小説ラスクロ『生還の保証無し』/時代2/Turn4《静寂のハンドベル》


7-147C《静寂のハンドベル》
静寂が支配する極北の夜には、流れゆく時や物事の因果までが凍りついてしまう。



 新たな召喚英雄の出現。
 それが《アーネスト・シャクルトン》という探検家であるということ。
 ヘインドラ、メルク氷海での精霊力の異常
 そして精霊力の低下に伴う、伝説の浮き島探しの必要性

 それら4つの事実はティルダナとの小競り合いの最中に、書簡を通して知っていた。だが、己が目で見、己が耳で聞き、そして己が頭で判断しなくてはわからないこともある。
 だからティルダナの小島から帰還し、初めて《アーネスト・シャクルトン》という召喚英雄に引き合わされたあと、シャクルトンやヴィクトーが出て行ったあとも《青氷の神軍師 ミュシカ》は氷の女王の謁見室に残った。

 残った、は良い。女王は侍女さえも出て行かせたため、ミュシカと女王以外には謁見室の中にはいない。何を問い、何を得たにしても、問題にはならない。女王の機嫌さえ損ねなければ。
(それがいちばん難しいんだよなぁ………)
 心の中で溜め息を吐いていたミュシカは、女王の言葉が耳に入ってはいても理解できなかった。質問したいということがあるということで謁見室に残ったため、まさか向こうから質問されようとは思っていなかったのだ。

「すみません、女王。もう一度仰っていただけますか?」
 そう聞き返しても、女王は機嫌を損ねたりはしなかった。が、嫌味たっぷりに、いちいち言葉を区切って繰り返してきた。曰く、「ミュシカ、このヘインドラのあらゆるものは……、その女王であるわたしに捧げられるべきだと思いますか?」
「もちろんで――」
 今度こそはと、即答しかけたミュシカは口を噤んだ。

 ヘインドラを統べるこの氷の女王が、当たり前の問いかけをしてくるはずがないのだ。

「ちょうど女手を必要としていたので、あなたが国のものはすべてわたしの一人で使用できると言うのであれば、あなたから女官に頼んでもらって、何人か消費しようかと思ったのですが……」
 氷の女王が言う「女手」というのが何のことかは解らないが、碌なことではないのは明らかだ。女王の言葉は脅しなどではなく本心だろう。

「あの、女王。ぼくが訊きたいのは、此度の航海のことです」
 とミュシカは厭な雰囲気を振り払うため、無理矢理に話題を己の方向へと持っていこうとした。
「《アーネスト・シャクルトン》、彼が元の世界で探検家だったというなら、浮き島探しに関してはうってつけです。それは、わかります。
 ですが、なぜぼくとヴィクトーさんまで同乗しなければならないのですか?」
「あなたは若いのですから、見識を広めてもらおうと思ったのですが………、厭でしたか?」

 正直なことを言えば、厭ではない。
 メルク極海への航海。冒険。船旅。
 それらはミュシカが何度も書物を紐解き空想した冒険譚に刻まれたもので、実際の航海の辛さとどれほど乖離があるのかはわからないが、それにしても興味はあった。若いというよりは、幼いといってもよい年齢のミュシカに、見識を広めるべきだ、という理由も理解はできる。

 だが。
「では、ヴィクトーさんに関しては……?」
「わたくしはですね、ミュシカ。男である以上、ヴィクトーには一皮剥けていただかなければならないと思っているのですよ」
 そう言って、霧氷の女王は目を細めた。
「いまのヴィクトーは皮を被っている状態で、役立たせるには不十分です。もちろんわたくしは、ズル剥けでなくてはいけない、などと言うつもりはありません。剥けていれば剥けているだけの問題もあるのですから。
 ですが、どう足掻いても剥けないというのは、これは良くありません」

「あの……、ヴィクトーさんの、その、器とか、そういう話ですよね?」
「ヴィクトーの男としてのものの話です。
 要はですね、いざというときに剥けてくれれば良いのです。常に剥けている必要など無いのですが、いざというときに剥けていないと、これは困ります。生死を賭けることなんてできはしません」
「あの、女王?」
「ああ、いちおう言っておきますと、ミュシカはまだいいのですよ。子どもなのですから……、そのうち剥けてくるということもありますから。
 ですが、ヴィクトーは立派な大人なのです。そのうち、を期待するのは間違いというものです」

 だからわたくしは、あの《アーネスト・シャクルトン》という男の欲に期待することにしたのですよ。
 氷の女王はそう締めくくった。

「欲……?」
「ミュシカ、あなたは真っ直ぐで、素直過ぎるのが悩みではありますが、ヴィクトーには無い物を持っています」
 女王の指先がミュシカの首元をくすぐったので、ミュシカは思わず身体を捩った。こんな姿を宮廷の女官たちに見られたら、いったい何を言われるだろう。
「ミュシカ、あなたは想像したことはありませんか? 戦果を立てれば、敵に勝てば、宮廷の女官たちが、ロゼルがどんなにかあなたを愛してくれるだろうと

 ロゼルのことを指摘され、ミュシカは頬が紅潮するのを自覚した。ロゼル。ただの氷結士のロゼルから、《理性の戦導姫 ロゼル》になった年上の少女の名を出されただけで。その姿を思い浮かべただけで。

「だからあなたは良いのです。欲があるから良いのです。
 そして、あの《アーネスト・シャクルトン》という男は、ヴィクトーにはない欲を持つ、まさしく欲の塊です」
ヘインドラを統べる氷の女王は目を細め、笑った。紅を引いた唇が弧を描いた。
「ヴィクトーが一皮剥けるには、欲が必要なのです」



人いきれ、という言葉をご存知かな?」
 黒板の前に立ち、問いを投げかけた男はメルク極海の探検隊のメンバーのひとりである、物理学者のレイムズという男である。
 彼は、研究家たるもの研究室で計算をするだけではなく、実際に自分が現地に赴いて体験しなければいけないと主張する変わり者であった。もっともこの船に乗っているメンバーで、変わり者ではない者などいないのだが。

「人いきれというのは、人が集まっていると、その熱気で蒸れたような状態になることを指す。こうした感覚からわかるように、人、生物、物質というのは、そこに存在しているだけで熱を持つ。構成する分子が、熱を持っているわけだね」

 メルク極海探検船の下層、二等船室に通じる広間では、勉強会が行われていた。これは海技師以外の船員によって行うことになったもので、理由としては単純に「暇だったから」であった。
 メルク極海へ出発して1週間である。船酔いには慣れた。観測業務にも慣れた。
 となれば、暇になる。

 せっかくさまざまな分野の人間が揃っているのだから、空いている時間を有効活用しよう、ということで各分野の人間が「メルク極海」をテーマとして一日に一度、講義形式で授業を行うことになった。ミュシカはメルク極海で以前に行われた他国との戦争と、その中での作戦についてを講義するつもりだ。
 4時間交代のワッチの仕事があるため、全員が必ずしも出席できるわけではないものの、出席率は悪くない。
 物理学者、レイムズの講義テーマは「極海はなぜ寒いか?」で、熱力学に関する話だった。

「熱は物質の交換、熱伝導、輻射などによって移動するけれど、この中で最もわかりやすいのは熱を持った物質そのものの交換だね。
 たとえば、冷たい水と熱いお湯があったとき、温い水を作り出すことは簡単だというのはわかるね? 水とお湯を混ぜればよい。
 では、熱いお湯から冷たい水を作り出すにはどうすればよいだろうか?」
「冷やせばよいのでは………?」とミュシカは言ってみた。
「そう。冷やせばいい。では、外部の熱源――つまりお湯以外の物質だけど――を使わずに冷やすにはどうすればよいか? ちなみに、空気で冷やすというのも無しだよ。空気という熱源を使っているからね」

「氷結術を使う」
 発言したのはヴィクトーだった。彼までもがこの講義に参加しているのである。もっとも、彼は船酔いを完全に克服できたわけではなく、文字を見ていると気分が悪くなるらしいが。
「残念ながらその回答は不正解だ。というのも、氷結術は氷結術士から熱――エネルギーを得ているから
 正解は、お湯の中から冷たい分子だけを取り出す、だ」
「うん?」
 は? だとか、うん? だとか言いたいのはミュシカも同じだった。レイムズの言いたいことが今一つ理解できない。

「温度というのは物質を構成する分子の持つエネルギーの平均値の関数であると考えることができる」と黒板に何やら数式を書きつけながら、レイムズが嬉々として言葉を紡ぐ。「ポイントは、その物質を構成する分子ひとつひとつのエネルギーは、必ずしも同じではないということだ。
 喩えるなら……、そうだな……、ヘインドラという国家を構成するのはヘインドラの国民で平均的なヘインドラ国民というものも想定できるけれどもひとりひとりは人間だったり、セイレーンだったり、様々な種族がいる、というようなかんじかな。
 それをひとつの総体として見ると、ヘインドラという国が見える。逆に、セイレーンだけ選別して取り出してみると、それはヘインドラを構成してはいるものの、ヘインドラそのものとは大きく異なる国が出来上がる。
 同じように、ある温度の水にしても、それより温かい分子もあれば、冷たい分子もある。だから、特定の温度の分子だけを取り出してやれば、お湯や冷水を作れるというわけだ」
「そんなことが可能なのか?」
「もちろん不可能だよ。温かい、速度の速い分子だけを選り分けるにしても、それだけを取り出すにしても、何らかのエネルギーを加えずにはできない。が、確率的にそうなりえることは非常に微小な確率ながらあるし、頭の中で思い浮かべることもできる。これを思考実験というね。
 この思考実験で生まれた、分子をエネルギーの消費無く選別する生物――これを『マクスウェルの悪魔』と呼ぶ」

「でも……、存在しないんですよね?」とミュシカは問う。
「そう。もし存在したら……、何も無いところから何のエネルギーを加えずに熱を取り出すので、永久機関を作ることだってできてしまう。まぁ、化け物みたいなもんだね」

 物理学者、レイムズがそう回答したとき、探検船下層の二等船室前広間に通じる階段を降りてくる足音があった。隠そうともしない、自信に満ち溢れた足音の主は、予想通り《アーネスト・シャクルトン》であった。
「喜びたまえ、諸君。久方ぶりの陸地だ。セイレーンの島が見えてきたぞ」


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