正義の海/1/4 虹村億泰 -4



 スタンドの拳を眼前に受けて、鹿又刑事は一切の反応を示さなかった。
鼠入(そいり)さん、どう見ますか?」
 と、ただ仗助を制した砲台の持ち主へと水を向けた。
「はぁ……まぁ、そうですね」
 思案気な言葉を吐き出したのは、鹿又の隣に座る若い女である。自分たちとさほど変わらぬ年齢に見えるが、いちおうスーツ姿なので社会人に見える。いちおう、というのはあまりきっちりとした着こなしではなくラフに着崩していて、短い髪も跳ね毛だからだ。眠そうな瞳も合わせ、いまいち警察官には見えない——が、刑事なのだろう。しかも〈スタンド使い〉。
「とりあえず、東方くんには拳を下ろしてほしいですね」
 眉根を顰め、鼠入と呼ばれた女は言った。仗助が舌打ちひとつしてスタンドを引かせるが、完全には収めない。マネキンのようなスタンドと鼠入の砲台は睨み合ったままだ。
「なぜ拳を?」
「自由に動かせる、ってのを見せただけだ」
「きみはいつもそんなふうに喧嘩っ早いの?」

「いやいやいやいや」険悪な空気が流れ始めた仗助と鼠入の間に億泰は勢い良く割り込んだ。「いや、すいません。そうじゃないんです、たぶん。なんか、ほら、気が立ってて、いま。いつもはこうじゃないんですが、スタンドを奪われるなんてのは始めてなもんで………!」
 必死で言葉を紡ぐが、もともと億泰は口が回るタイプではない。仲裁など、何を言えば良いのかわからない。
 割って入った億泰を無視して睨み合う仗助と鼠入に対し、噴上はどこか愉快そうに眺めていて、これは彼の常なる姿勢だ。つまり命のやりとりにはならない、ただただ険悪になっているだけだと面白がっているのだろう。一方で鹿又はといえば、こちらは一定の表情で静かに水を湛えたような色合いで、観察しているような、まるで野生動物を観察しているかのような調子に見えた。

 誰か来てくれと、そう願ったときにまるで見計らったように応接室の扉が開いた。
「失礼します」
 という丁寧な言葉と軽いノックに続けて入ってきたのは、またしても女だった。今度もまたしても刑事には見えない。
 といっても、その方向性は鹿又や鼠入とはだいぶん違う。黒のビジネススーツだが警察署が似つかわしくない美人で、急須や湯呑みの乗った盆を携えている。秘書か何かだろうか。いや、警察に秘書などいないだろう。であれば刑事か。噴上が口笛を鳴らす。恥ずかしい。やめてほしい。

「っと……お邪魔でしたか」
 互いにスタンドを突きつけて睨み合う仗助と鼠入を見た女の言葉は、いささかズレたものであるかのように感じた。まったく危機意識がなく、子猫の喧嘩程度にしか感じていないのではなかろうか。
「いや、大丈夫です。猪瀬(いのせ)さん、いま手隙なら、ちょっと同席してもらって良いですか?」
 と鹿又が促すと、猪瀬と呼ばれた女は頷き、テーブルの上で人数分茶を注いでから、長机の短辺にまるで刑事と高校生の戦いを見守る審判のように座った。その頃には仗助も鼠入も、互いに突きつけあっていた矛たるスタンドは納めていた。

「ざっと状況を説明しますが——」
 と前置いて鹿又は億泰たちを紹介し、事件のあらましを語った。こうした事件については語り慣れているのか、彼の説明は億泰に比べればずっと端的でわかりやすかった。
「ふむ、なるほど」と猪瀬刑事は頷く。ひとつひとつの所作が絵になる人物である。
「ぼくがいちばん気になっているのは、『覚えていない』という部分なんですよね……猪瀬さん、記憶を失わせるようなスタンドに心当たりはないですか?」
 うーん、と猪瀬は腕を組む。「《ジェイル・ハウス・ロック》あたりはそうですが………」
「記憶を失わせるようなスタンド使いがいるのか?」
 と噴上が好奇心を刺激されたのか訊いた。
「失わせる、というか、失う、ですね。スタンド使い本人の記憶の一部を消失させます」
「は?」
 噴上が間抜けな声をあげたが、億泰も同じような声をあげるところだった。
「特定のことを、完全に、さっぱり、忘れてしまうんです。能力で思い出すことも可能ですけどね」
「そんなスタンド、何の役に立つんだ?」
「警察としては、被疑者が事件の特定の記憶を失うとかなり困るんですよ。それに、箸には箸の、槍には槍の役目があるものですよ……」ですが、と猪瀬は続ける。「《ジェイル・ハウス・ロック》では他人の記憶を失わせることはありませんね」
でも、自分の記憶なら?」鹿又が確認するように問いかける。「噴上くんたちは一部記憶を失っているようですが、その記憶は何かおかしいところはないですか?」

 ある。
 急に心を読まれたかのようなことを突っ込まれたのでどきっとした。
 億泰は自分の記憶の異常な点について説明する、事件当時の記憶について、なんとなく「自分のことを自分で見ているような」覚えがあった。
 奇妙な感覚で、なんと表現すれば良いのかわからない。まるで3Dのゲームを操作しているよな、だろうか。しかしゲームなら普通、操作者である自分自身の背後から守護霊のように見ることになるだろう。だが今回の場合は、逆に自分自身を正面から見ているかのような視点が入り混じっていたのだ。
「おれもだ」と噴上が同意する。「なんていうか、自分の記憶じゃないものが混じっているようで……変な感じだ」
 仗助も頷く。彼の記憶も異様になっていたらしい。

「そもそも、本当に男だったのかすら……」
「いや、男だったぜ? そりゃ覚えてる」と噴上が意外そうに言う。「おまえ、覚えてないのか、仗助?」
「覚えてねぇ……くそっ、なんでだ?」
「おまえ、下唇噛んでるぞ」
「噴上、匂いを辿れないのか? スタンドがなくても、鼻は確かなんだろ」
 仗助が提案する通り、噴上の嗅覚は犬並だ。臭いだけで個々人を特定するだけではなく、体調や感情すら推定できるほどである。
「おれもそう思ったさ。臭いさえ覚えてりゃ、簡単に見つけられるってな」噴上は肩を竦める。「だが、臭いも覚えちゃいねぇ。どんな人間だって、特徴的な体臭があるもんだが……さっぱり思い出せねぇ」
「くそっ、使えねぇ」
 と仗助が珍しく毒を吐いたので、億泰も噴上も逆に毒気を抜かれた。
「おいおい、そりゃねぇだろ、仗助」と噴上が宥める。「こっちだって被害者なんだ」

「《クレイジー・ダイヤモンド》がおれに攻撃してきたんだぞ!」
 仗助が震えた、怒りに滾った声だった。ああ、あいつは、おれの《クレイジー・ダイヤモンド》を、おれのスタンドを。「おれのものを奪ったんだ」仗助が拳をテーブルへと打ち付ける。重い音が響く。噴上は肩を竦め、億康は鹿又を伺う。彼は仗助の行動を咎めるでもなく、小さく呟くだけだ。
「奪う、か………」
 仗助も噴上も、彼の呟きは聞こえていないようだった。
 仗助はなおも興奮した様子で怒気を吐き出す。「あいつ、くそう、思い出せねぇ! なんでだ、畜生。くそ、思い出せたらすぐにぶん殴りに行ってやるのに………」
 それは億康でも殆ど見たことがないほどの、仗助の激しい怒りであった。クレイジーダイヤモンドを失ったことに焦りを見せている。〈矢〉でスタンドを得た、いわば人工的なスタンド使いである億康や噴上とは違い、彼の場合はスタンドは幼い頃から共にあったものだ。それが急に消失したことで、途方も無いほどの怒りを感じているらしい。

「成る程、思い出せない。やはり、そこに戻るわけですね」
 と鹿又はしかし、仗助の怒りを受け流した笑顔で言う。
 そう、そうなのだ。思い出せない、ということは、鹿又に助けを求めた億康たちが、彼の質問に対する返答として用いた、もっとも多くの解答であった。
 対して、鹿又は違った。これまでにない、そして予測していたものとは違う言葉を吐き出した。
「犯人のスタンド使いにはひとり心当たりがあるので、これからそちらに向かってみたいと思っています」
「心当たり? 『スタンドを奪うスタンド使い』に!?」
 と仗助が焦りを隠さぬ声色で問いかけても、鹿又は水面のように穏やかなままだった。
「そのようなものです」
「あんた」と噴上が胡散臭そうな目で鹿又を見る。「警察なのにそんなに危険なスタンド使いを野放しにしておいたってのか?」
「彼は刑務所にいました……残念ながら、過去形ですが。その男は——」

 鹿又が言葉を続けようとしたときだった。
 何かが入ってきた。何か。ドアを開かずに部屋に入ってこれる何か。
 それは噴上裕也のスタンド、《ハイウェイ・スター》に見えた。

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