8-111R《ヨー雪原の雪娘 セツラ》
彼女は、あふれる知恵と勇気を持つ者にだけ力を貸す。それ以外の者に与えられるのは、冷たく凍えきった、絶望的な運命だけだ。



《フロストクラーケン》……?)

 いや、違う。
 《フロストクラーケン》はこんなに巨大ではないし、触手の一本一本が《メルクの海面割り》のような牙を具えた海蛇になってはいない。いない、はずだ。
 あまり極海の生態については詳しくないので、もしかすると既知の生物なのかもしれない。

 現時点で、ヴィクトーがこの生物に関して確信できたのは、3つ。

 ひとつ、目の前の蛸に似た生物は海蛇状の触手を船に伸ばし、砕こうとしている。
 放っておけば船は粉々になってしまうだろう。この極海で船を失えば、待ち受ける運命は死だけだ。
 ふたつ、戦えるのはヴィクトーだけでだということ。
 砲台や銃は、荒れ狂う『吼える40度』、『狂う50度』、『絶叫する60度』を越える間に捨ててしまっている。もっとも、尋常な砲では触腕が船を一掴みにするような生物に通用するとは思えないのだが。
 みっつ、ヴィクトーたちはこの巨大生物の絶好の餌だ。

「全員……、船の中へ避難――」
 ヴィクトーの言葉が形になるまえに、触腕が船に叩きつけられ、甲板を砕いた。ヴィクトーは目の端で、人が吹き飛んで行くのを見てはいたが、もはやそちらを気遣う余裕は無く、甲板の上で受け身を取り、探検船唯一の武器である長剣を抜き、構えた。

(剣が果たして通るのか……?)
 型どおりの構えを取りながら、ヴィクトーは己のしている行為の一切が無意味であるかのように感じた。なにせ、触腕の太さが剣の刃渡りよりも長いのだ。大の大人を人掴みにするほどに長いのだ。うねる触腕には触れただけで切り裂かれてしまうほど鋭い、歯のような鱗が生えているのだ。
 いいや、考えても仕方が無い。どうせほかに方法が無いのだ。ヴィクトーは甲板を叩き潰し、さらに原型が無くなるまで引き裂こうとしていた触腕の一本に長剣を叩きつけた。
 折れた。

 触腕の先についていた眼球が、まるでそれだけが独立した意志があるようにぎろりとこちらを睨んだ。一口で人間を飲み込めそうな顎が開き、ヴィクトーに向けて飛びかかってきた。
 折れた長剣の刃を投げつけ、ヴィクトーは横に跳んだ。相手はまったく怯んでおらず、逆に餌と認識したヴィクトーに向け、獰猛に襲い掛かってきた。最悪だ。
 触腕なのか海蛇なのかよくわからない、鞭のような一撃を受けて、ヴィクトーは船の甲板の上で二度弾んだ。

(名誉………)
 目の前に接近してくる海蛇の顎をぼんやりと見ながら、ヴィクトーはシャクルトンの言葉を思い出していた。
 シャクルトンは言った。名誉も金も欲しい、と。だから努力をしている、と。
(金………)
 名誉と金が手に入る、というシャクルトンの言葉を受けて、それがどうした、と返したのは、単に欲が汚らしいと考えているからだけではなかった。
(女………)
 
 ヴィクトーはそうしたものに魅力を感じていなかった。
 もちろん人に認められてもらいたいだとか、最低限度の生活を送る程度の給金が欲しいだとかの気持ちはあったが、あまり多くは要らないとも思っていた。

 シャクルトンには欲がある。だから強くなれる。
 ヴィクトーには無い。だから弱い。
 死にたくないと、あれが欲しかったと、これが欲しかったと、そんなふうに思えるものが……。

 あった。
 ヴィクトーの虚ろになった眼に浮かび上がってきたのは霜氷の女王でも、死んだ両親でも、共に氷雪騎士として成長した妹でもなかった。
 それは聖砂の地、父を護るために慣れぬ刃を握り、小鹿のように震える脚で氷雪騎士に相対していた、金髪の少女の姿だった。



 寒い。
 痛い。
 駄目だ。

 海に落ちた直後のミュシカの頭の中では3つの単語がぐるぐる回っていて、それは海から海氷の上に上がってみても同じだった。いや、まだ上がっていない。上半身を海氷の上へと乗り出しただけだ。
 早く全身を氷の上へと持ち上げなければ、否、服を着替えなければ、全身が凍傷になり、死んでしまう。

 それがわかっていながら、ミュシカの身体は動かなかった。動かない、動けないのだ。割れた海氷から海に落ちた瞬間に、すべての体温を奪われてしまった。心臓が止まらず、意識を失わなかっただけ上出来だ、とわれながら思う。だが、そこで終わりだ。もう、動けない。
 どうせ氷の上に上がっても、無駄だ。なにせ、船を襲っている魔物はあまりに巨大すぎる。ただの《フロストクラーケン》でも厄介なのに、あれは一般的なクラーケンの倍近い巨体なうえ、奇妙な触腕を有している。
 おそらくは、あれがメルク氷海の精霊力の異常の原因だろう。何らかの原因で肥大化し、周囲の生物と結合したクラーケン。伝説の浮き島などではなかった。ここまで来たのは、無駄だった。すべて、無駄だった。

 もう、いいや。
 必死にしがみついていても無駄だ。だからもう手を離してしまおう。
 そんな安易ながら魅力的な思い付きは、なかなかどうして行動には反映されなかった。
(ロゼルさん………!)
 死にたくなかった。まだ死ねないと思った。だから、無駄だと思っても、手は離せなかった。

 痛いほど寒さを感じていた身体はいつしか何も感じなくなっていて、だから海から引き揚げられたときも、すぐにはそれとわからなかった。
「ミュシカ、生きていたか」
 ほとんど意識を失いかけていたミュシカは、その声で僅かに意識を取り戻した。

(召喚英雄………)
 召喚英雄、《アーネスト・シャクルトン》。彼が船から海氷の上まで降りてきて、ミュシカの身体を氷上へと引き上げていた。
 ミュシカの目に、ぴったりと油で髪を撫でつけたシャクルトンの身体は、周囲の風景や己の記憶とだぶって見えていたが、いつしかシャクルトンの姿は消え、さまざまな物が見えてきた。
 たぶん、これは走馬灯というものなのだろう。自分は体温を失って、このまま死んでいくのだろう。

 最初に思い浮かべたのは《理性の戦導姫 ロゼル》の姿だったが、だんだんとミュシカは深い記憶へと潜っていった。
 ヴィクト―。シャクルトン。
 霧氷の女王。宮廷の女官たち。
 幼い頃、家族と過ごした記憶。母。そして父。

 父もヘインドラの軍師だった。家に帰って来ても、夜遅くまで書き物をしている父の姿をミュシカはよく覚えている。
「お父さんは、召喚英雄に会ったことがありますか?」
 幼心に、そんなことを訊いてみたことがある。当時のミュシカにとって、書物を通して知った召喚英雄の存在は、まさしくヒーローとして映っていた。

 眼前の敵からのあらゆる攻撃を受け止め、味方を鼓舞するカリスマを持つ聖女、《ジャンヌ・ダルク》
 敗北を糧とし、醜い豚と罵られながら敵軍を飲み込む軍神、《ベルトラン・デュ・ゲクラン》。
 理力の力を拡散し、遠方の風景や他者の心の裡を覗き込む千里眼、《東京ローズ》。
 禁呪である次元渡りを身に付け、クロノグリフの頁を渡り歩く謎の黒騎将。

 そんな奇妙な力の使い手たちと実際に会ったとすれば、どのように感じるのだろう。そんな好奇心に満ち溢れたミュシカの問いだった。
「あるよ」
「どんなふうでした? かっこよかったですか?」
「あれは―――」
 父の声は震えながら消えていく。
 これは、走馬灯なのだ。だからきっと、幻覚なのだ。

「あれは化け物だ」

 ミュシカは恐れを纏った父の言葉を思い出す。
 眼前の召喚英雄、《アーネスト・シャクルトン》の見た目は何も変わっていない。だが彼に近づくあらゆる物は熱く、彼から離れていく空気の塊は冷え、温度の違うふたつの空気が分離されたことで、視界は蜃気楼の如く、奇妙に歪んでいた。

 マクスウェルの悪魔。
 実在しないその名、エネルギーを消費せずに熱を取り出す思考実験の上で生まれた化け物の名を、ミュシカは思い出した。


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