小説ラスクロ『生還の保証無し』/時代3/Turn8《厳冬将 ヴィクトー》


7-124S《厳冬将 ヴィクトー》
「奴が放つ闘気は、燃え上がったりはせぬ。むしろ逆だ……冷たいのだよ、あらゆる勇気も意志も凍りつくほどに。」
~剣王 ラハーン~


「簡単に言うと、だ。オセロの駒がある。表は黒で裏は白だ。いや、逆かな? まぁいいや、それはどうでもいいんだ。これを放り投げる。表が出るか、裏が出るかは、この場合半々、つまり50%だ。これを一度に大量の駒でやってみる。すると、いくつかは表になり、いくつかは裏になる。これを俯瞰すると、何色に見えると思う?
 ……そう、まぁ、だいたい灰色だね。だが、確率的には、真っ白になったり、逆に真っ黒になったりする場合もあるわけだ。マクスウェルの悪魔は、このうち、たとえば白い面のほうをまったく無視してしまったりする。白い面が見えた瞬間に、弾いて捨ててしまうんだ。そうなったら、黒い面だけが残るだろう? 真っ黒だ。灰色から黒を生み出せる、というわけだ」

「極海に生息している生物のひとつに蛸がいます。蛸は物理的には、たとえば目と目の間が弱いといった弱点がありますが、それ以上に構造的な弱点として、体力が無いというのが上げられます。
 蛸を捌いたことがある方はいますか? ――ああ、そう、うん、蛸はですね、血が青いんですよ。ふつう、人間だとかの血が赤いのは、酸素を運ぶヘモグロビンが赤いからです。蛸の場合、このヘモグロビンではない、青く見えるものが酸素を運んでいるのですが、これがあんまり効率が良くないんですね。だから長時間運動しようとしても、すぐに人間でいうところの酸欠になってしまうというわけです」

「寒冷地方に生きる民族の中には、アザラシなどの脂肪を好んで食べるものもいる。一般に脂肪分を摂りすぎると動脈硬化や心筋梗塞などの原因となるものだが、彼らの動脈硬化のリスクは他の民族と比べてずっと低いことがわかっている。それはなぜか?
 研究によると、彼らが食べているアザラシの脂肪そのものに秘密があることがわかった。簡単にいえば、だな、極海に生きるアザラシの脂肪は、低温下でも凝固しないようになっているということだ。だがそれも完全ではない。自然の中で生じる低温というのはたかが知れているもので、実験室で温度を下げれば、こうした脂も凍り付く」

(ま、役には立った)
 ヴィクトーは次から次へと思い出される、探検船での小さな講義について振り返った。小さなコミュニティの中で行われる小さな催し。これまで経験してこなかったような、学問の機会。

 首を振って立ち上がる。手で触れてみれば、頭から出血していた。己が叩きつけられた船壁を振り返れば、人の形に木材が砕けていた。この破壊具合だけ見ればなんとコミカルだろう。ここまで破壊されるほどに叩きつけられたのだ、血くらいは出る。呼吸をするたびに胸が痛いので、たぶん肋骨も砕けているだろう。咳をするたびに口から血が溢れるのは、胃か肺から出血しているからだろう。折れた骨が突き刺さっているのかもしれない。

 ヴィクトーは肥大した《フロストクラーケン》を眺めた。《フロストクラーケン》も魔力を察知してか、ヴィクトーを見下ろした。目が合う。間抜け面だ。馬鹿め。
 大気はいまや二分されていた。熱い大気と冷たい大気。氷雪騎士として氷雪術を扱うヴィクトーには、殆ど無意識に大気中の熱量が察知できた。
 上下方向なら兎も角、無風の状態で平面的にそのように空気が分割されることはありえない。なぜなら、そのほうが確率が高いからだ。冷たいものと暖かいものがあれば、混ざり合って温くなるのが当たり前だからだ。
 が、それを《アーネスト・シャクルトン》が操作している。冷えている分子だけをクラーケンのもとへと送り込んでいる。

(召喚英雄、か………)
 まったくもって化け物だが、それはあの男が召喚英雄だからというよりも、あの男だからこそという気がする。温度というのは、生物が過剰な熱を排出する手段であると同時に、寒さに対する防衛手段でもある。あの男は己を護る力が強い。根底の、原始的なそれが。絶対絶命下におけるそれが。

 ヴィクトーは《アーネスト・シャクルトン》によって分割された冷気塊から巨大な氷柱を生成し、《フロストクラーケン》の目の上の弁と漏斗状の口吻に押し込んだ。それぞれが呼吸のために息を吸い、吐き出す器官であるということは知っている。
 鰓呼吸の蛸の呼吸器官を水で満たしても意味が無い。だが氷塊なら、完全とはいえなくても、呼吸し難くする程度には十分だ。

 蛸の酸素からエネルギーを取り込む効率は高くは無い。そのうえあの化け物が元は《フロストクラーケン》ならば、冷やすことはできても温めることはできない。氷を溶かす方法は無く、触腕を使って無理矢理に氷を引き剥がすしかないのだ。
 つまり、触腕を己が急所である胴体のもとへと戻すということだ。

 《フロストクラーケン》には見えていない。戻される触腕に掴み、ぶら下がっているヴィクトーの姿が。いや、見えていても腕を戻さざるを得ないのだ。呼吸ができない苦しみから逃れるのは原始的な本能なのだから。

「寒いな」
 触腕から触腕へと飛び移り、ついに《フロストクラーケン》の頭頂部へと辿り着き、ヴィクトーは誰に聞かせるでもなく呟いた。船の上よりも、いっそう寒い。
 これだけ大気が冷たければ、それだけ氷雪術の威力も上がる。
 ヴィクトーは氷雪術で固めた貫手で《フロストクラーケン》の頭部を貫いた。ほんの表面だけ、血さえ流れないほどの浅い傷だ。
 が、これで中まで押し込めるし、簡単には振り落とされない。

(凍れ)
 すべて凍れ、とヴィクトーは想った。シャクルトンによって分割された冷えた空気の温度をさらに下げる。
「ヴィクトーさん、《フロストクラーケン》に氷雪術は――!」
 薄れゆく意識の中で、誰かの声が聞こえた。高い声だ。ミュシカか。
 凍らない? 否、そんなはずがない。メルク極海に生きる《フロストクラーケン》の身体にだって、肉はある。血は流れている。ならば凍る。ただ己の生活する環境では凍り難いというだけのことだ。それならば、それ以上に冷やしてやればよいだけのことだ。
 ほら、ヴィクトーが差し入れた手の先から、《フロストクラーケン》の体表が凍り始めている。いくらこの海獣が精霊力を操り、氷雪術の真似事までしてみせるとはいっても、化け物が操る冷気を使った氷雪騎士の氷雪術ほどではない。

 異変を察知した《フロストクラーケン》が暴れはじめるが、さて、どうするつもりだ。おれの身体を叩き落としてみるか? おい、頭の上が見えるのか? 分厚い皮膚で、どこにおれがいるのかわかっているのか?
 降り注ぐ触腕の只中で、ヴィクトーは動かずに己の氷雪術に集中した。避けても無駄だ。だったら、当たらないことを祈るしかない。そして意識を失わぬように氷雪術を保ち続けるしかない。自分にできるのはそれだけだ。
 ヴィクトーは目を瞑り、あの娘の姿を想像した。

 凍れ。



「長旅ご苦労さまでした、ヴィクトー」
 玉座の上から言葉を投げかけてくる霧氷の女王の尊大さは、1年以上の航海の前とまったく変わっていないように感じる。
 帰国して以来、女王との初めての謁見だった。
「メルク極海の精霊力の異常の原因が伝説の浮き島ではなく、肥大化した《フロストクラーケン》だったというのは残念なことでした。ですが、国の宝であるあなたたちが、30人全員無事に帰還したというのはこれ以上無い悦びです。セイレーン側へも、恩を売りつけられたわけですしね」

 女王の言う通り、メルク極海探検船の30人のメンバーは、ひとりと欠けることなく帰還に成功した。
 もっとも、無事に、と言う言い方には少し御幣がある。《フロストクラーケン》との戦いでは、殆どのメンバーが負傷をした。ミュシカやほかの海に落ちた船員の凍傷と低体温症は、《アーネスト・シャクルトン》の能力で温めることができたのだが、問題はヴィクトーだった。
 《フロストクラーケン》を凍結させたあと、そのまま船へ戻ることもできずに何度もクラーケンの身体に叩きつけられながら海に落下したヴィクトーは、死にかけだった。いや、死んだのかもしれない、とさえ自分自身で思う。《フロストクラーケン》との戦闘直後から、いまいち記憶が無い。

 ミュシカらの話によれば、調理手伝いのブラックボロがヴィクトーを引き上げてくれたらしい。そのあとはシャクルトンの能力で体温をある程度上げたものの、怪我は手持ちの器具では船医が匙を投げるほど酷かったという。
 気象学者のジワルディが星の位置から測位をして船の正確な座標を割り出し、ヘインドラ本国から医療器材を転送してもらった。あとは船医たちが必死に治療をしてくれたわけだが、血を失いすぎているから、という理由で麻酔が使えず、痛みが続いてなかなか寝られなかった。おかげで船酔いが再発し、途中で意識を取り戻してからは地獄の苦しみを味わった。

(が、まぁ生きて帰ってきた)
 もう二度と船旅など御免だが、生きて帰ってきた。それ自体は、ま、良かった。ああ、良かった。

「それで、ヴィクトー。特に活躍したあなたには、ふたつご褒美があるのです」と霜氷の女王は勿体ぶった口調で言った。「まずひとつ。これからは《厳冬将 ヴィクトー》を名乗りなさい」
 将軍位を授けるということは、つまりは昇任だ。厳冬将という二つ名は、いまいち実感が無いが、有って困るようなものでもない。

「もうひとつの褒美は、実を言うと、既にあなたの部屋に届けてあります」
 その言葉を受けて、《厳冬将 ヴィクトー》は謁見が終わるなり、すぐさま己の部屋へ向かった。

 ヴィクトーの個室の寝台の上には、拘束された女がいた。

 長い金髪の、小柄な女だった。両の手を後ろ手で縛られ、口には猿轡を噛まされていた。身体に身に付けているものはそれだけで、ほかには一切にその白い肢体を隠すものが無い全裸だった。背中には猛禽類の翼があり、下半身は魚のそれだったが、一瞬ヴィクトーは聖砂王国ティルダナの姫を思い出した。
 セイレーンの少女の、涙を蓄えた青い瞳が動いた。未だ泣いてはいるものの、どこか安堵したような表情だ。ヴィクトーは彼女が極海のセイレーンの島で出会ったセイレーンであることに気付いた。彼女のほうでは、見知った人物が助けに来てくれた、と、そんなふうに考えているのかもしれない。

 《厳冬将 ヴィクトー》は少女の薄い乳房に触れた。小さな蕾を掴まれた痛みでか、助けに来てくれたと思った男に危害を加えられたという驚きでか、あるいは単に羞恥でか、少女の目が見開かれた。
 次の瞬間には、ヴィクトーの掌から放出された冷気によって少女の身体に薄氷が張り始め、十秒と経たずにセイレーンの氷像が完成した。

 これは代用品だ。だが代用品でも一時的な楽しみには十分だ。あの女を手に入れ、同じように凍らせる機会はいつかやってくるだろう。それまでの辛抱だ。
 己が功績によって得た褒美で欲を満たし、ヴィクトーは幸せな気分に浸った。
 


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