正義の海/1/2 虹村億泰 -2



「あ」
 小さな声だった。ともすれば耳障りになりそうな甲高さではあったが、発しているのが子どもであるとわかれば心地良さすら感じる。
 声をあげたのは喫茶店の隣のテーブル席の少女だった。幼稚園児、低学年の小学生か、とにかく幼い子どもだ。あ、という小さなその声とともに注がれた丸い瞳の先にあるのはテーブルの下の少女自身の足で、横目で窺うと靴の爪先の側が裂けていた。小さな指が出てしまっていて、歩こうとすると犬のようにぱくぱくいってしまうだろう。

「靴、これ………」
 と少女はテーブルに身を乗り出す。対面の女性は姉だろうか、億泰たちとそう変わらないか、むしろ年齢より老けて見られる部類の億泰より若く見える小柄な女が、「ありゃ、十兵衛じゅうべえかな」と靴を見て言った。いまどき十兵衛という名がそうそうあるとも思えないので、犬か何かの名前なのだろう。見れば、牙の跡らしきものがある。
「いままで気付かなかったの?」
「ぜんぜん」
 と少女が首を振れば、女は優しい表情で、「阿呆だね」と辛辣なことを言った。
「どうしよう………」
「もう小さくなってたでしょ。帰りに新しいの、買ってこうか」
「オレンジのやつが良い」
「鶏みたいな?」
「ひよこみたいなやつ」
「歩ける? 足、痛くない?」
「おんぶがいいなぁ」
「わたしはおんぶ、めんどくさいんだけどな。重いし」
「おんぶがいい」

 そうした一連の遣り取りがしぜん耳に入ってきていて、億泰はちらと仗助の様子を伺う。と、彼は既に腰を浮かせて隣席の少女に声をかけていた。
「嬢ちゃん、ちょっと見せてみな。にいちゃんよぉ、実家が靴屋なんで、そういうのを直すのは得意なんだよ。靴屋まで歩ける程度には簡単に直せるぜ」と彼は堂々と嘘を吐く。
「あー、でも………」
 と女は戸惑った表情になった。仗助や億泰の格好が、明らかに優等生のそれではないと解ったからだろう。
「金なんか取んねぇよ。心配すんなって」と言って仗助はさっさと少女の靴を脱がせてしまう。自分の席に持っていき、テーブルで女たちの視線を遮ってから、ポケットをごそごそと無駄に探ったのち、靴に手をやる。「まだ修行中の身なんで、あんまり綺麗にできないかもしれないけど、勘弁してくれよな」
 彼がそう言ったときには、既に靴の穴は塞がれていた。

クレイジー・ダイヤモンド》。
 一瞬だけ見えた人型のスタンド・ヴィジョンの右腕が靴に触れた瞬間、まるで動画の逆再生でもするかのように靴の表面から糸や布地が集まってきて、穴を塞いだ。穴が塞がった部分は色が違っていたり、糸が見えていたりするが、おそらく素材が足りなかったからだろう。でなければ、本当は完璧に直せるのだが、それではあまりにも不自然すぎると思ったのかもしれない。どちらにせよ、スタンド能力によって復元した靴は、少なくとも靴屋までは十分に保つだろう。
 直った靴を受け取ると、少女は手を叩いて喜んだ。
「おにいちゃん、凄いね。わたしも大きくなったら、靴屋さんになる」
 などと子どもらしく突発的なことを言った。

 物であれば直す。生物であれば治す。そんな力を持つスタンド《クレイジー・ダイヤモンド》はもちろん便利な能力ではあるが、少女らを笑顔にさせるのは仗助自身の能力だと言えるだろう。
「すみません、ありがとうございました」
 と女が礼を言い、少女を連れて喫茶店を去ろうとする。
 手を引かれた少女は、「変な頭のおにいちゃん、ばいばーい」と手を振った。
 自分の髪型について貶されると目の前が見えなくなるほどに怒りを漲らせる、まさしく怒髪天としか言いようのない状態になる彼だが、さすがに幼子相手に暴力を振るうほど見境がないわけではない。いや、出会ったばかりの頃であればそうだったかもしれないが、年月は人を変える。「おう、ばいばいなー」とにこやかに見送った。
 ふと仗助の祖父が(歳の離れた父親の側の、ではなく母親のだ)警官だったという話を思い出した。億泰は面識がない。刑事ドラマに出てくるような捜査員ではなく、いわゆる「お巡りさん」だったらしい。人に愛された。仗助によく似ていたのだろう。

 子連れの女が店を出て行ってから、「なんだ、にやにやして」と仗助が問うてきた。
「いや、可愛い子だったな、と思ってよぉ」と億泰は答えた。「あ、子どものほうじゃなくって、ねえちゃんのほうな。胸もでかいし」
「やめとけやめとけ、ありゃあ人妻だぞ」
 と言ったのは噴上である。
「姉妹だろう。年齢的に」
「いいや、違うね。あのふたりからはおっさんの臭いも一緒にした。父親にしては臭いが似てねぇ。夫だろう。それにあの女は処女じゃあねぇしな。おれの鼻がそう言ってるんだから、間違いなく子連れの人妻だ」
 よくもまぁ、匂いだけでそれだけのことを言えるものだ。スタンド能力がなかったとしても、噴上の嗅覚は十分に長所といえるだけのものだろう。彼はかつて億泰や仗助と敵対していたが、そののちはその長所を生かし、人の命を救った。
 ふたりとも、〈スタンド使い〉だ。

 スタンド。スタンド能力。特殊な力。超能力。そう呼ぶにはその個性はあまりに多岐にわたりすぎる力。
 スタンドは天から突如として与えられた物ではない。英語では天賦の才をgift、すなわち贈り物という言い方をするらしいが、人間の才覚は単純に生まれつき与えられるだけではなく、成長する過程でも育まれるものだろう。スタンド能力もきっと同じだ。〈矢〉によって強制的に発現された億泰の能力にしても、彼の性格や育ち方を反映しているに違いない。いわばその人間の長所を形にしたようなものである。もし地球上の人間すべてがスタンド使いならば、履歴書の欄に「氏名」「略歴」「特技・趣味」「長所と短所」「自己PR」のほか、「スタンド能力」の項目が追加されるであろうことは間違いない。
(じゃあ、おれの『長所』ってなんなんだ……?)
 鹿又から警察への就職話を持ちかけられてから、億泰はそんなことを考えるようになった。 

(おれが何をやったというのだろう)
 これから会おうとしている電話の刑事——鹿又という男は、億泰が二年前の事件で活躍した、と言った。二年前の事件とは、億泰たちの町である杜王町で起きた連続殺人犯にして爆弾魔との戦いである。 
 だが彼の言ったことは間違いだ。億泰は活躍などしなかった。
 殺人犯と戦ったのは東方仗助であり、犯人の最後の抵抗を食い止めたのは広瀬康一だ。スタンドを使えぬ少年でさえ、知力と度胸を振り絞って戦った。では億泰が何をやっていたのかというと、真っ先に敵にやられ、ほとんど半死半生の有様だった。仗助のおかげで最終的には復帰し、彼の助成をすることはできたが、その助成は必ずしも億泰でなければいけなかったというわけではない。他の人間でも、相応に上手くやっただろう。
 仗助は機転が利き、何より優しい。女にもてる(これは噴上も同じだが)というのは、ある種それらの象徴のようなものだろう。賢く、強く、だから異性を惹き付ける。同性もかもしれない。魅力があるというのは素晴らしい。
「仗助の《クレイジーダイヤモンド》は怪我した人間の治療に使えるから、刑事として現場の第一線に出て負傷した仲間だとか、市民だとかを助けられる。医者なんて最適だし、そうじゃなくても、ただ人の怪我を治せるってのはすげぇ力だ」

 億泰は心の中で友人のことを思い浮かべ、それからちらと噴上に視線をやる。
「噴上の《ハイウェイスター》は鼻が利くから、探偵になって探し物だとか探し人だとかを見つけたり、それこそ刑事になって犯人を見つけるのに向いてるだろう」
 彼もまた、杜王町での連続殺人事件においては、影の功労者といえる存在だった。力があり、能力があり、何より勇気がある。
 だが。

(おれの《ザ・ハンド》は何ができるんだ?)
 そしておれは何ができるんだ?
「人殺しが精々だろう。元々、そういう力だったんだ」
 億泰のスタンド能力は兄が〈スタンド使い〉を増やした理由と同じで——あるひとりの男を殺すために生じたものだった。
 だがそのスタンド能力を持ってしても、その目的は達成できなかった。役立たずだ。何の役にも立たない力だ。

「おまえら、スタンド使いだな?」
 待ち合わせの刻限が近づいてきたために喫茶店を出て、県警までの道をぶらぶらと歩きながら億泰が己の無力感に囚われていたとき、不意にそんな言葉が投げつけられた。



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