3-115R《大雪嵐》
海魔の獣が現れた冬、魂さえも凍てつく寒さがイースラを襲った。


「ミスルギさん、おつかれさまです」

《覇仙術の抜け穴》を通ってやってきたイズルハは、災害獣の身体を両断した直後に落下する勢いそのままもう一度《覇仙術の抜け穴》を開いてその中に入ったらしい。そして新たな抜け道を作るや、今度は船の真上に転送されてきた。災害獣によって時空の破断ができやすくなっているため、覇力を扱う剣士ならば時空の抜け穴を通り抜けるのは難しいことではないのだが、それでもまるで歩くかのように抜け穴を通り抜け、茶でも飲むかのようにすぐに攻撃に転じられるのは、この女くらいのものだろう。
 甲板に降り立つ様子も、最初に彼女を迎えたミスルギを労う声も、何もかもが優雅であった。
「すごい格好ですね」
 と彼女が言う通り、逆にミスルギの恰好は悲惨なものだった。イズルハは雨で僅かに濡れた程度だったが、こちらは頭の上から爪先までびしょ濡れだ。おまけに着物は脱ぎ捨てて、晒と褌だけという有様である。
 とはいえ災害獣という、未曽有の災害相手に戦ったのであれば、これが当然だというものだ。一撃であの巨大な化け物を切り伏せ、平然としているほうが異常なのだ。

 とはいえそんなのは論理であり、感情に比べれば瑣末なものだ。半ば半裸でびしょ濡れであれば、それだけで恥ずかしいというだけのことで、ミスルギは《蒼眞の伝令》が持ってきた小袖を急いで着た。
 嵐が収まりつつあるのは、《海魔の獣 エインハース》が力を失った証左だろう。相手が異界の災害獣であれば、完全に倒したと断言することは叶わないまでも、とりあえず一息落ち着けるというものだ。少なくとも、ミスルギはイズルハの剣が災害獣の額の核を断ち切ったところまでは見ており、その点は安心できた。
 ミスルギたちの乗る軍船は既に本土へ向けて舵を取っていた。回復した視程のおかげで、港から船が出立しているのが見える。帰還する者たちの代わりに出陣した船団である。彼らの主たる目的はふたつあり、ひとつは災害獣の余波を受けて出現した《海魔の眷属》の残りの討伐であり、もうひとつは災害獣の調査だ。より正確にいえば、災害獣が使っていた宝樹の実らしきもの――核の、だ。災害獣は宝樹の実を利用して災害を引き起こす。その使い方が理解できれば、戦争に優位に立てる。上層部の考えとしては、そんなところだろう。

 ミスルギとしては、そんなことはどうでも良かった。彼女は近づきつつある港に背を向け、イズルハを見ていた。隣で無防備に頬杖をついているイズルハの背中を。
 ミスルギは白鞘の長ドスを抜くや、その背中に向けて切りかかった――所有者の性質をそのまま表したかのような優美な太刀が刃を跳ね除けた。
「ミスルギさん、何を………」
「馬鹿、背中だ!」
 ミスルギは舌打ちをして叫ぶ。相手がイズルハでなければ、きっと成功していた――敵に気取られずに彼女を助けることに。だが、ミスルギは失敗した。
「背中……?」
 困り顔のイズルハの背に張り付いた者に誰も気付かなかったのはなぜだろう。その物体はおそらくは意識を持っていて、気配を消していたからだろう。イズルハの藍色の着物と色味が似ていたせいかもしれない。なぜ鋭敏な感覚を持っているはずの彼女自身がその物体の存在に気づかなかったのかは――おそらくはそれが近くにいる者の精神に干渉するからだ。
 イズルハはゆっくりと右手を動かして己の背に回し、そうして取り出したのは半球がふたつくっついたかのような球体だった。片方は〈宝樹〉の核、もう片方は海を包み込んだような色をしていた。
(切断した宝樹の核にエインハースが結合して――)
 その正体に思考をめぐらせる暇はなかったが、それが危険な物体であることは瞬時に判断できた。

「何かありましたか?」
 背後から若い男の声がした。ミスルギとイズルハの騒動を耳にして甲板へとやってきた兵士だろう。ひとりではない。複数だ。
「来るな!」
 ミスルギは叫んだが、そうするべきではないと直後に思った。息を吸い、声を出し、目の前の相手ではなく背後の人物を気にかけるということが戦場でどれだけ不用意なことか。
 その剣閃はさながら光だった。月光の迸りがイズルハの左手から伸びるや、正確無比にミスルギの首元に忍び寄ってきた。光を掴むことができぬと同様、それは不可避といえる一撃だった。

 次の瞬間、ミスルギは海の中に落ちていた。頭が痛かった。海の底へと沈んでいく。だんだんと海面と光が遠くなっていく。せっかく着替えたのにまた濡れてしまった。自分はいつもこうだ。ミスルギはそんなことを思った。



 死傷者数、91人。
 たったひとりの人間がわずか半刻の間に引き起こした出来事としては十二分ともいえる量ではあるが、恐るべきはその死者率だ。その剣による死者、90人。すなわち1人の負傷者を除き、90人があの女に首を切られて死んだ。

《皇護の刃 イズルハ》
 弱冠15歳にして〈皇護の刃〉の役職に就いた天才剣士の強さは理解しているつもりだった。だが、味方として彼女がいる場合と、敵として対決する場合を比べると恐ろしさは段違いだ――《海部の将 ミフネ》は苛々しながら揺れることのない地面に足を打ち付けた。
 イズルハがなぜ剣を味方に向けることになったのか、その理由は明らかだ。というのも、彼女は右手に半球をふたつくっつけたような形の物体を持っていたからだ。神樹の実と災害獣が結合したものにしか見えなかった。天才剣士はその〈災害種〉とでも呼ぶべき存在に心を操られているらしい。

 最初に切られたのは甲板にいた物見の兵士たちだ。正確にいえば、イズルハに相対した者はその前にひとりおり、その人物との間で起きた諍いを聞きつけたのだろう彼らは、一瞬のうちに首を切られた。
 イズルハはそのまま船室に入り、船の中にいたものを次々と斬殺していった。幸いだったのはまるで夢見心地のようなその足取りで、逃げること自体は容易ではあったのだが、多くの者は〈皇護の刃〉が襲いかかってくるなどということは夢想だにせずに無防備な状態で殺された。
 ミフネら、辛うじてイズルハの異常に気付いた者たちが船を逃げ出して船員がいなくなると、イズルハは舳先から跳躍して本土の港へと飛び移った。彼女の足取りはあくまでゆったりとしていて、しかし止まることはなかった。その爪先は首都のトポカ宮を向いていた。
(首都を取る気か、それとも青武帝が狙いか………)
 どちらにせよ、その行動は看過できるものではない。ミフネら生き残りはイズルハの向かう先に回り込み、彼女の動きを食い止めようとした。

 十人の剣士が差し向けられた――ひと太刀も浴びせることができないまま全員が首を切られた。
 弓兵隊を組織して矢の雨が降らせた――すべての矢が弾かれ、弓兵は切られた。
 長銃で狙撃させた――眼前に作り出された次元の破断によって行き先を歪められた銃弾は狙撃手の後頭部に突き刺さった。
 氷結術師が氷の壁を作った――イズルハの右手の〈災害種〉が輝くや、氷はすっかり溶けてしまった。

 何もかも、〈皇護の刃〉には通用しなかった。いまや皇帝の敵となった、ただの〈刃〉には。トポカの方角へと向かうその足取りだけはゆったりとしていたが、戦闘となれば電光石火の動きであり、こうなると戦闘をせずに青武帝を逃がすほうが得策なのではないかと、そんな消極的な考え方さえ鎌首を擡げていたミフネは、仮組みの戦略室――という名の天幕の中でひとり地図を眺めながら腕を組んでいた。

「珍しい顔をしているな」
 と天幕の中に入ってきた女が涼やかな声で言った。
 ミフネは両の手を大袈裟に打ち付けたあとで両手を広げ、彼女を歓迎した。「おお、ウズメ。なんだい、おれの真剣な顔に惚れちまったか?」
「あんたがわざとらしく三枚目を気取らなければそうなっていたかもしれないな」と《水弾の射手 ウズメ》は地図を広げた机を挟んでミフネの対面に座り、魔力で変化させたその白く淫靡な艶めかしい足を組んだ。「これ以上、イズルハに干渉するのは危険だな。ひとまず、彼女の進行方向にいる住民を全員別の地域へと逃したほうが良いだろう……もちろん青武帝もだ」
「それができりゃあ良いんだがなぁ」と肩を揺らしてミフネは笑った。「もうじき陽が暮れるとなれば、伝達も避難場所の確保も容易じゃない。それに、他の4カ国は既に災害獣を討伐し終えているのも問題だ。この状況で帝が逃げ回るとなれば、イースラは他国に潰されかねんな」
「とはいえ、これ以上打つ手があるか? これ以上、無為に戦死者を出すことは避けたい」

 ある、とミフネは断言することができなかった。
 イースラ最強剣士はまさしく無敵だ。止めようがない。
 だが、と頭に浮かぶのは、彼女と相対した91人の中で、唯一生き延びた女のことだった。たったひとり、たったひとりだけ生き残ったあの女は、何かイズルハの隙を突く方法を心得ているのではないだろうか。だから、生き延びたのではないだろうか。

「あいつはどうした? ウズメ、あんたが海から引き上げたんだろう? 同行していると聞いたが」
「ミスルギのことか? そうだ。水は多少飲んでいたが、溺れるほどではなかったし、頭に打撲傷はあったが深くはない。ただ……」
「ただ?」
 女ながら武人の心構えをしている女が珍しく口籠ったので、ミフネは首を傾げた。
「えっと、なんか……『なんでおれは生きているんだろう?』ってぶつぶつ言ってて………」
「はぁ? 思春期かよ」



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