小説ラスクロ『柿の種』/時代4/Turn10《皇護の刃 イズルハ》


1-138S《皇護の刃 イズルハ》
「彼女はいつも居住まいを正して、そこに座っていたものです。その凛とした姿の美しさといったら、清流に咲く白百合のようで……。 静寂の中、風鈴が小さく鳴るまで、わたくしにはまるで、時が止まっていたかのように感じられましたわ。」
~剣華 ミスルギの回想~


 風が吹けば桜の花が散り、水面に落ちて小さな舟となる。雨が降ればさらに花は落ちるだろう。太陽の高さが高くなるにつれて、葉は瑞々しく肉厚になり、木陰を提供するだろう。秋になれば葉は赤く染まり、落葉し、冬には芽吹きを待ち小さくなって春の日差しを待つだろう。
 当たり前、当たり前の光景だ。だがその日常は、アトランティカを守護する精霊力なしにはありえないのだ。災害獣、滅史の災魂、そしてロジカ。アトランティカは幾度の外敵の侵略を受け、傷ついた。新たな精霊神を必要としていた。

 イースラ本土、トポカ宮の中庭の桜並木の中を、ミスルギとイズルハは歩いていた。
「おまえが精霊神になんかならなくたっていいじゃないか」
 とミスルギが言った。
「そういうわけには、いきません」
 とイズルハが言った。
「いっちょまえに責任でも感じているつもりなのか? 災害獣の討伐で、味方を殺したりしたことを……」
「そういうわけではありませんが、わたしの剣で死した兵たちには申し訳ないと思ったことは否定できません」
「おまえは、まだ二十歳にもなっていないというのに………」
「年齢は関係ありませんよ」
「負けたままで逃げるつもりなのか?」
「試合だけで数えても、一勝一敗なので負けたままじゃあありませんよ」
 ミスルギが立ち止まったので、イズルハも立ち止まらざるを得なかった。
 しばらくしてから、ミスルギが言った。
「精霊神になるっていうのは、どういうことかわかっていたのか?」
「ええ、わかっていましたよ」
「なのに、なのに………」

 ミスルギは力なく膝をついた。トポカ宮の中庭には、精霊神を称える石碑が安置されている。刻まれている名はふたつ。
 ひとつは海神エン・ハ。
 そしてもうひとつは《蒼世の女剣神 イズルハ》
 それが現世での肉体を捨て、亜神と化して世界を護った者たちの名だった。

「おまえはなんで………」
「泣かないでください」
 イズルハは言ってやったが、何を言ってもミスルギには届かない。亜神と化したイズルハとただの人間でしかないミスルギは、生きている世界が違うからだ。
 それでも――それでもイズルハは彼女の傍に立ち、彼女の言葉に応えた。

 ミスルギはずっと泣いていた。ずっと、ずっと。



 室内だというのに、天井に飾られた煌めく光で大地は照らしているのだから、まったくもって奇妙な空間だった。
 砂を撒いた舞台はほぼ円形で、馬で駆けられる程度には十分な広さがあった。その舞台の外には段々と長椅子が拵えられていて、そこには人のように見え、しかしどこか違う者どもがこちらを見下ろしているのだから、まさしくこの場は闘技場だ。

 そして、女はその中央に立っていた。
「勝者、《蒼剣白華 イズルハ》ぁ!」
 どでかい声がイズルハの名とその勝利を叫んだ。声の主は舞台上にはおらず、その場所も特定できないのだが、これだけ馬鹿でかい声をしているからには、きっと山を突くほどの巨人なのだろう。身体が大きすぎて、この会場に入れないに違いない――しかしそれならそれで、どうやって闘技場の中で行われた試合の内容を解説することができるのだろう。
 いや、考えても無駄か。この場所――〈神闘場〉と呼ばれる空間は明らかに異常であり、イズルハの常識からは逸脱していた。そもそもからして、この〈神闘場〉には唐突に呼び寄せられた――三世界15の国の英雄英傑たちが――のだが、その呼び寄せた主の正体さえ明らかではなかった。
 だが召喚英雄が召喚されてすぐに己の使命を理解するように、呼び出された英雄たちはこの〈神闘場〉の目的を理解していた。すなわち、闘うこと。闘い、そして最後に勝ち残った者こそが、真なる勝利を手にすること――「その真なる勝利」が何なのかについては、各人各国によって異なるだろうが、誰の彼の心の奥底にも眠る欲望を引き起こすのには十分だった。切り伏せた者が試合場の外に出れば治るので、いくら怪我をしてもかまわないというのも、闘いを助長させた。

 だがその中で、イズルハの心はどこか冷めていた。
 その理由は、彼女が召喚英雄だからだろう。レ・ムゥのミスティカに召喚されたイズルハは、その剣の腕前ですぐに取り立てられ、王族の寵愛を受けることになった。剣を磨き、腕を讃えられ、何不自由無い暮らしをしながら、しかしイズルハの心はどこか物足りなさを感じていた。
 召喚英雄はかつての信仰を忘れる。だから、イズルハの心にあるこの引っ掛かりは、信仰とは違うものなのだろう。己がかつて存在していた世界――名前どころか情景のひとつでさえも思い出せないその世界に、自分はいったい何を置き忘れてきたのだろう。そんなふうに思い悩んだ。

 悩みながらの剣ではあったが、〈神闘場〉に来てからのイズルハに敵はいなかった。レ・ムゥで起きた未曾有の事態に比べれば、この闘技場での闘いなど児戯に等しい。他の二世界の英雄たちがどれだけの危機を潜り抜けているのかは知らないが、〈狂歴の魔覇者〉によってクロノグリフを書き換えられたなどという歴史を持つ世界を生き抜いてきた者など他の世界にはいないに違いない。
「次に出て来る者はいませんか?」
 とイズルハは対面遠くの敵国の待機所を睨んで問いかけた。相手の国の精霊力は、どうやらミスティカと同じく水の力を司るらしい。アトランティカだとかいう世界から来たとか聞いた。
「いないなら、こちらの勝ちで――」
「待て」
 と力強い声が相手国に背を向けようとしたイズルハの鼓膜を打った。
 相手国の待機所の前に、ひとりの女が立っていた。明るい髪色で少女めいた容姿の、猫のような瞳をした女だ。なぜか彼女は仲間たちに引き止められようとしていたが、彼女は着物の袖を掴もうとする腕をすり抜けて跳躍し、〈神闘場〉の舞台の上へと降り立った。
「いつからそんな横柄な態度を取るようになったのかは知らんが、おまえが誰にも負けないとでも思っているんだったらおれと戦ってもらおうか。だがな、もしおまえがおれに負けたら、おまえの身柄をこちらに譲ってもらうぞ



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