8-108U《メルクの海面割り》
一面が青で覆われた極北世界……そこでは、恐怖は深海から現れる。



『吼える40度』。
 緯度40度を超えると陸地が殆ど存在しなくなる。例外がセイレーンの島で、魔力により特別に守られているために穏やかな気候と温暖な大気を保っている。
 が、それ以外の場所では西からの風が吹き荒れる強風地帯となる。

『狂う50度』。
 さらに緯度50度を超えると、さらに風と波が激しくなる。それまでの荒波で十分に船酔いを体験し、克服してきた船員でも新たに船酔いを感じ始める。
 荒れ狂う波は船を常に激しく揺らせる。荷は壁に何度も叩きつけられる。寝台の中で仰向けになろうとしても、常にどちらかの側を向かせられる。波が船体を叩きつける音がする。船が軋む音がする。船が砕けていく音がする。

『絶叫する60度』。
 60度を超えると陸地が全く無くなる。風は一切遮られず、甲板で立つことすら難しい強風が続く。昼間でも太陽は見えず、ひたすらに暗い海だけしか見えない。
 船の縁に寄りかかり水面を覗くと、神話に出てくるような悪魔が触手を伸ばして海に引きずり込んでくるかのような幻想に囚われる。

 船酔いによる嘔吐。
 極寒。
 食料不足。
 死。
 暗黒。
 死。
 陽の光の見えない日々。
 死。



 ヴィクトーは憔悴していた。

 船に慣れていないヴィクトーやミュシカのような乗員は勿論、航海士や甲板員といった船員までもが疲れ果てている。
 吼える40度、狂う50度、絶叫する60度と越えた極海は、異常なほど穏やかな空気に包まれている。
 凪いでいた。風は無く、まるで陸地の上にいるように、船が全く揺れていないように感じるのはセイレーンの幻覚などではない。

 船の縁に寄りかかり、真下を確認したヴィクトーは息を吐いた。
(流氷、か………)
 船が揺れないわけだ。

 寒さや飢えなら、苦しくとも我慢できる。
 メルク極海探検船を苦しめていた最大の原因は、船をぐるりと取り囲む海氷であった。

 いつの間にこうなってしまったのだろう。
 ぎし、ぎし、と船体が軋む音が一定間隔で響いていた。波が叩く程度ではない。もっと、船そのものを破壊しようとしているかのような、音。
 その構造により、同質量の氷は水よりも体積が大きい。成長する海氷は縦に横に巨大になり、船体を圧迫しているのだ。
 逃げようにも、船体の360度周囲が氷で囲まれてしまっているのだ。迂闊だったのか。いや、朝日が昇ってみればこうなっていたのだから、どうしようもなかった状況だった。
 海氷の上に降り立ち、どうにかして氷を割ろうとしても無駄だった。固着した海氷は一夜にして成長し、極海に固定する楔となっていた。

 動けない。
 どこにも行けない。
 ただ海氷が船を叩き割るのを待つだけの日々。

「飯だぞ」
 そのただ中で、隊長である《アーネスト・シャクルトン》のみが平時と変わらぬ様子で、日頃よりも多くなった雑務をこなしていた。
 彼は海氷の上に降りて氷の隙間で釣りをした日には魚を焼き、氷上探検での犬橇用に連れてきた犬を屠殺して鍋を作り、船員たちに振る舞って歩いていた。服は薄汚れ、手は傷だらけであったが、それ以外の部分は、油でぴったりと撫で付けた髪型さえ変わらない。

 初め、それは虚勢ではないかと思っていた。
 脱出困難な氷の海で、隊長として見苦しく無い振る舞いをしようと、必死で上辺を繕っているのだと。
 だが《アーネスト・シャクルトン》の振る舞いは、氷が成長し、死を目前にしても全く変わることが無かった。

 なぜこの男は、こんなにも変わらずいられるのか。取り乱さずにいられるのか。
 そんな疑問が涌き上がるのは、ヴィクトーの心に訪れたのは、後悔ばかりだったからかもしれない。
「どうした、ヴィクトー。食べないのか?」
 温かいスープが入った器を手にしたまま固まっていたヴィクトーに、シャクルトンは声をかけてきた。
「あんたは……、元気だな」
 ヴィクトーの口から出たのは皮肉のような言葉だった。
「と、いうと?」
 シャクルトンはどっかりと甲板の冷えた木の板の上に座り込んだ。
「あんたは死ぬことが怖くないように見える。こんな状況になっても、死なないんじゃないかと、そう信じているように見える。まったくいつもと変わらない。それは幸せだろうな」
「風が吹けば海氷が流れるかもしれないし、海氷同士がぶつかり合って割れるかもしれない。すぐに死ぬと決まったわけではない」
「その前に、船が砕ける」
「女王閣下が用意した船だ。見た目よりは丈夫にできている」
「おれには……、そんなふうにあの人を信頼できない」

 それは本音だった。というより、ヴィクトーは氷の宮殿に仕えるようになってから、一度として霧氷の女王を信頼できたことはなかった。彼女は冷たく、冷徹であり、触れれば触れただけこちらの心を冷たくしていった。

「わたしだって、信頼できているわけではないさ」
 にやりと笑い、シャクルトンはまるで祈るように己の左胸、心臓の位置に手を当てた。
「だがまぁ、寄る辺の無い身の上だ。信じなくては始まらない。まぁ、つまり、そういうことだ」
「そういうこと? どういうことだ?」
「物事すべて、自分の思い通り、自分の考えているようにはいかない。が、だからといってそれに文句を言うつもりはない。子どもじゃないんだ」
「だが、死ぬのは怖い。文句を言わないではいられない」
「わたしだって、死ぬのは怖い。でなければ、生物としては不完全だ。死ぬのが怖いから、死なないように努力している」

 己に言い聞かせるように言葉を紡ぐシャクルトンの唇は乾燥と冷気と疲弊で切れ、髪には白いものが混じっていた。首元には、料理の際についたのであろう煤けた汚れた汚れがあった。シャクルトンにしても、何もかもがいつも通りというわけではないという言葉が、染みこんできた。 

「帰らなければならない」
「あんたの世界へ、か……?」
 とヴィクトーは尋ねた。
 召喚英雄は魂を鋳型に流し込んだような存在である、と聞いたことがある。つまり、このレムリアナに召喚される以前の召喚英雄は、この世界での召喚英雄と同一ではないということだ。だから、真に帰るところなどあるはずがない。そう思っての問いかけだった。

 だが、シャクルトンは首を振った。
「何を言っている。ヴィクトー。わたしが言っているのは、この旅のことだ。
 探検家は常に帰還することを考えている。探検というものは、そういうものだ。帰りが無くては、行きは無い。陽が昇り、そして落ちるように、探検に赴いたら帰るものなのだ」
「帰って、どうなる?」
「名誉がある」
「そんなもの……」
「金も手に入るだろう」
「だからどうした」
「おまけにモテモテだ」
「………」
「ヴィクトー、欲を見せるのが汚れていると感じるか?」
 ヴィクトーは沈黙で肯定した。だって、そういうものだろう。金が欲しいだの、女が欲しいだの言うのは、愚かしいことではないのか。

 ああ、そうだな、とシャクルトンは受けた。
「だが、言うのと思うのでは違う。
 持たざるものは清いかもしれない、が、わたしはそうなりたいとは思わない。名誉も金も欲しい。だから努力している。そのために、努力をしている。
 そして、神は努力をしたものに微笑むものだと信じている。でなければ……」

 ヴィクトーは唐突に、膨大な精霊力の上昇を感じた。
 これは、なんだ。召喚英雄、《アーネスト・シャクルトン》の力? 否、違う。この精霊力は、もっと遠く、海の底から響くように伝わってきている。それも、人間のものではありえない。
「でなければ、報われないだろう?」
 シャクルトンの言葉とともに、巨大な深海生物が海氷を割って姿を現した。海氷が砕かれたことで、船がようやく自由の身になった。迫りくる死から解放された――。目の前に出現した怪物さえ倒すことができれば。

「さて、ここからはわたしの仕事ではない。戦うのは、騎士の仕事だ。頼むよ、氷雪騎士ヴィクトー」


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