小説ラスクロ『太陽の鴉』/時代3/Turn5《死命の天秤》
オーディンは恐るべき存在だ。彼はただ一眼をもち、そのことを即座に見抜かれることを避けるために鍔の広い帽子をかぶっている。彼はいつも青い外套を羽織り、魔の槍グングニルを携えている。肩の上には大ガラスのフギン(思想)とムニン(記憶)がとまっているが、それは戦いの鳥であると共に知恵を探して飛ぶ象徴だ。彼は彼の館ヴァラスキャルヴの高座フリズスキャルヴから、九つの世界で起る一切を見渡すことができた。彼は怖るべき神で、尊敬される神ではあったかしれぬが、愛される神ではなかった。
キーヴィン クロスリイ・ホランド (著), 山室 静 (翻訳), 米原 まり子 (翻訳), 『北欧神話物語』, 青土社, 1983. p23より
7-117U《死命の天秤》 |
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死の機会は誰にも等しく与えられるが、命の重さは必ずしも平等ではない。
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「勝つ、ということはどういうことでしょう?」
静かな女の声が頭の中で響いた。
真っ暗な空間だった。己の手さえ見えないような暗黒の中、ただ空間が揺らめいていた。声が響くたびに振動する碧色の音が見えた。
「たとえば剣を手に相対しているときに、どうすれば勝ったといえるでしょう?
腕を切り落とし、目を抉り出し、首を撥ね飛ばした結果に訪れるのが勝利なのでしょうか?
もし目の前の敵を切り伏せたとしても、その敵の仲間がやってくるかもしれません。逆恨みして剣を持つ者がいるかもしれません。腕試しにと挑んでくる者がいるやもしれません。
それらをすべて切り伏せることなど、可能でしょうか?
ええ、それは可能かもしれません。ええ、可能でしょう。本当に強ければ。
ですがわたくしは、それほどまでに自惚れが強い女ではありません。ただ他人より少しばかりの権力を持ち、慟哭城の主と呼ばれることになっただけの夢魔女です。ええ、弱い女なのです。ええ、ですから策を弄さねばならないのです」
声の主は《慟哭城の主 パルテネッタ》で、《魔血の破戒騎士 ゼスタール》は……、いや、破戒騎士となる以前のゼスタールは、なぜ彼女の声が聞こえるのだろうかと疑問に思ったが、夢現つの意識はただ声を聞くこと以外を許さなかった。
「大切なのはバランスです。突出した力は恐れられるものです。どんなにレーテが強かろうと、それを見せびらかすのは愚の骨頂というものです。
ええ、つまるところ、勝つためには強いことが常に最善であるとは限りません。
どころか、場合によっては負けることこそが勝つための最善の手になる場合もあるでしょう。ええ、負けることによって、勝つための力が蓄えられることもありましょう。——事実、8年前のティルダナによる黒オセロテ森を中心とした奇襲を受けて、多くの国民の命は失われました。しかし代わりに団結心と対抗心が芽生えました。ええ、計画通りです。ええ、非常に喜ばしいことです」
どころか、場合によっては負けることこそが勝つための最善の手になる場合もあるでしょう。ええ、負けることによって、勝つための力が蓄えられることもありましょう。——事実、8年前のティルダナによる黒オセロテ森を中心とした奇襲を受けて、多くの国民の命は失われました。しかし代わりに団結心と対抗心が芽生えました。ええ、計画通りです。ええ、非常に喜ばしいことです」
8年前。シェネが家族を失い、ゼスタールと出会った頃だ。
声は——慟哭城の主の声は、直接的にか間接的にかはわからないが、彼女こそが黒オセロテ森にティルダナ兵を引き入れたことを示唆していた。
「何より素晴らしいのは、浮き島の遺産を有効活用するための鍵が手に入ったことです。ええ、浮島の遺産の正体はわかりませんが、有効活用しないわけにはいきません。ええ、あのオセロテ——シェネといいましたか。彼女には、ゼスタールが最後に勝つための礎になっていただく必要がありますね」
「あいつだった」
ああ、あいつだった。あいつこそが何もかも仕組んだのだ——ゼスタールは喉から振り絞るような声で言った。
「黒オセロテの森にティルダナ兵を引き入れたのは……、火を点けさせたのは……、戦火を撒き散らしていたのは……、あいつだったんだ。
あの声がおれのただの妄想じゃなかったことは、そのあとの半年、ずっと調査を続けていてわかった。ザジにも協力してもらった」
彼が言うことが事実なら、利用されそうになったことへの怒りがあるのは当然だ。
《慟哭城の主 パルテネッタ》の言う「浮き島の遺産を有効活用するための鍵」はゼスタールのことなのだろう。鍵というのが如何なる意味なのかはわからないが、しかし、それにしても、慟哭城の主に真っ向から対立するほどではなかったような気がしてしまう。
むしろゼスタールを動かしたのは、己の怒りよりも、シェネが脅かされそうになったことへの反発なのではないだろうか、とまで考えてしまうのは己に対するゼスタールの愛情を過信し過ぎだろうか。
だが、もしそうだとすれば、ゼスタールはシェネのために何もかも捨てたようなものだ。
「話してくれてありがとう、ゼスタール………」
ベッドの上に座り込むゼスタールの長い銀髪に触れようとしたシェネは、危うく壁まで吹っ飛びそうになった。《魔導戦艦 ゼスタナス》のシェネの部屋が、いや、船全体が揺れたのだ。少女趣味だと馬鹿にされることもある猫の縫いぐるみやピンク色のレース付きのクッションが床に散乱した。
「なんだ!? 敵襲か!?」
シェネは船が傾いたときの衝撃で床に四つん這いになったまま、壁の通信機を手に取った。
『5時方向から敵影。ティルダナの例の白いのです!』
通信機のディスプレイに映し出されたのは、船の後方の映像だ。低温ゆえ水蒸気が少なく、凍えるような静謐さを湛えた大気の中をゼスタナス号以外に駆けるものがあった。
《死哭の戦乙女 クロエ》の力を借りて死哭空域を脱出したシェネたちは、すぐに近くの浮き島に《魔導戦艦 ゼスタナス》を着艦させた。というのも、その場所がゼスタールが船を奪い、目指していた場所だったからだ。
伝説の浮き島、精霊島。
ゼスタールは《慟哭城の主 パルテネッタ》の企みを暴く過程で、世界を救う可能性のあるその場所の位置も特定していた。というよりも、慟哭城の主はその場所も、辿り着き方も知っていた。知っていながら、彼女は静観していたのだ。戦力バランスを保つために。自分だけが強くなり過ぎないために。
精霊島にあった遺跡の《浮き島の神門壁画》によって、シェネたちは船ごと異世界へと転送された。創造神セゴナの遺産を手にするための資格試験に。
《異界森の守護精 アデルタ》によって統治される異界森、《聖炎山の守護龍 ヴァナ・ズー》が統べる聖炎山、そして《氷魔界の守護王 ガスタルフ》が支配する氷魔界を突破し、これで伝説の遺産を手にできるはずだった。
だがこの異世界には競争相手がいた。彼らはゼスタナス号よりも早く、精霊島に辿り着いていたのだ。
それが、ディスプレイに映る小型船。漆黒のゼスタナス号の砲撃を避けながら接近するティルダナの白い船。
(やっぱり、当たらない、か………)
シェネは戦況を見ながら歯噛みした。機動性能もあるが、ゼスタナス号の1/200程度しかないサイズが問題となってなかなか命中しないのだ。
本来ならば、相手は無視して構わない程度の戦力である。というのも、その程度の規模の船が攻撃を仕掛けてきたとて、こちらの魔導障壁を破るような力は無いからだ。
だが実際のところ、ゼスタナス号には2本の大穴が空いていた。ティルダナの白い船の衝角から発射された《ティルダナ式光波砲》は、あのサイズの船では想定できないほどの威力を持っていたのだ。
『ティルダナの白いのの衝角周辺に高電束密度が——光波砲が来ますっ!』
「魔力障壁を全部敵戦艦の衝角側に集中させて!」
如何に強力な光波砲でも、《魔導戦艦 ゼスタナス》の魔力障壁を一点に集中させれば、防げるとまではいわないまでも、その角度をずらすことは可能だ。あの光波砲は連射が利かないようなので、一度撃たせてしまえば、あとは攻撃に余力を割ける。
だが、物事は何事も予定通りにはいかないものだ。
『白いの、接近……、衝角突撃です!』
魔力障壁では、物理的な衝撃は防げない。
そんな当たり前の事実は技術書を紐解かずとも、巨大なゼスタナス号の尾部にティルダナの白い船が突き刺さっているのを見れば理解できた。
もうもうと巻き上がる煙の中、衝角突撃によって破壊された《魔導戦艦 ゼスタナス》号の尾部船橋にはまず3つの影が現れ、損傷度合いの確認と修復のためにやってきた《ゼスタムの戦闘員》を切り伏せた。
「姐さん、とりあえずここまでは成功っすね」
ひとりは露出狂なのかと問いたくなるほどに薄着の、大剣を携えた女剣士。《美麗なる氷刃 ソニヤ》。
「……ソニヤ、油断するな」
ひとりは静かな声で仲間に注意を促す巨漢。《剛力の空戦士 ジン・デ》。
そしてもうひとりは——。
「さて、いっちょやりますか」
緊張感のない掛け声とともに歩き出した女は、祖国では《聖求の探索者 セレネカ》と呼ばれていた。
緊張感のない掛け声とともに歩き出した女は、祖国では《聖求の探索者 セレネカ》と呼ばれていた。
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