正義の海/1/3 虹村億泰 -3



「思い出せない」
 虹村億泰が発したその言葉は、嘘ではなかった。思い出せない。確かに見たはずなのに、思い出せないのだ。
「ふむん。ではもう一度、最初からお話をしてもらいましょうか
 柔和な口調で言ったのは、人の良い笑顔を湛えたどこにでもいそうな平均的な容貌の中年の男性だ。いや、平均的な、より多少は劣るかもしれない痩せ男。小柄だが人好きのしそうな男。だが場所がM県警刑事課のオフィスであるからには、見た目どおりの中年というわけではない。億泰はそのことを知っている。彼の名は、鹿又安綱(かのまたやすつな)。M県警刑事課の警部であり、億泰らに対スタンド犯罪の刑事の話を持ちかけてきた人物である。

 かつかつと苛立だしげな足音が響いている。億泰はちらりと視線をソファの隣に腰掛ける東方仗助に視線を向けた。足音を響かせているのは彼だ。貧乏揺すりである。両手を顎の下で構え、これまで見たこともないような余裕のない表情をしている。
 一方で、反対側に座る噴上裕也を見れば、こちらもやはり片手を顎にやっている。しかし余裕がないというよりは、思案気な表情で構えている。実際に考え事をしているようで、視線はじっと何も無い壁を見つめている。

 どちらも、説明ができるような状態ではない。たぶん、いちばん冷静なのは億泰だ。唇を舐めてから、説明を始める。
「おれたちは、喫茶店を出て少し歩いたところで、男に声をかけられました。その男は、『スタンド使いだな?』というようなことを聞いてきました。喫茶店に入っていたときに、仗助がスタンドで子どもの靴を直してあげたので、男はそれを見て、仗助がスタンド使いだと思ったんだと思います」
 言葉を紡ぎながら、まるで小学生の作文だ、と己の説明の仕方を批評してしまう。
「いや、あいつは『おまえらは』って言い方してたぜ」と考え事から戻ってきた噴上が口を挟む。「スタンド使いってのは、何となく判るもんだ。経験的なもんかな……。あの男も、勘に近いもんで、おれたちがスタンド使いだって悟ったのかもしれねぇ」
「単におれたちが《クレイジー・ダイヤモンド》が靴を直すのを見てて驚かなかったから、ってほうがしっくりくるんじゃないか?」
「まぁ、そうかもしれんが、べつに同じ喫茶店にいたって限定する必要はないだろう、ってことだ」
「成る程、わかりました」と鹿又が介入する。「そのあとのことを説明していただけませんか?」

「そのあとは……あの男は、『戦ってみよう』みたいなことを言い出しました。おれたちは意味がよく理解できなかったけど、あの男は問答無用でスタンドを出して、近づいてきました。危険だと判断して、おれたちは戦うことにしました。まだ距離があったので、噴上が最初に《ハイウェイ・スター》を出して、殴りかかった……」
「だが、あの男に殴りかかった《ハイウェイ・スター》は、あの男のスタンドに掴まれて止まった」と噴上が話を引き継ぐ。「それで、仗助が前に出た。あの男のスタンドが《ハイウェイ・スター》を相手にしている間に、ぶちのめしちまえば良いと思ったわけだな。タイマン? 正々堂々? そんなの知らねぇ。
《クレイジー・ダイヤモンド》はあの男に向けて殴りかかった。当たった。拳が当たったはずだった。だが、なぜか倒れてるのは仗助だった」

「なるほど。打撃がヒットするのをうまく逸らしただとか、攻撃を跳ね返した、と、そういうわけですか?」
「たぶん……違う、と思うんすよねぇ」
 億康は躊躇いがちに言葉を紡ぐ。噴上も、「おれも違うと思う」と同意してくれたため、ほっとした。
「違う、というのは?」
「その……上手く説明できないんですが、確かに《クレイジー・ダイヤモンド》の攻撃は当たったように思うんです。当たったはずで、男は仰け反って、それで……でも一瞬あとには、そいつには傷なんて無くて、逆に仗助が攻撃を受けてて……すいません、ほんと、よくわかんなくて」
「いえ、続けてください」

「それで、たぶんなんかのスタンド能力じゃないかと思ったんです。だから一度距離を取って様子を見ようと思ったんですが、《クレイジー・ダイヤモンド》も《ハイウェイ・スター》も消えてた……んだよな?
 と後半は噴上に尋ねたものである。
「だな」と彼は頷いた。「どこを見渡してもいやしねぇ……自分のスタンドなのにどこにいるのかわからない。そんな状態になっちまったんだから情けねぇ。
 ま、それは一瞬のことでな。いつの間にか男の近くに《クレイジー・ダイヤモンド》が立っていた」

「《ハイウェイ・スター》は?」
 と、ここで初めて鹿又が億泰や噴上の説明に割り込んできた。
「《ハイウェイ・スター》は見当たらなかったし、どこへ消えたのか探す余裕もなかった……というか、代わりに得体の知れないものがあったから、その、なんだ、混乱した」
「それが、そこにいるという、それですか」
 と鹿又は指示語だけでソファの横に立っている物体を示した。

 一言で言えば、それはマネキンだ。
 スタンドの形は、歪だ。人型をしていることが多いが、それは頭があって二本ずつの手足があって、というおおよその形態がそうであるというだけで、細部を見ていくと人間とまったく違う形をしているものが大半である。目鼻がないことなど珍しくないし、身体のあちこちに空洞があったり、無機物のような部品が付いていたりもする。スタンドが精神の反映ならば、人間の精神というものがそれだけ歪ということなのかもしれない。
 が、それはつるりと、ぬるりとしているだけだ。何の装飾もない。窪みもない。まるで事件の再現VTRのようなマネキン。それだけ。

「東方くんも……」
 鹿又に促され、仗助は無言で己のスタンドを出した。《クレイジー・ダイヤモンド》ではない。噴上のものと同一に見える、マネキン。
「虹村くんも……」
 促されて億泰は同じくスタンドを出す——出すが、それはマネキンではない。円柱状の頭と世紀末のタイヤのような肩を持つスタンド、《ザ・ハンド》。

 虹村奥泰のスタンドは奪われなかった。

 あの「スタンドを奪うスタンド使い」と戦ったときの記憶は曖昧だ。いくつかのことは覚えているが、いくつかのことは忘れてしまっている。忘れてしまっているのは、犯人の容貌や声質などで、つまり敵の追跡に役立つものばかりなのだが、余計なことは覚えている。
「なんだ、役に立たねぇスタンドだな」
 あの男は、そう言った。細かい言い回しは違っているかもしれないが、そう罵倒した。役立たずのスタンドだと。だから奪わなかったとでも言うのか。

「そのスタンドは……きみたちの意思で動かせるのですよね?」
 と、億泰の気持ちには気付かないようで鹿又はそんな疑問を呈した。
「それは——」
 噴上が答える前に動いた。スタンドが。マネキンが。鋭い拳が一閃、鹿又に飛んだ。
「仗助!」
 と噴上が叫んだので、そのマネキンが噴上のものではなく、仗助のものだとわかった。
 伸ばされた拳は鹿又の眼前に突きつけられているが、当たってはいない。ギリギリ、すんでのところで、だ。寸止めになったのは最初からそのつもりだったか、それとも彼の額に銃が突きつけられていたからか。
 銃というよりは、小型の砲台という表現が正しいのかもしれない。それはもうひとり、この場にいた人物の肩から突き出ていた。鹿又以外に同席していた、刑事。スタンド。〈スタンド使い〉。



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