小説メギド72/『2ガンズ』-2


2


 野太い叫び声がどこから聞こえてきたのかはわからない。ただでさえ音が通りやすい木造の建物内なのである。しかし、下から聞こえてきた、ということくらいはわかる。
 吃驚した表情のイトの腰を掴むと、アンドレアルフスは彼女の身体をマルコシアスに預けた。追放メギドであるアンドレアルフスたちは〈ソロモン王〉の指輪を通してフォトンの恩恵を受けることができれば人外の能力を行使することができるが、彼がいない現況では一般人よりいくらか強く、場慣れしているだけのヴィータである。であれば、マルコシアスが出るよりアンドレアルフスが前に出たほうが良い。
 マルコシアスは何かあるとすぐ前へ前へと出てしまうので、イトの存在は彼女が先行しないようにするための良い荷物である。先に見てくるから守ってやってくれと、目だけで伝える。
 
 登ってきた階段を一段抜かしで駆け下りる。先ほどの悲鳴は、転んだだとか、虫がいただとか、そんなレベルではない悲鳴なのは明らかだった。命に関わる何かが起きたという、そんな悲鳴だった。
 一回に降りてみると、ちょうど玄関横の部屋に通じる暖簾から不安そうな表情の女将カミーオが顔を出していた。土間にはちょうど旅館を訪ねてきたと思しき赤いバンダナを巻いた商人風の若い男が立っていて、こちらも不安そうな表情だった。
「今の声は?」
 とふたりに尋ねると、商人風の男のほうは首を振ったが、女将のほうは奥の通路を指指した。
「向こう……おそらくは大浴場かと」
 どこが大浴場なのかは聞いていないが、とにかく指を指された方向へと走る。後ろから女将らも追いかけてきているようだが、足が遅い。
 通路の途中、九十度回転したT字路になっているところで銀髪の男と出くわした。アンドレアルフスより背が高く、体格が良い。
 左の腰に手を回しかけた男に反応し、アンドレアルフスは先を機そうとした。抜剣の動作。柄頭を抑える対応。しかしその必要はなかった。男はそもそも剣を佩いていなかったからだ。

 バツが悪そうな表情で、しかし銀髪の男は冷静になったらしかった。
「あんたも声を?」
 肯く。「大浴場というのは、どっちだ」
「この先だ」
 銀髪の男の先導に従って、そのまま駆ける。浴場は男湯と女湯に分かれており、それぞれ青と赤の暖簾がかかっていたが、ほかにも『清掃中』と書かれた札があった。
 男は迷わず青い暖簾の男湯に飛び込み、アンドレアルフスも続く。
 簀子の敷かれた脱衣所からさらに先の扉の向こうには、石造りの露天風呂が広がっていた。広い風呂だったが、お湯はなかった。整理されて積み重ねられた椅子や桶。高い竹を編んだ壁で囲われた空間。それら風呂場に調和したものとはまったく異なるものが、そこにはあった。
 仰向けに倒れて頭から血を流して倒れている男。
 その傍らで尻餅をついている薄汚い恰好の黒髪の男性。
 そして片手に斧を持った、赤髪の青年。

「動くな!」と銀髪の男が叫んだ。「おれは自警団だ。抵抗しようとは思うなよ。大人しくしろ」
 青年を警戒する自称自警団の男の肩に、アンドレアルフスは手をやった。
「落ち着け。斧には血が付いていない……彼がやったわけではないだろう。そうだな?」
 とアンドレアルフスが青年に尋ねると、彼はこっくりと頷いた。背が高く筋肉質だが、顔つきや動作にはどこか幼さが残る。まだ十代かもしれない。
「ともかく、様子を………」
 と近づいてみたものの、頭から血を流している男が手の尽くしようがない状態であることは、素人でもすぐにわかった。瞳孔が開いており、心臓が止まっている。血も吹き出すことをやめていた。血に塗れてはいるが、触らずとも頭蓋骨が凹んでいるのがわかった。
(事故……ではなさそうだな)
 温泉であれば、石鹸を踏んづけてつるりと滑って、などという事故は想像しやすいが、清掃中の札がかかっている温泉だ。しかも被害者は服を着ている。

 調べている間に人がやって来た。玄関のところにいた女将と商人風の男、その後ろにはマルコシアスとイトもいた。さらに遅れて眼鏡の白髪混じりの男性に、恰幅の良い女性も。どうやら宿の客はこれで全員らしい。
「通してくれ。事故かね? わたしは医者だ」
 と白髪混じりの男性はマルコシアスらを押し退けて倒れている男の傍らに膝まづいたが、手の施しようのないことを悟って立ち上がった。
「これは……もうどうしようもない。亡くなっています」
「そんな、トウゾックさん………!」
 女将が悲痛な声をあげる。風呂場で死んでいた男は、トウゾックという名前らしい。

「何があったんだ? おれは自警団のマモルーだ。状況を話してくれ」と自称自警団の銀髪の男は、まず斧を持っている若い男に向き直る。「きみはここの従業員だな。アルバとかいったか」
 という問いかけに、斧を持っていたアルバはこっくり頷いた。
「何があった?」
「裏で薪割りをしていて、悲鳴が聞こえたから来た」
 アルバの声には恐れや逡巡は感じられない。シンプルに言うべきことを正直に言ったというように見える。
「なるほど……では、あんたは? 見た覚えのない顔だな。宿泊客ではないな?」
「お、おれは……」と、黒髪の薄汚い男の喋り方は、アルバとは対照的だった。「おれは、ここに来たばっかりだ。おれは殺ってねぇ。おれじゃねぇ!」
「誰もあんたが殺したなんて言ってない。だいたい、あんたが殺したんだったら、叫び声なんてあげないだろう。疑ってはいない」
 とマモルーは言うが、その言葉には幾分かの猜疑が含まれているように聞こえる。実際のところ、何か諍いが起き揉み合いになって、という展開があれば悲鳴をあげてから殺す、あるいは殺してしまってから悲鳴をあげる、ということはありえないわけではない。
「おれは……ウッタガッタという。客じゃねぇ。来たばっかりで……」
 ウッタガッタと名乗る怪しい風態の男の言葉は不安定であったため、詳細を聞くためには粘り強い根気を必要とした。
 彼はトウゾックという死んだ男を追ってきて旅館にやってきたばかりで、入口から入ると追い返されそうだったため、外の木を伝って建物に攀じ登り、降りられそうな場所を見つけて浴場に降りたところ、追っていたトウゾックの死体を発見、大声をあげたのだという。

「登って入った」というところでカミーオ女将が不快そうな顔をしたのが見えたが、単に住居に入られたというだけではなく、外から建物に登って温泉を覗けることが判明したからかもしれない。
「胡散臭いな」自警団のマモルーは顔を顰める。「トウゾックさんを殺そうとずっと張っていたんじゃないか?」
「そ、そんな………」
「嘘は言ってない、と思う」とアンドレアルフスは助け舟を出してやった。「少なくとも、来たばかりというのは本当だ」
 ウッタガッタと名乗る怪しい風態の男には見覚えがあった。馬車を降りたときに見た男だ。アンドレアルフスたちと同じく来たばかりというのは間違いないだろう。
 自分たちの立場も含めてそう説明してやったが、しかしマモルーはなおもウッタガッタを疑っているようだった。
「だいたい、なんであんたはトウゾックさんを追っていたんだ? おまえ、何者だ?」
「おれは……」ウッタガッタは俯いて何かもごもご言っていたが、やがてこうしていても仕方がないと悟ったのだろう、決意したように言った。「盗賊だ」
「盗賊だと?」
「そ、そうだ。トウゾックもそうだ」
「馬鹿言うな、おまえはともかく、トウゾックさんが盗賊だなんてことあるか」
 とマモルーはあくまでウッタガッタに厳しい。カミーオ女将も「トウゾックさんが盗賊だなんて………」などと言っているので、トウゾックという男はよほど人当たりが良い人物だったらしい。

「おれは盗賊って言っても、廃村とかから拝借しているだけだ。強盗とかじゃねぇ。空き巣だ。人を傷つけたりはしてねぇ……トウゾックのほうは知らねぇが。たまに組んで仕事をするが、あいつはおれの金を盗んで逃げたんだ」
 つまり、ウッタガッタという男はいわゆる火事場泥棒の類か。本人の言が正しいなら、だが。
「本当か? だが、やはり怪しいな……」とマモルーは疑いの姿勢を崩さない。「やはりお前が——」
「それは違うような気がするよ」と割り込んできたのは、死体に膝まづいて様子を見ていた医師だった。「簡単に診たんだが、死亡推定時刻は三十分程度前だな。馬車で来たってことは、彼とその銀髪の彼、それにそこの金髪のお嬢さんが宿に来たのは十分から十五分程度前だろう? 二階の部屋から馬車が見えたよ。そうなると、彼らには殺せない」
 確かにその通りで、ウッタガッタとマルコシアス、アンドレアルフスは容疑から外れる。
「それに、これはヴィータの力でどうこうしたというレベルではないな。頭部の破損が酷い。ハンマーで殴られてもこんなふうにはならないだろう……それに、気になるのはあの血文字だな」
「血文字?」
「死体の傍の字だよ。気付かなかったのかい? ま、とにかく街から自警団を呼んだほうが良いな」

 アンドレアルフスも気づかなかった。接近して確認しようとしたが、アンドレアルフスより先に声をあげたのはマルコシアスだった。
「ソロモン王……!?」
 彼女がこの場にいない者の名を読み上げて驚いたのも無理はない。死体の指先で書かれた血文字はまさしく「ソロモン王」としか読めなかったからだ。

←前へ


0 件のコメント:

Powered by Blogger.