいさまの様子が最近変で、わたし、それが心配で、ミューちゃんに相談して――。
 ううん、それは、それはいいんです。わたしは、わたしが伝えたいのは……」
 遅れてエルダのところまで走り寄りながら、ミュシカは彼女を止めるべきかどうか悩んでいた。召喚英雄である彼のことを信じていいのだろうか、と。いや、そもそもこの状況で彼を頼るのは正しいのだろうか、と。

 だがエルダは、ミュシカが結論に至るまえに核心の言葉を吐き出した。
「にいさまが人を殺したんです」
「で?」
 シャクルトンの返答はにべもないものだった。
「ヴィクトーは騎士だろう。騎士は戦場が本分だ。そして敵を殺すこと、人を殺すことこそが仕事だろう」
「でも、殺されたのは女性です」
それがどうした。女性の騎士もいる。きみも氷雪騎士かね? ならば、男性だけ殺してよくて、女性だけ殺されるべきではないというのは、不公平と言うほかない
「でも、殺された人は騎士じゃありません。戦争をしているわけじゃありません。ただ……、ただの人なんです! たぶん、何の罪も無い、セイレーンの女性です」
「それが、どうした。それで、どうして殺してはいけない。それで、戦場の兵士と何が違う。同じ人間だ。いや、人とセイレーンの差はあるか。とはいえ、この世に生きる者という点では変わりがないだろう。それなのに、なぜ、殺してはいけない?」
「それは……、だって………。そういうものでしょう?」

 背後で重い音がするとともに、雪が舞い上がった。振り返らなくても察知できる冷気の気配は、《小氷精》の呪縛を破り、ヴィクトーが窓から飛び降りて追跡してきた証左だった。
 ミュシカに戦う力は無く、エルダでは勝てない。
 いや、そもそも相手はヘインドラの誇る《厳冬将 ヴィクトー》なのだ。このヘインドラで、勝てる相手となると思いつかない。

 氷漬けにされたセイレーンを目の当たりにしたとき、ミュシカは確かに《アーネスト・シャクルトン》の熱力学法則に反する力のことを思い浮かべた。セイレーンの氷柱を溶かすために、シャクルトンの力は役に立つだろう、と。
 だが戦闘となれば話は別だ。
 彼の能力、マクスウェルの悪魔ともいえるその力は、あくまで確率的な要素をコントロールするものでしかない。温い空気から、熱い空気と冷たい空気に分ける。だがそれはあくまで、通常より熱かったり、冷たかったりするだけで、攻撃に使えるほどではない。おまけに分子をグループに分けていけば、その個数はだんだんと減っていく。氷雪術や炎術のようには使えない。
 先ほどだって、「ヴィクトーもしくはセイレーンを助けられる人物」をエルダからせがまれ、そのときにシャクルトンの姿が見えたから、彼の名を答えてしまっただけなのだ。彼ではセイレーンを助けることはできるかもしれないが、ヴィクトーと戦えるはずがない。

「ふむ」シャクルトンの大きな掌が、エルダの頭に伸びた。「良き答えだ。下がっていなさい。ミュシカも」
 シャクルトンの言葉が終わるか終らないかのうちに、ヴィクトーの剣が閃いた。セイレーンの氷像を目撃した、ミュシカを、妹のエルダを、殺す気か。そこまで彼の心は壊れてしまったのか。
 氷の化け物と化したヴィクトーの剣先は、ミュシカにも、エルダにも、そしてシャクルトンにも触れなかった。剣が振り切られるより早く、ヴィクトーの眼前まで踏み込んでいた《アーネスト・シャクルトン》の拳がヴィクトーの頬にめり込んだ。

 ミュシカは瞬きも忘れて、粉雪の中の男ふたりを見ていた。
 ヴィクトーを戦闘で止めるのであれば、そんな者が実際に存在するかどうかは兎も角として、彼と同程度の力量の氷雪騎士か氷雪術師だろうと思っていた。だが実際に止めたのは、召喚英雄の探検家だ。
 いや、これが戦闘と呼べるだろうか?

 仰向けに倒れたヴィクトー。
 馬乗りになって両の拳で何度も何度も繰り返しヴィクトーの顔を殴りつけるシャクルトン。
 そして口元を覆い雪中での光景を眼を見開いて見つめるエルダ。

 召喚英雄だからとか、氷雪騎士だからとか、戦闘訓練を受けているからだとか、能力があるだとか、そういった論理的な理由から隔絶された諍い。
 大人と子ども、狼と犬、剣と盾。あまりに——。
 あまりに一方的な暴力。

 シャクルトンの首は人並み外れて太く、肩は厚い。氷雪騎士には見劣りしない。なれば一度押さえれば、そう簡単には抜け出されない。
 何度も、何度も彼は殴った。ヴィクトーは殴られた。声と、血と、歯が雪上に飛んだ。青白く輝く雪氷花が紅に咲き、雪雲雀が庭園の枯れ木の枝から男たちを見下ろしていた。
 何秒、何分、いや、何十分だろうか。身体の芯先まで凍りそうなほどだったが、シャクルトンの周りだけは熱かった。

「落ち着いたか、ヴィクトー?」
 やがて、血塗れになった拳を止めたシャクルトンが尋ねた。
 返事は少し遅れて聞こえてきた。
「ああ………」
 腫れた唇で唸るように答えたヴィクトーの顔面に、また拳が叩き込まれた。
「いいや、わかっていない。もしわかっていたら、そんなふうに返事ができないからだ。したり顔で、反省しましただなんていう顔で言葉を紡げないからだ。わかるも糞も無い。駄目なものは駄目なのだ。おまえは駄目なことを仕出かしたのだ」

「もう……、やめて! やめてください!」
 見るに堪えかねたエルダが背に飛びつくと、シャクルトンはヴィクトーを殴る手を止めた。
「聞いたか、ヴィクトー。おまえのような人間の屑でも、助けようとしてくれる者がいるのだぞ。おい、聞こえているか? なんとか言え」
「あ………」
 ヴィクトーが腫れた瞼と流血で遮られた視線をエルダに向け、促される通りに何か言葉を発しようとした瞬間に、またしてもシャクルトンの拳が襲った。
「言い訳しようとするな。屑はおまえだけだ。わかったか。わたしが殺してやる。くたばれ」
 そうして、また殴打が再開された。

「や、やめてって……、言ったのに………」
 エルダはもはや嗚咽を堪え切れていなかった。赤い瞳からは大粒の涙を零し、大声で泣き始める。
 その頃になると、宮殿の中庭で起きている事件を聞きつけて、メイドや兵士たちが駆けつけてきた。それでようやくシャクルトンはヴィクトーから離れた。

 ミュシカは遠目でヴィクトーの状態を観察した。何発、何十発、いや、もしかするとそれ以上に殴られて、顔は血だらけ、歯は折れ、酷い状態だ。だがシャクルトンの宣言に反し、怪我は回復する程度のもので、命に別状は無いだろうということはわかった。
 担架で運ばれていくヴィクトーと、それに縋り付いて泣くエルダを尻目に、ミュシカはシャクルトンに近づいた。
「隊長……、ありがとうございました」
「隊長ではない。いまは探検中ではないからな」

「さっきエルダが話していたことですけど……、ヴィクトーさんの部屋に氷漬けになった女性がいます。セイレーンです。全身が、完全に氷の中に閉じ込められています。エルダは、ヴィクトーさんが殺したと言っていましたけれど、実はぼくらも詳しいことはわかっていません。でも、あなたなら彼女を生き返らせることはできるのではないでしょうか?」
「見てみないとわからない、が、試してみることはできる。案内してくれ」
 ミュシカは頷き、実況見分をしていた兵士たちに許可を取り、ヴィクトーの私室へとシャクルトンを案内した。

「あの、もうひとつ訊きたいことがあるんですが、いいですか?」
 と回廊を歩きながら尋ねると、シャクルトンは黙って首肯した。
「あなたは霧氷の女王に忠誠を誓ってはいないのですか?」
「そう見えないかね?」
「その、なんというか……、あまり召喚英雄らしくない気がするのです。ヴィクトーさんは霧氷の女王に洗脳されていたようですが、あなたは彼をそこから救い出してくれました。でも、召喚英雄は普通、国の主権者に逆らったりはしないはずなんです」
 ミュシカは意を決し、現在考えられている召喚英雄の信仰対象を奪うシステムについて説明した。神を奪い、そこに新たな神を宛がい、そうして国に忠誠を尽くさせるシステムのことを。
「成る程、確かにわたしはそれとは少し違うようだ。おそらく原因は、ここだろう」
 シャクルトンは未だ血の跡が残る親指で己が左胸、心臓の位置を指差した。
「精神力ひとつでどうにかなることでもないかと思いますが………」
「違う違う、これだ」コートを開き、指差した位置の内ポケットからシャクルトンが引き出したのは、薄い紙片であった。「昔、アレクサンドラ皇太后に贈っていただいた聖書の頁だ。ヨブ記だよ」

氷は誰の腹から生まれしか
天の白霜は誰が生み作りしか
水は石によるかのごとく身を隠し
水の深みの表は凍り付く

 シャクルトンが紙片に書かれた文章を読み上げる。
「えっと、それは、つまり……、なんですか? 詩文?」
「聖書だ。えっと、なんだ、つまりわたしの世界における教典だな。その一頁だよ。かつて探検に行った際に、残しておいたものだ。原因があるとすれば、これだろう。わたしは神を奪われなかったわけだからな」
 ミュシカは少し拍子抜けした。シャクルトンが霧氷の女王の意のままに動かなかった理由が、そんな単純なものだとは思わなかったからだ。
 にしても、教典の一頁を切り取って胸ポケットに入れるだなんて。あまりに洒落ているというか、芝居がかっているところが、シャクルトンらしく感じた。

「ぼくは、あなたが何か特別な存在なのだと思っていました」
「特別か。それはそうだろう」
「え?」
「誰だって自分自身は特別だ。特別だから何でもできるし、何をやっても許される。そう思うのが当然だし、でなければ生きていく理由は無い。だからヴィクトーも、セイレーンの少女を氷漬けにしたのだろう。だが、それはしてはいけないことだ。
 では、なぜいけない? ミュシカ、わかるかね?」
「それは……、そういうものだから、ですか?」
 先ほどのエルダとシャクルトンの問答を思い出しながら答えると、シャクルトンは広い口を持ち上げて小さく笑った。
「先に解答を知ってしまっているのは、少々ずるいな。だが、そうだ。わたしはその通りだと考えている。そういうものだから。そう教育されているからだ。そうであることが尊く、貴く、尊敬されるべきだと考えているからだ。
 きみは先ほど、霧氷の女王がヴィクトーを洗脳したと言った。だが洗脳も教育も違いは無い」
「あんなに何度も殴ったのは、だからですか? あなたにとっての教育だったんですか?」
「人を殺してはいけない、という考えに論理的な理由は無い。論理的な理由が無いのだから、それを伝えるためには身体に教えるしかない。それだけだ」

 ミュシカとシャクルトンは3階のヴィクトーの私室に辿り付いた。エルダとヴィクトーの戦闘の跡が残っていたものの、セイレーンの少女の氷柱は傷つくことなく鎮座していた。
「どうですか、助けられそうですか?」
生還の保証は無い。つまり――」
「つまり?」
「いつもの探検と同じだ」
 シャクルトンが氷柱に触れた傍から氷が溶け始める。この氷の分厚さを改めて目の当たりにすると、果たしてセイレーンの少女を本当に生き返すことができるのかどうかというのは絶望的に感じ、それと同時に不思議な希望も感じた。というのも、彼が召喚された際にザインの使徒から巫女が受け取ったという託宣を思い出したからだ。その言葉が皆まで理解できたわけではないが、少なくともいまなら言いたいことは理解できる。
 曰く、『この者、極寒の地に挑みし探検家。疵多く、難数え難し。最高とは程遠く、指導力ならスコット、能率的な旅ならアムンセン。然れど絶望的な状況で祈るならシャクルトン』と。
(終)



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