小説ラスクロ『柿の種』/時代3/Turn7《覇仙術の抜け穴》
雨が降っていた。
濡れた呪符は指の間に挟むことは容易ではなかった。大きな雨粒が顔面を叩き、視界を遮る。ミスルギは片手で袂に仕込んでいた紙製ではなく布製の呪符を掴むと、それで髪を後ろに結んだ。長ったらしいこの髪は切ってしまったほうが良いかもしれない。帰ったら切ろう。そう、帰ることができたのなら。
「頭ぁ! また新しいの来ます!」
同じく船に乗っていた《蒼眞足軽大将》の声が大雨の中でも響き渡る。《蒼眞の剣華 ミスルギ》は前方の海面を突き破るように出現したその個体を見据えて、重荷になるだけの濡れた着物と襦袢を脱ぎ捨てた。晒と褌だけになったほうが戦いやすい。長ドスの白鞘も捨てて、柄を咥える。ミスルギは濡れた呪符を海面に投擲するや、すぐさま船を飛び降りて呪符の上に飛び乗った。
海面を滑るようにして接近してきたミスルギに対し、船の前方に現れた巨大な生物が取った行動は単純だった。《海魔の眷属》は蛸のような吸盤つきの触腕をミスルギに伸ばしてきた。ぬるぬるとした触腕に掴まれれば、もはや抵抗することはかなうまい。でなくても、この蛸の化け物は巨大すぎる。船さえも簡単に掴むほどなのだ。
三年前、当時の頭首であった父親を殺したのも《海魔の眷属》だった。当時は侵略者のことは未だ知られておらず、それはただの突然変異を起こした魔獣であると考えられていた。
だがイースラの学院に遊学中のグランドール皇女の予言で、その存在は伝えられた。世界を脅かすもの、【災害獣】。
そして【滅史の災魂】。
先駆けて情報を得たイースラが取った行動はふたつ。
ひとつはグランドールとの同盟の締結。災害獣という未知の存在に対し、ただ一国で当たるのはあまりに危険すぎた。であるがゆえ同盟を組むのは必然といえたば、同盟相手をグランドールに選んだ理由は単純だ。この予言をもたらしたのがグランドール皇女であり、彼女を通してグランドールに情報がばれてしまえば、イースラの持つ優位性は失われるからだ。
災害獣の存在は脅威ではあるが、各国に発生することが予言でわかっているのであれば、それは武器にもなりえる。他国が災害獣に対応できないうちに国土を荒らし回ってくれれば、相対的に早期に災害獣に対応できたイースラは国力で優位に立てる。逆にいえば他国が災害獣に対する情報が遅れれば遅れるほど、イースラとしてはありがたいのだ。だから災害獣の情報はグランドールとのみで共有した。
もうひとつは退魔軍アリオンの結成。それは単純な同盟締結ではなく、災害獣に対抗するための軍だ。
アリオンの結成は空前絶後の事態といえた。どうありえないことなのかというと、アリオンはイースラにもグランドールにも所属していない軍隊だからだ。国家という垣根を超え、私欲や利益を忘れて魔を払うためだけの討伐軍。
この存在はひとつめの行動と明らかに反しているように思える。ミスルギもそう思った。そもそもからして、国家を超え、共通の敵を倒しましょうだなんていうお題目はなんだか胡散臭く感じた。
アリオンの指揮官に命じられたのはグランドールの《百の剣士長 ドゥース》という男で、名前だけはミスルギも知っているのだが、青武帝がなぜグランドールの騎士である彼を指揮官に据えた軍に兵の大部分を任すのか、理解ができなかった。
ともあれ、ミスルギは蒼眞勢の頭首であるが、一軍の司令官程度のもので、国政や軍事体制に対してはそれほど発言力のある立場ではない。文句は言えなかった、が、言っておけば良かったともいまは思う。
グランドールとバストリアの国境で、《ドゥース》率いるアリオンはグランドールに出現した災害獣、《邪光の獣 ニルヴェス》の討伐に成功したという。だがその討伐はあまりに遅すぎた。アリオンたちがイースラに戻ってくるまえに、新たな災害獣が出現したのだ——イースラに。
その結果として、イースラは大部分の軍力をグランドールに駐屯しているアリオンに預けたまま、残存勢力のみで新たな災害獣と戦わなくてはいけなくなったのだ。
(とはいえ、アリオンがこちらにいても役に立ったかは怪しいものだがな)
なにせ戦場は海の上だ。重装備のグランドールの兵士など土嚢以上には役に立たないに違いない。
咥えていた愛用の長ドスを手に取り、もう片手を峰に当てる。《海魔の眷属》の皮膚表面の粘液は、刃を阻む。しかしそれは斜めに刃を入れた場合だ。正確無比に垂直に刃を突き立てれば、蛸ごときを切断するのは不可能ではない——もちろんそれは、相手が刀で切れる大きさであれば、という話だ。刀は巨大蛸の表皮に埋まった。
ミスルギは髪を縛っていた呪符を引き抜くや、足元の呪符に投げた。爆発の衝撃は刀を蛸の皮膚から抜くだけではなくミスルギの身体を軽々と吹き飛ばす。その勢いのまま、ミスルギは《海魔の眷属》の巨大な眼球の間——人間でいえば眉間に相当する場所に刀を突きつけた。巨大蛸はぶるりと身を震わせた震えたあと、その皮膚は急速に色を失っていく。やはりこいつは蛸だ。蛸であれば、ここが急所だ。
《海魔の眷属》が力なく海の底へと沈んでいくまえに、ミスルギはもとの船の上へと飛び移った。
(眷属1体ならこの戦力でも、なんとかなる………)
だが。
雨雲の下、ただでさえ暗い空がさらに澱んだ。僅かな陽を遮ったのは雲ではない。海面から半身を突き出す、巨大な女。
《海魔の獣 エインハース》。
海そのものと同化したかのような身体は、やはり海と同じように巨大だった。荒れ海の中の高波は覚束ない船を容易に飲み込むほどだったが、身体が動くときの勢いで作り出される波はどんな船でも天に運を任せるほかなかった。そして、その透き通った腕が叩きつけらるならば、もはや祈りすらもする暇さえありえない。
ほとんど爆発が起きたのかと疑うほどの轟音が船尾で響くや、船は高波に向かって加速した。船を指揮する《海部の将 ミフネ》の普段の言動はともかく、海の上ではこれほど頼りになる指揮官もいない。内燃機関を積んだ最新鋭の戦艦は巨大な腕を避け、そのまま災害獣の胴体へと突っ込んでいく。
船上、ミスルギは剣を携えたまま舳先に立っていた。
(核はどこだ……!?)
先に出現した災害獣、《邪光の獣 ニルヴェス》や《壊嵐の獣 オグ・シグニス》討伐時の状況を伝え聞く限りでは、災害獣は【宝樹】の種に似た物体を埋め込んでいたり、所有しているのだという。たとえば《オグ・シグニス》であれば、その指に嵌められた指輪についており、それを媒介にして力を操っていたらしい。便宜上〈核〉と呼ぶそれを壊しさえすれば、災害獣を完全に討伐することはできなくても、能力の大部分を使用不可能に追い込むことができる。
そして帆先に立つミスルギは、エインハースの核は見つけた。
「伝令、ミフネに伝えろ! 核は額だ!」
エインハースの腹がぱっくりと割れ、そこから槍のように鋭く伸びてくる水柱を切り落としながら、発見した蒼く輝く核の位置を《蒼眞の伝令》に伝える。船は船体を切り裂かれながら、エインハースの脇を通過して背中側に回った。
(核は見つけた。だが………)
だが、ここからどうする。
おそらくはエインハースの魔力によって引き起こされた嵐と眷属たちによる触手の妨害、そしてエインハース自身の猛攻の中で核を発見したまでは良かった。だが、位置が悪すぎる。核のあるエインハースの額の位置は、船で最も高い場所よりもさらに高い位置にあるのだ。飛び移ることなどできやしない。弓や銃ならその矢弾を届かせることは不可能ではないかもしれないが、エインハースの身体を満たす海水によって威力を失わされてしまうだろう。大砲は効果があるかもしれないが、あまりに射角が高いと狙うのは困難で、しかも豪雨の中では発射は容易ではない。氷結魔法はエインハースにはほとんど影響を及ばさせることができず、接近戦以外に有効打はなさそうだ。イースラに有翼の種族はいないが、たとえスワントや天使がいたところで、この嵐の中では役に立たないに違いない。
つまり、万事休す。
東の海へと視線を向ける。嵐で視程が悪いが、本土はすぐ近くだ。ここでエインハースを食い止めねば国が危険に晒されるというのに、ミスルギは何もできない。
ミスルギは未だ弱い。死んだ父のあとを引き継いで蒼眞勢の頭首となった。宮仕えの立場となり、本土に出入りする機会が増えた。その中で、時に〈皇護の刃〉の女と立ち会う機会もあった。もちろん、試合でも死合でもない。単なる訓練の立会だ。決着のない練習だ。
だがその中でさえ感じ取ったのは、《皇護の刃 イズルハ》の刀の鋭さであり、しなやかさであり、軽やかさだった。
実戦だけではなく、彼女が訓練している光景を見る機会もあった。見ているだけで己との格の違いを感じさせられた。
宮廷から島に戻ったあとで、何度も彼女との死合を想定した訓練を行った。何度も。何度も何度も。だが、イメージの中でさえも、ミスルギはイズルハにただの一度も勝てなかった。
(先生、あんたは磨り硝子の向こうへと通り抜けられるように努力しろとは言ったが………)
そんなのは夢幻想の類ではないのか。磨り硝子の向こうへと辿り着けるのは、最初からその障壁がない人間だけではないのか。
災害獣という、目の前に存在する明らかなる脅威を目の前にしながら、イズルハのことを考えてしまう己のことが馬鹿らしく感じた。あるいは、己はもはやこの災害獣に対抗することを諦めているのだろうか。走馬灯のようなものかもしれない。
「頭、船の中へとお戻りください」とミフネに核の位置を伝えに行った《蒼眞の伝令》が戻ってきて言った。
「戻って、何か作戦があるのか?」
「いえ、それが……核の位置を〈海部の将〉に伝えたところ、援軍に攻撃してもらうように本土に伝えたので、攻撃の余波に巻き込まれないように船の中に戻れと」
「援軍だと? あの場所へ攻撃できるようなやつがいるのか? 何人だ? いや、いまさら援軍を送ったところで、ここに辿り着くまでどれいくらいかかると思っているんだ。船が攻撃を受けないよう、ここで食い止めねば——」
「それが……援軍はひとりだと。そして、すぐに着くはずだと——」
《蒼眞の伝令》がそう伝えた瞬間、ミスルギの天性の素質が覇力の流れを感じ取った。
これから何が起きるかを理解したミスルギは、穂先から甲板へと跳躍し、覇力密度を感じ取れていない《蒼眞の伝令》の首根っこを引っ掴んで船室の扉へとさらに跳んだ。
船室に飛び込んだミスルギは、扉を閉めずに外の出来事を眺めた。《海魔の獣 エインハース》の上空に開いた《覇仙術の抜け穴》を通り抜けてきたひとりの女が剣を振るうのを。
正午を回ったくらいだというのに、その剣はさながら月光だった。《皇護の刃 イズルハ》の月の静かな輝きが、額の核ごとエインハースの巨大な頭を両断した。
覇力を纏った剣は首、胸、下腹部のみならず海さえも切り裂き、巨大な波を引き起こした。
(この女………)
波の中に沈んでいくエインハースと、落ちる勢いのままに新たに作った《覇仙術の抜け穴》に入るイズルハを眺めて、ミスルギは己に問いかけた。この女、この女に勝つなどというのは、可能なのか、と。
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