15-105U《クロノグリフ~蒼智片~》
「深き青こそは、静かなる英知をたたえし神秘の色。未来を読み解き、世界に新たな波を連れてくる、清冽なる意志と知恵の力を示す色でもあるのです」
~神詩人の言葉~



 人生60年生きるなら、2万2千日しか時間はない。つまり53万時間で、19億秒。
 とても長い時間で、だけれどそのひとつひとつはまさしく砂時計の砂のように流れ続けている。だからこの1秒1秒を無駄にしたくはない――特に回数が限られることならば。たとえば誕生日会をやるなら、それは60回しかできない。それならば、その限りある機会を飲んで、食べて、騒いで――友だちと、そんなふうにして時間を過ごしたいと思う。

 その日は17歳の誕生日で、でも誕生パーティーはやっていなかった。べつに、友だちがいないからではない。いないからでは――いないけれど、それが理由ではない。一年に一回だけの、誕生日会より大事な行事があったから。
「お嬢、あたしゃ責任は取れませんよ?」
 嗄声は小舟の先で櫂を漕ぐ男が発したものだった。髪は真っ白だったが、銅のように赤黒く焼けた肌には油を塗ったかのように潤いがあった。蒼眞勢の暮らす島にやってくる数少ない船頭のこの男の年齢はいくつだっただろうか、とミスルギは思い出そうとした。思い出せなかったが、もしかすると聞いたこともなかったかもしれない。彼女がもっと幼かった頃から、男の容姿は変わっていないように感じる。
 齢五十といったところだろうか。それとももっと上だろうか。下だろうか。どちらにせよ、華の十七歳のミスルギの軽く二倍以上は歳を喰っていることは間違いないだろう。老年といっていいはずだ。

 雲がぽつぽつと浮かぶ晴天の下、舟は光を反射する海を切り分けるように進んでいく。故郷の島々を背に。

「ご老人、あなたは………何か誇れるものがあるか?」
 男の言葉には返答せず、ミスルギは逆に男に尋ねた。我ながら抽象的な問いかけで、これは己の気分が逸っているせいだな、という自覚があった。
 男は気分を害したふうでもなく答えた。
「まぁ……舟は漕げますね。それなりには。そのくらいですか」
 歳を取るということはそれなりの知識や技術を溜め込むことになるだろう。その証左に、舟の下の水面に波はあったが、舟は安定感を欠くことはなかった。男の言のとおりだ。ああ、たいした技術だ。

 が、それは誇れるものといえるほどのものか。
 優れた技術、豊富な知識。それが溜め込まれ、ただ消費されるだけなら、誇るべきものとは言えないのではないか。誇れるものというものは、すなわち人に認められたものだ。こんな辺鄙な場所でただ舟を漕ぎ、舫いを繋いでいるだけでは、蓄えられたものもただ腐っていくだけというもの。
 それでは人生、無駄というものではないか。
 そう、技術とは、知識、人生とは、それを謳歌してのものなのだ。ただ日陰で鍛えているだけでは、生きているとはいえないのだ。認められ、賞賛されてこそ、輝きというのは意味あるものになるのだ――蒼眞勢として生まれたから、《蒼眞の隠密》として死ぬまで人の目を忍んで生きる。そんなのは厭だ。

 蒼眞勢。それは水の国イースラの隠密衆の名だ。もとはイースラ建立期から初代青武帝を支えた武者集団であったが、年月とともにその性質は変化し、表にて青武帝を護る皇武隊の影にて火急の事態を解決する忍者集団となった――といわれている。だが人に知られているのはその名ばかりで、実際に蒼眞勢が戦や事件で活躍したなどという話は、その中にいるミスルギでさえも聞いたことがない。戦がないからだ。国を揺るがす事件など、とんと聞かないからだ――平和なのだ。
 もちろんアトランティカを統べる五大国の争いは続いてはいるものの、近年は――特にバストリアに〈黒の覇王〉が台頭してからというもの、その争いというのは政治的、経済的なものが強くなっていた。戦で武功を立てるなどという時代ではなくなりつつある。

 だから現代で功を立てられる文官として生きるべきだ――などとは、蒼眞勢の頭首の娘として生まれたミスルギは思わなかった。
 なぜならば、文官などかっこわるいからだ。
 日陰で算盤を弾き、食料の買い付けに走り、お偉いさんに頭を下げ、陰謀詭計で日がな暮らすなどというのは、たとえ功を立てられたとしても誇るべきものではない。だから文官になどなりたくないのだ。だから武官として功を立てたいのだ。
(ひとりで本土に来たのは初めてだ)
 船頭の老人に礼を言ってイースラの本土の船着き場に降り立ったミスルギは、きょろきょろと辺りを見回さないように注意しなければならなかった。桟橋の上に出ている焼き玉蜀黍の屋台や、裏路地にある刀剣屋や表通りの華やかな呉服屋も行っては駄目だ。路銀は限られている。目的があってここまで来たのだ。そのためには節約せねばならない。

 なにせ世の人間に蒼眞勢の――そして己の武を認めさせるための旅なのだ。一年に一度、本土のトポカ宮で行われるイースラ剣術大会、ミスルギはそれに出場するために、島を抜け出して来たのだった。

 本土に着いたとはいっても、まだ辺境だ。首都まではさらに船で登る必要がある。大型の旅客船に乗ってしまえばすぐだろう。ミスルギは旅客船の切符を買うために桟橋の上を歩いた。水際を一階とし、二階、三階と複雑に組まれた桟橋はさながら迷路だ。ここに初めて来た人間は苦労するに違いないが、ミスルギはここに来たのは初めてではない。蒼眞勢の現頭首である父とともに何度か来ている。首都にも一度だけ行ったことがある。
(どこかで切符を買うのだ)
 そう、それは知っている。それで、その「どこか」とはどこだったか。ミスルギはぐるりと首を巡らせた。呉服を着た老人、魔術師姿の若い女のヘルネブ、人に紛れた幼い人魚。学生服姿で本を持っているのは魔導学園の学生が里帰りでもしているのだろうか。縁日でもないのに、やたらと人が多い。人が増えると、ミスルギの上背では周囲が見渡せなくなってくる。ぐるぐると何度も同じところを回ったところで、ミスルギは、大きく溜め息を吐いた。どこがどこなのか、さっぱりわからない。
「もし、娘さん」
 屋台で玉蜀黍でも買って座り込もうか、いや、烏賊でもいい、タレを塗って焼いたやつが良い香りで――などと思っていたところで、涼やかな声がミスルギの耳朶を打った。
「道に迷っているのではありませんか?」

 声の主は雑踏の中でも目立つ女だった。女にしては上背があり、長い艶やかな黒髪は鴉のように黒い。切れ長の瞳や端正な顔立ちは、歳にしては幼いといわれがちなミスルギとは正反対だ。大人っぽい――いや、事実大人なのだろう。見たところ、二十二、三か。いや、もっと歳上かもしれない。色が白く肌理が細かいので、そう老いてもいないはずだが、少なくともミスルギよりは歳上だろう。立ち振舞いは涼やかで、不思議に荘厳な雰囲気があった。落ち着いた深縹(ふかはなだ)色の着物は彼女の容姿に似合っていたが、背負っている唐草模様の風呂敷だけは古典的な講談の泥棒のように道化めいていてアンバランスな気がした。

 これが《蒼眞の剣華 ミスルギ》《皇護の刃 イズルハ》の最初の出会いだった。

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