11-012R《チロンヌプ》
その矢がもたらすのは、痛みではなくささやかな恵みだ。



 人間と家畜の違いはなんなのだろうと考えるに、尻尾かもしれないと思う。たとえば牛は尻尾を振って蝿を追い払うことができるし、犬は尾の振り方で感情を表現できる。だが人間には――少なくともアンには尾はなかったし、蝿を追い払うことも感情を表現することも認められていなかった。あの日までは。

「おい」
 どれだけ背伸びをしても、一生涯爪先立ちをし続けていても届かないような天井を持つメレドゥスの主城のホールで鼓膜を打ったその高い声は、女のそれにも聞こえた。アンはそれが新人のメイドである己に向けられたことを察知すると、恐怖で震えた。だがその感情を表に出せば、さらなる叱咤が飛ぶのは明らかで、だから必死に意思を振り絞って顔を上げるのが精一杯だった。
「おまえ、何歳だ」
 アンの目の前に迫っていたのは、アンより背の低い少年だった。まだ声変わりしていない、父親と同じ銀髪の、緑色の目の、少年。アンは彼の名を知っていた。メレドゥスの国民であれば、知らぬ者は脳まで腐ったゾンビと能のないスケルトン以外にいるはずがなかった。

 ゴルディオーザ。
 
 初めて間近で見る少年は、噂話で耳にしたほどに偏屈そうではなく、彼の父親のように恐ろしくはなく、ただ、ただ……可愛らしく見えた。
「じゅ、13です………

 それでも声が震えてしまったのは、ただの調度品のひとつとして数えられているに過ぎないはずのメイドに話しかけてきた以上は、何も用件がないことはありえないということを理解していたからだ。特別な出来事ではあるが、メレドゥスで特別ということが如何に重いかは城に勤めだしたばかりのアンでさえ理解している。

「よし、来い」
 そう言うや、ゴルディオーザは踵を返してホールから出ていこうとする。アンは彼の命令通りについていくべきか、それともメイドらしく客人を迎え入れる準備をすべきか。左右の年嵩のメイドの顔色を伺うが、素知らぬ顔で対応してはくれない。
「早く来い」
 ゴルディオーザがホールの入口からそんな声をかけてくれなければ、アンはずっと左右に首を振り続けていただろう。
 小柄ながら、大股に歩いていくゴルディオーザに追いつくためにアンは行儀悪く小走りにならなければならなかったが、途中で一度後ろを振り向いてからは速度が落ちた。しかし歩みがゆっくりになったらなったで、まさか隣を歩くわけにはゆかず、ではどのくらい後方を歩けばよいのかと検討もつけられず、アンとゴルディオーザの距離は開いたり狭まったりした。
 寒村出身のアンにはどぎつく感じられる緋色の絨毯を、汚さぬようにとできるだけ端のほうを歩き、ついに辿り着いたのは天井近くまで広がる扉の前だった。扉は漆黒の色合い豪奢な装飾も手伝って、地獄の入口にも見えた。
 ゴルディオーザが地獄の門を開けて入っていく。アンは閉まった扉の前で待った。

「おい、なぜ入らない?」
 しばらくすると、扉がまた開いてゴルディオーザが顔を覗かせた。
「入って……入ってよろしいですか?」
「当たり前だろ」
  とゴルディオーザは言ったが、アンの感覚では主人の入っていった部屋に勝手に入るのは当たり前のことではない。深呼吸をしてから、彼のあとに続く。
 部屋の中にはたくさんの扉があるように見えた。よくよく見ると、壁際に並ぶその背の高い木製の四角いものは扉ではなく、本棚だった。幾つもの本棚が立ち並んでおり、その背表紙に並んでいる文字は種々様々だったが、アンは文字が読めないため、どんな本なのかはわからない。本以外で目立つものは部屋の奥の寝台とサイドテーブルくらいのもので、それでようやくアンはこの部屋が書斎ではなく、ゴルディオーザの部屋だということに気付いた。
「おまえ、兵棋ひょうきはできるか?」
 ベッドの近くまで歩いていき、ゴルディオーザは尋ねた。
「ひょう……?」
「知らんか。これだ」
 彼が叩いたサイドテーブルの上には四角い盤と様々な形の駒が載っていた。どうやらこれが兵棋というものらしい。ボードゲームだろうが、アンは知らなかった。そう伝えると、ゴルディオーザは唐突にルールや駒の動かし方を説明してきた。いくつかの駒を実際に動かしてみて、戦法や定石などを語った。アンは彼の意図がわからぬまま、ただ頷くことしかできなかった。

「つまらないか」
 しばらく説明が続いたあとで、ゴルディオーザは不安そうな顔で尋ねてきた。アンは正直に首肯するではないといくことくらいは理解できていたが、咄嗟に笑顔で首を振るほど気が回らず、固まってしまった。
「あまり……」
 ぼそりとゴルディオーザが何か言ったので、アンは不躾に「え?」と聞き返してしまった。
「あまり、同じ年頃の者と話したことがない。だから、すまない」
 言い直されたその言葉を聞いて、ようやくアンは彼が遊び相手となる友人を欲しているということがわかった。

 その日を境に、アンはゴルディオーザと親しくするようになり、彼との時間が増えた。といっても彼は積極的に話をするタイプではなく、兵棋のようなゲームにしてもアンの呑み込みが悪かったため、ほとんどの時間はゴルディオーザが本を読み、アンは隣で編み物や繕い物をするくらいだった。それでも、隣にいればときたま会話があった。
 ゴルディオーザは勤勉で賢く、大人しい少年だったが、身体が弱く、線の細い見た目も手伝って、黒の覇王の世継ぎとしては不適当な扱いだった。もしきょうだいでもいればーーあるいは新たに産まれれば、そちらに後継者話が移ってもおかしくなく、半端な権利と不自由で生活を拘束された立場だった。
 そんなゴルディオーザと過ごす時間は、アンにとって安らぎだった。彼との時間を共有できるときは落ち着けた。その理由は、単にメイドの雑務から解放されるからという理由ではなかった。
 城に奉公に出されて以来、アンは初めて心安らぐ時間を手に入れた。
 とある魔術師が城を訪ねてくるまでは。

「ベリス・ベレナと申します」
 アンが城に勤めだしてから一年ほどが経った頃、その女はメレドゥスの門戸を叩いた。同性であるアンから見ても赤面しそうになってしまうほどに扇情的な肢体とそれを僅かに隠すだけの衣装を身に纏った女は、《深冥の魔参謀 ベリス・ベレナ》を名乗った。紅を引いた妖艶な唇が歪むと、見てはいけないものを見ているかのような気分にさせられた。そして彼女は、時に覇王のみならず、その息子のゴルディオーザにも近づいてきた。

「ゴルディオーザさま、あの女性なのですが………」
 いつものように彼の部屋でふたりきりになったとき、アンは不安を口に出してみたことがあった。
「誰のことだ?」
「ベリス・ベレナという方です」
「ああ、あれはとても面白いな」とゴルディオーザは読んでいた本から目を離して輝かしい瞳を向けてきた。「この世界のあらゆることを昔から今に至るまで見てきたかのように語る。いや、本当に見てきたのかもしれない。アン、オルバランの古い黄金宮殿を見たことがあるか? 昔はすべてが黄金で出来ていて夜でも月明かりを受けて輝いていたが、盗掘者が表面を削ってしまうからずっと昔に倒壊してしまったらしい。それを反省して、いまの宮殿は表面を鉄と岩とで覆っているのだとか。精霊力によって浮く大陸や、邪龍と戦う精霊王の話もしてくれた。
「それは……すごいですね。あの、でも……」アンは口に出すべきか逡巡した。声を発するには、なけなしの勇気を奮わなければいけなかった。「あの女性は、なんだか厭な予感がします」

 言ってしまった。口に出してから後悔したのは、この陰口が《ベリス・ベレナ》に伝わることを恐れたわけではなかった。ゴルディオーザに、陰口を叩くような女だと思われるのが厭だった。いや、実際にその通りで、つまり本性を露呈したにすぎない。そうなのだが、アンはゴルディオーザに嫌な女だと思われたくなかった。
 怒られると思ったが、ゴルディオーザの反応は違った。
「ぼくもそう思う。ベリス・ベレナの話はいつも愉快だけれど、あの人の瞳には底が知れない怖さも感じる」
 ゴルディオーザも同じようにベリス・ベレナに不安感を抱いていることがわかり、アンはひとまず安堵の息を吐いた。彼はアンが心配する必要がないほど賢い人間であり、彼に自制の気持ちさえあるなら何も問題がないと思った。だからそれ以後は、何も口出ししなかった。

 さらに3年ほど経った頃、レ・ムゥでの戦争が激化し、神歴召喚術が確立されるようになっていた。メレドゥスでも例外なく召喚英雄を呼び出す儀式が執り行われようとしていた
 そしてなぜか、アンは召喚予定の英雄の世話係に任ぜられてしまった。
(召喚英雄………)
 神歴召喚術が執り行われるその日、アンは胸が潰されそうなほどの不安で客間に待機していた。英雄といえば聞こえは良いが、召喚英雄というのは深い欲を裡に秘めた制御不能の化け物だと聞いたことがある。どんな相手が来るのかがわからず、アンはきつく手を握りしめた。ゴルディオーザに会いたかった。彼に相談して、髪を撫でてもらって、苦しみを和らげてほしかった――いままで一度としてそんなことをしてもらったことはないけれど。

「はじめまして、お嬢さん。《アニー・オークレイ》と申します」
 だが、客間にやってきた足首まで届く長い裾のワンピースのスカートを広げて深々と礼をした小柄な愛くるしい顔立ちをした女は、聞いていたような化け物には見えなかった。





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